四話『加藤さん』
支部は四階建てになっていて、中には、連絡班、総務班、医療班など、獣害対策課の全ての班が入っている。そして、関東第一支部を除き、全国全ての支部の間取りは同じなので、特定動物捕獲管理班は、一階、建物の裏口から一番近い場所にあるはずだ。
「まあ、中の案内はいらんよな。施設にいた時、向こうの支部に、後方班として入ってたやろうから」
「はい。捕獲管理班は、一階の奥ですよね?」
「せや。すぐに出動出来るようにな」
僕はすれ違う人に挨拶をしながら、八幡さんのあとをついていく。八幡さんはどうやら気さくな人らしく、他の班員や職員たちと、和気藹々と接している。
やがて、捕獲管理班の待機室へと到着すると、八幡さんがドアを開け、「ほら」と中に入るよう、視線で促した。
部屋の中は、中央に長いテーブル、端にソファーとテレビがあるだけで、他には特にこれといって何もない。さらに、誰もいないらしく、部屋の中にはコーヒーの香りと共に、静寂が優雅に漂っている。
僕がゆっくりと足を踏み入れていくと、パタン、とドアが閉まる音が背中から聞こえた。
その次の瞬間だった。
僕の本能が殺気を感じて、僕は咄嗟に振り返った。
すると、勢いよく、腕が僕に向かって伸びてきていた。それは八幡さんではなく、さらに完全な攻撃の意思を伴っている。
僕は反射的に屈んでその腕を避けると、その相手の胸倉へと手を伸ばし、掴んだ。そしてそのまま、伸び切った相手の腕も掴むと、身体を素早く回転させ、背負い投げの要領で地面へと叩きつける。相手はおそらく人間なので、寸前で勢いは殺しておいた。
すると、床には一人の女性が、仰向けの状態でじっと僕を睨みつけていた。
黒いおさげの髪の毛に、白縁の眼鏡をかけている。切れ長の目と筋の通った鼻、そして小さな口が、綺麗に整頓された状態で顔の枠の中に納まっている。
整った顔だな、と思ったと同時に、僕の背筋を鋭い悪寒が駆け抜けた。
冷たい瞳。
その目には、どうしてか、僕に対する憐れみのような感情が滲んでいるような、そんな気がした。
すると、ドアが開き、溜息が聞こえてきた。
「……あの、加藤さん。新人いきなり襲うって、野蛮にもほどがありますよ」
加藤さん。ということは、この人がもう一人の班員の、加藤萌華か。
僕は慌てて手を離し、「す、すみませんっ」と謝る。
「つい、反射的に……」
加藤さんはおもむろに立ち上がると、服を手で払い、八幡さんへと視線を向ける。
「天才だって聞いていたから、調べただけよ」
八幡さんは「いや」と呆れる。
「他になんぼでも調べる方法あったでしょ。……で、わかりましたか?」
加藤さんは「ええ」と僕を一瞥する。
「確かに、一瞬見せた獣臭さみたいなものは、持って生まれたものでしょうね。こればかりは、鍛えてどうにかなるものじゃないから」
加藤さんはそう言うと、テーブル席に着き、コーヒーの入ったカップへと手を伸ばす。そして一口飲むと、「でも」と真っ直ぐ正面を見つめる。
「まだ、判断するには尚早ね。いくら施設での成績がよかったからといっても、現場で役に立つとは限らないから」
「それは確かにそうですね。施設でやることなんて、ゲームみたいなもんやから。レースゲーム上手いからって、現実での車の運転が上手いとは限らんのと同じで」
八幡さんは「ま」と僕の肩に手を置く。
「それでも、期待はしてんで。……ほな、オレは報告書の作成残ってるから、作業室に行ってくるわ。加藤さん、あとの説明頼みますー」
八幡は悪戯に笑うと、加藤さんの答えも待たずに、ドアを閉めて行ってしまった。
部屋には僕と加藤さんの二人だけ。
気まずい沈黙が降りる。
とりあえず、まずは挨拶をしなければ。
僕は「あ、あの」と加藤さんに身体を向ける。
「今回、新しく尾角班に配属されることになりました瀬織流と申します。不束者ですが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」
加藤さんは僕の方を見ることなく、「よろしく」とそげない返事を投げた。
それからまた無言の時間となり、山から聞こえてくる鳥の囀りだけが、虚しく部屋の中に響き渡る。
しばらくすると、「ねえ」と加藤さんが不快な眼差しを僕に向ける。
「気が散るから、傍に立つの、やめてくれない?」
「は、はい。えっと、席は決まっていますか?」
「いえ、特に」
僕は慌てて、加藤さんの斜め向かいの席へと浅く腰を下ろした。しかし、それからしばらく待っても、一向に加藤さんが説明を始める気配がないので、僕は「あ、あの」とおそるおそる声をかける。
「えっと、説明って……」
加藤さんは「ないわ」と即答する。その予想外の答えに、僕は「え?」と面食らう。
「説明はないのですか?」
「わたしがあなたにしたい説明は、特に思い浮かばない。だけど、あなたが訊きたいことがあるのなら、それに対してわたしには答える義務があるから、答えるわ」
「し、質問ですか。え、えっと」
