半ヴァンパイアは自傷する
深夜、私はマーシャさんのベッドから抜け出して、宿の庭にやってきた。
結局、私は我慢できなかった。
吸ってはいけない。噛みついてはいけない。そう思っていたはずなのに、気が付けばマーシャさんの首筋に舌を這わせていた。
あと少しで牙を突き立てるというところで、マーシャさんが寝返りをうった。そこではっとして、いてもたってもいられなくなって、逃げてきた。あと少しで、本当に血を吸うところだった。
本当に、情けない。
「は、ぐ」
宿の壁に背中を預けて座り込み、袖をまくった腕に噛みつく。前腕の一番柔らかい膨らんだところに牙を突き立て、腕の肉に牙を埋める。
今までも何度かやった、我慢のための自傷。
腕は痛いし、口の中に零れ落ちる自分の血は美味しくない。ざらついた感じの味で、飲み込もうとしても受け付けない。
それでも、牙と歯茎だけは満足する。気持ちのいいしびれと、疼きが解放されていく感覚。牙が肌を突き破る瞬間だけ、それを味わえる。
「ふぅ」
一度牙を抜いて、少しずらした位置にもう一度噛みつく。一瞬の気持ちよさと、再生が終わるまで続く傷の痛み、それに自分の血の味を受け止める。
結局我慢できなかったけど、マーシャさんを傷つけることはなかった。今感じる痛みはそれを証明しているような、安心感のある痛みのような気がする。
でも、情けない。
結局、私は何にもできない。
何もできなかった。
よく考えてみたら、私は何かを成し遂げたことがほとんどない。
ご主人様やギドと王城からギルバートを奪い取ったときも、私は何もしていない。サイバと戦ったけど、結局取り逃がした。
交流特区でエラットと戦った時も、何もできなかった。エラットからモンドさんを逃がすこともできず、エラットを追いかけて、倒すこともできなかった。
最近もそうだ。下水道では、私一人だけ負けて、ギドに頼って、生き延びた。北西区では赤ローブに殺されかけて、ヘレーネさんに助けられた。
私は、何もできない。
人間に戻りたいと思っていた時も、何もしなかった。吸血を我慢することも、ヴァンパイアレイジを使わないようにしてたことも、ただの現状維持でしかなかった。人間に戻る方法がわからないから、とりあえずそうしてただけ。
今となってはヴァンパイアレイジを使うことをためらわなくなってた。いつの間にか、ハーフヴァンパイアの力に頼って、あてにして、考えなしに行動しするようになっていた。血だって飲みたいし、飲んでもいい状況になったらきっと飲む。
やっぱり、魔物じゃダメなんだよ。ハーフヴァンパイアでもいいなんて、思うべきじゃなかった。
「あ、ぐ」
ボタボタと血が滴る。いつまでたっても飢餓状態が収まらないのは、たぶん自分でつけた傷と失った血液を再生してるせい。
でも、やめられない。
こうしてる間は、安心できるから。
夜が明けるまで、こうしていよう。
毎晩ずっとこうしていよう。こうしていれば、マーシャさんを傷つけることはない。一緒に居られる。
「う、ぐ」
腕が痛い。
歯茎がしびれる。
血が滴る。
自傷の感覚に溺れていた私は、後ろから近づいてくるあの人に気づかなかった。
「こんばんわエリーさん。最近よく合いますわね」
「っはぁ!」
後ろから声をかけられて、驚きすぎて変な声が出た。慌てて振り返ると、ヘレーネさんがニヤニヤと私の顔を覗き込んでいた。
「大きな声を出すと、人が来てしまいますよ?」
ヘレーネさんは唇に人差し指を当てて、驚いてちょっと大きな声を出した私を注意する。でも私はそんなことを気にしている余裕はない。
「何しに、来たの?」
私もマーシャさんも、ヘレーネさんが髪や瞳の色を変えて”レーネ”と名乗って王城に出入りしていることを知っている。もしかして、口封じに来たのかな。
今日、朝になったら王都を去る。だからもう関わらないと思ってた。もう会わないと思ってた。ストリゴイも、ヘレーネさんも、もう私には関係ないと思ってたのに……
「エリーさんにお話があって来ました」
「話?」
警戒は解けない。本当にそれだけで来たとは限らない。ヘレーネさんなら”ついでに口封じもしておきましょう”なんて言いかねない。飢餓状態の私では手も足も出ないだろうけど、それでも、何とかするしかない。