急に言われると、僕も動揺してしまい、質問したい内容が思いつかない。すると加藤さんが、大きな溜息を吐く。
「あなた、本当にそんな落ち着きがなくて大丈夫なの? 河童が出てきて慌てふためいても、誰もあなたを助けてくれないわよ」
「……すみません」
加藤さんは白い横目を僕に向ける。
「これからは毎日、四人一組で行動していくことになる。あなたが和を乱す行動をして、わたしたちに迷惑をかけることがあったら、即座に研究施設に戻って貰うわ。……場合によっては撃ち殺すことだってあるから、それだけは肝に銘じておいて」
撃ち殺す。僕は「は、はい」と唾を飲み込んだ。
少しの間を空け、僕はとりあえず、思いついた質問を投げてみる。
「あの、ここでの一日の流れを教えて貰いたいのですが」
加藤さんはここでようやく、僕に身体を向けた。
「……出動要請や捜索時間によって変動するけど、基本的には七時に集合し、そこから午前、午後を訓練と探索にあてることになる。どちらが先かは、その日になってみないとわからない。あとは、報告書の作成などの雑務を空いた時間にこなし、ミーティングをして終了、宿舎へと戻る。これの繰り返しね」
「えっと、探索って、本当にこっちから河童を探すんですよね?」
それを聞いた加藤さんの眉間に、皺が刻まれる。
「当たり前でしょ。あなた、わたしたちの最終目標、わかっているの?」
「はい。『河童の殲滅』です」
「そう。そのためには、こちらから河童を狩り尽くさないといけない。待っているだけだと、彼らは増えていくだけ。だから、わたしたちは自ら山に足を踏み入れるの。例え、命を落とす危険があったとしてもね」
加藤さんの声には、明らかな怒気が滲んでいた。
だけどそうだ。僕は自分の気持ちが緩んでいたことを、猛省した。
僕たちの目標は、この世界から河童を殲滅させることにある。僕も当然、そのために河童ハンターを目指していたし、河童ハンターになったこれからは、そのために人生を捧げる気概で臨まなければならない。
この世界では、何人もの人間の命が、野生動物によって失われている。
毎年、鮫の牙や熊の爪で数人、蛇や蜂の毒によって数十人が死んでいる。しかし、それらは確かに危険ではあるものの、人間という生物にとって、猛威にまではなっていない。彼らに比べると、感染症などを運んでくる蚊やダニの方がよっぽど脅威だろうが、それでも現在、この国において、蚊やダニによる感染症で亡くなる人の数は、極めて少数だ。
しかし、河童は違う。
河童は毎年、数百人の人間の命を奪っていて、その数は年々増え続け、五年後には年間の被害者数が千を超えるだろうと言われている。
ただ、死者数こそ多いものの、それは一番の問題ではない。死者数だけで言えば、例えばカバは毎年、アフリカで三千人近くの犠牲者を出しているものの、だからといって、カバを殲滅させようという動きはない。
河童が厄介なのは、その生態だ。
熊や蜂、カバなどの生物は、意味なく人間を襲ったりはしない。大抵の場合、人間の方から縄張りに足を踏み入れたり、彼らの子供に近付いたりと、人間が彼らの攻撃本能を刺激する、何らかの行動を起こしている。
ただ、河童は生物の中で唯一、娯楽として人間を殺害する。
勿論、捕食目的で人間を狙う時もあるものの、彼らは腹が減っていない時でも、自ら人間を探し、そして勝てると見るや否や、いたぶって殺害する。その方法は惨憺たるもので、施設にいた頃、僕も何度か犠牲者の弔い作業にあたったことがあったが、しばらく食事が喉を通らなくなったほどだ。
だから、僕たちは市民のためにも、この世界から河童を消し去らないといけない。
僕は深く息を吐き、「すみません」と謝った。
「……それは、何に対しての謝罪なの?」
眉をひそめる加藤さんに、僕は伸びていた背筋をさらに伸ばす。
「自覚の足りない、不甲斐ない自分を見せてしまったことに対してです。……正直、ずっと憧れだった河童ハンターに選ばれたことで、浮かれている部分がありました。しかし、そうですよね。大事なのは、これからですよね」
加藤さんは小さな溜息を吐く。
「当たり前のことを、いちいち言葉にしなくていいわ」
僕は「すみません」ともう一度謝る。加藤さんはカップを手に持つと、「ところで」と眼鏡の奥の目を、僅かに細めた。
「わたしから一つ、あなたに質問してもいいかしら?」
「ぼ、僕に質問ですか? 大丈夫ですけど」
僕は手に掻いた汗を、太ももで拭った。加藤さんからは、目に見えない威圧感のようなものが発せられていて、目を合わせるだけで、どうしてか緊張してしまう。
加藤さんは真っ直ぐ僕を見つめる。
「あなたはどうして、河童ハンターを目指そうと思ったの?」
「それは、ハンターを志すことになったきっかけ、ということですか?」
「それ以外にどんな解釈があるのか、教えて貰えるかしら」
僕は「で、ですよね」と後頭部に手を当て、苦笑した。そして、あの日、あの光景を頭に思い浮かべる。
「……えっと、僕は昔、河童に襲われたことがあったんです。友人の家に遊びに行った帰り、森の中を抜けようとして、突然、襲われました。その時は死を覚悟したのですが、偶然通りかかったハンターの方に助けられました。そしてその際、僕を助けてくれたそのハンターの方に、『ハンターになれ』と言われました。『お前は俺に助けられたんだから、今度はお前が誰かを助けるべきだ』と」
「その姿が格好よくて、河童ハンターになりたいと思ったってわけね」
僕は「いえ」と頬を掻く。
「確かに、それもあります。しかし、それはあくまできっかけの一つであって、僕が本当にハンターになりたいと思ったのは、河童に襲われたからです」
「襲われたから?」
「はい。僕は河童に襲われたあとしばらくは、ハンターになりたいという明確な意思を持っていませんでした。僕を助けてくれた人のような、あんな格好いい大人になれたらいいな、くらいには思っていましたが、それはスポーツ選手になりたいと同じ、遠い夢のようなものでした。しかし日が経つにつれて、僕の中で恐怖が大きくなっていきました」
僕は自身の肩に手を触れる。
「襲われてから少しの間は、まだ実感が湧かないと言いますか、ある種の興奮状態にあって、自分に起きたことがよくわかっていませんでした。しかし、時間が経って落ち着き始めると、次第にあの時の光景が鮮明に蘇ってきて、河童に対する本能的な脅威と、自分が死の扉に手をかけたという事実から、強い恐怖感に襲われました」
「普通の人は、そこで恐怖に慄いて、二度と河童には関わりたくないと考えるんじゃないかしら」
「ええ。実際、僕も最初はそうでした。でも、大きくなるにつれて、自分にだけ向いていた視線が、周囲に向くようになりました。そして、思ったんです。家族や友人、自分の大切な人たちを守らないとって」
僕は情けない笑みを零す。
「正直、自分が実際に襲われるまでは、僕、河童なんて本当にいるのかって、疑っていたくらいなんです。勿論、学校で河童の危険性については習いますし、ニュースでも毎日、河童が出たことによる避難指示だったり、河童による被害が報道されていたりして、それが現実にいるんだってことはわかっていたんですけど、それでも自分とは関係のない、どこか遠い世界で起きている絵空事のような、そんな感覚でした。でも、きっとそれって、実際に河童と接したことがない人はみんなそうだと思うんですよね。だから、自分は襲われないだろうという根拠のない自信で危ない場所に入ってしまったりして、殺されてしまう。……だから、河童に襲われて河童の恐ろしさを知っている僕が、守る側に回らなくちゃいけないって、そう思ったんです」
加藤さんはじっと僕を見つめたあと、小さな棚を指差した。
「……あそこに、コップがある」
そして次に、部屋の隅に設置されている水道を指差す。
「ここの水、とても美味しいから、そのまま飲めるわ」
僕は「すみません」と席を立ち、棚へと向かう。長広舌に、喉が渇いたと思われたのだろう。もしかしたら、話が長いと暗に言われたのかもしれない。
しかし実際、緊張から喉が渇いていたので、僕は棚を空けた。すると、棚の上の段には四つのコップと皿、そして下の段には、飲み物や菓子などが入っている。
「コップ、四つありますけど、僕のはどれですか?」
すると、加藤さんは一瞬の間を空け、「いいえ」と小さく首を振る。
「……その奥の箱の中に新しいのがあるから、どれでも自由に、好きなものを選んでくれて構わないわ」
僕は箱を取り出し、その中から、無難なコップを一つ、選んだ。
しかし、僕は四つあるコップを見て、少し遅れて気がついた。
そうか。すっかり忘れていた。
僕がこの班に入ったということは、誰かが一人、その前に抜けたということ。
聞いた話では、僕の前にいたのは、三十代後半の男性だった。抜けた原因は濁されて教えて貰えなかったが、おそらくそういうことなのだろう。
ふと、ここでそのことについて加藤さんに訊ねようかとも思ったが、訊くなら八幡さんの方がいいような気がして、僕は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
僕は新しいコップに水を注ぐと、一口、飲んでみる。すると、予想していたよりも随分と冷たい水で、少し驚く。しかし、確かに加藤さんの言う通り、雑味のない、とてもいい水だ。これが、この土地の味なのだろう。
僕は「ところで」と何気なく訊ねる。
「加藤さんは、どうしてハンターになろうと思われたのですか?」
その質問を聞いた途端、コーヒーを口へと運ぼうとしていた加藤さんの動きが、ぴたりと止まった。そこから動かなくなったので、僕は心配になり、「あの」と声をかける。
「大丈夫ですか?」
加藤さんは小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「……昔、家族を全員、河童に殺されたの」