「エリーさん、もしかして”人間になりたい”と思っていませんか?」
平然とヘレーネさんが言ったことに、私はすごく動揺した。
「……え? なんで」
思ってる。
ううん、思ってた。
もう諦めた。
「だってこんなところで自慰に浸るくらい、人の血を飲もうとしないんですもの」
「ち、違う! そんなんじゃ」
「しーっ、静かにしてくださいな」
我慢のために自分の腕を噛んでいただけなのに自慰などと言われて、思わず大声を出してしまった。声のボリュームを押さえつつ、抗議する。
「そう言うんじゃないよ。変なこと言わないで」
「違うんですか? 我慢できない欲望を誰にもぶつけられないから、自分で慰めてるんですよね? やっぱり自慰じゃないですか」
「違うってば……そんなこと言いに来たの?」
「いえいえ、エリーさんは人間になりたいと思っている……かもしれないと思いまして、確認しに来たんです。もしそうなら、少しお聞かせしたいこともあります」
なんで、そう思ったんだろう。ギドにしか話してないはずなのに。
「サイバさんはアランと戦った時、『ヴァンパイアじゃない』と叫びながら殴られたそうです。それとルイアで初めて私と会ったときも、私があなたは吸血鬼でしょうと言ったら強く否定していましたわね」
そう言えば、そうだった。
「それに、エリーさんは血を飲まないようにしていますよね? ちゃんと血を飲んでいればあの人形……あの赤いローブのことなのですが、アレに負けるはずありませんからね。エリーさんのことをたくさん考えているうちに、エリーさんは人間になりたいのではないかと思ったのです」
どうして、この人はこんなに私に関わって来るんだろう。私は会いたくないし関わりたくないのに。
「それで、どうなんですか?」
この人のことはよくわからない。私はこの人を敵だと思ってるし、戦ったこともある。なのにヘレーネさんは私のことを敵だと思ってないような気がする。赤ローブに殺されかけた時も、酷いことされたけど助けてくれた。マーシャさんに私の正体を暴露したときも、飢餓状態にされたり血を飲まされたりしたけど、それ以上何もせず帰っていった。
今だって飢餓状態の私くらい簡単に殺したり攫ったりできるはずなのに、ただ会話するだけ。
「……なりたかった」
正直に答えてしまった。なんて答えればいいのかわからなくて、口が勝手に動いてしまった。
「なれますよ」
ヘレーネさんはにっこり笑って、そう言った。
なれる? 私が人間に?
「……嘘つき」
どうして、私を、そうまでして貶めるのかわからない。きっと嘘だ。そんな都合のいいことあるわけない。
今になってそんなこと言われても、ただ惨めな気持ちになるだけだよ。
「そんなに睨まないでほしいですわね。嘘じゃありませんよ。少し長いお話になりますけど、聞いてくださいな」
「帰って」
一歩引きつつ、そう言う。強気なことを言える状況じゃないけど、もうヘレーネさんと話をしたくなくなかった。
「お話を聞いてくれるまで帰りませんわ」
目の前にいたはずのヘレーネさんの声が、すぐ後ろから聞こえた。
「え?」
気が付くと後ろからホールドされていた。ルイアで戦った時のように、腕ごとがっしりと。
「エリーさんの意思なんて知りませんわ。あ、でも飢餓状態のままだとちゃんと聞けないかもしれませんわね」
さっきまで私が噛んでいた左腕の手首を掴まれ、自分でつけた噛み傷のあたりをグイっと私の口元に持ってくる。
「さ、続きをどうぞ?」
”噛め”ということかな。絶対嫌。
「放して」
自慰とかなんとか言っておきながら目の前でやらせようとするなんて、本当にこの人は酷い。性格が歪んでる。
睨みつけるくらいしかできそうにないから、睨む。足も動かせるから、ジタバタしてみる。ヘレーネさんの足に踵を叩きつけてみるけど、きっと痛くもかゆくもないんだろうね。
「エリーさんたらかわいいですわね」
ヘレーネさんはそう言ってニヤニヤしながら、私の耳元で話し始めた。
私が何を言って、何をしても、この人はニヤニヤと笑う気がする。