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五十七話『悪』

 僕は深呼吸をして、今、僕に何が出来るのかを考えた。すると、その答えはすぐに見えてきた。


 僕に出来ること。


 それは、残り僅かな時間を使って、これを瑞己に届けることだ。


 そしてそのためには、まず、残っている三匹の河童を倒さなければならない。


 僕は服の上から、懐に入れた紙袋に触れると、立ち上がり、河童たちが下がっていた方向へと身体を向けた。


 すると、その奥から、手を叩く音が聞こえてきた。


「……いやはや、素晴らしいね。ハンターたちを赤子のように殺したあのスイセンを、死に損ないの手助けがあったとは言え、倒してしまうなんて」


 暗がりから出てきたのは、久千管理官だった。姿は全く変わらないのに、僕の目には以前とはまるで違う人物に見えた。


 僕が前のめりになると、「おっと」と久千管理官は掌を向ける。


「そこから一歩でも近づいたら、死んじゃうよ」


 すると、久千管理官の後ろから、三匹とはまた別の二匹の河童が現れた。そして、その河童たちの間に、喉元に鋭利な爪を突きつけられた、瑞己の姿があった。


「瑞己っ」


 そう叫びながらも、僕は動けず、ぐっと拳を握り締める。そんな僕を見て、久千管理官は「アハハ」と笑う。


「賢明な判断だ。河童たちの爪には、こちらが用意した毒を染み込ませてある。尾角くんや八幡くんの時と同じように血清は効かないから、少しでも傷がつくと、もう助からないよ。そして、私が合図をしたら、河童は躊躇いなく喉元を切り裂くから」


 河童が瑞己の喉に爪を当て、瑞己は尋常ではない量の汗を垂らしながら、顔をのけ反らせている。


 僕は「わかった」と持っていた散弾銃を下ろし、両手を上げる。


「僕は絶対に動かない。……どうやったら、瑞己を解放してくれる?」

「なるほど。無駄な悪あがきはせず、交渉を選択したか。ではまず、キミが持っているであろう物証をこちらに渡して貰おう。相模が記録していたものだ」


 僕は懐から紙袋を出したものの、すぐには渡さない。


「先に、瑞己を離してくれ」


 それを聞いた久千管理官は、目を丸くした。


「何を馬鹿なことを言っているんだ? キミは状況が把握出来ていないのか。私とキミは今、対等な関係ではない。私はキミからそれを受け取らずとも、キミを殺して奪ってしまえばいいだけの話。言わば、これは交渉ではなく、命令だよ。ほら、早くその袋をこちらに渡しなさい」


 久千管理官は手を伸ばしたものの、「しかし」と視線を斜めに上げる。


「……これでは、不良のカツアゲみたいで恰好悪いか。なら、一応こちらからも、ささやかな贈り物をしよう。瀬織くん、一番から五番まで、好きな数字を言いなさい」


 僕は答えるか逡巡したものの、沈黙が怖く、「三」と適当な数字を述べる。


「では、キミの利き腕は?」


 僕が「右」と答えると、久千管理官は「よし」と頷き、並んでいた河童のうち、僕から見て、右から三番目の河童を指差した。


「……キミ、僕から少し離れて、死んでくれ」


 久千管理官がそう言うと、その河童は指示通り、歩いて久千管理官から離れていく。


「ちょっと待て。一体、何を、」

「キミは黙って見ていなさい」


 すると、ぷすん、と聞き馴染みのある音が聞こえたあと、その河童は身体を赤く染め、膨らみ始めた。


 そんな、まさか。


「今すぐやめさせっ、」


 僕が止めようとしたものの、河童の膨張は限界を迎え、やがて爆発した。その様子を見て、久千管理官は満足気に両腕を広げる。


「アハハ。傑作だ。実は私、和平交渉の際、初めてこの目で河童が爆発するのを見て、その美しさに感銘を覚えたんだよ。ほんの数秒前までこの世に存在していた命が、いとも簡単に、そして派手に消失する。真の芸術性というものは奥行きにあるのだと知って、ぞっとしたよ」

「……久千管理官。あなたは、命を何だと思っているんだ?」

「命は命だよ。それ以上でも、以下でもない。この世の摂理では、強い者が弱い者の命を握る。今は、爆発した彼が弱者で、私が強者だった。……そしてその関係性は、キミたちにも当て嵌まる」


 久千管理官がこちらに手を向け、僕は紙袋を投げた。久千管理官はそれを受け取ると、長い息を吐く。


「それにしても、本当、余計なことをしてくれたね。事がここまで大きくなってしまった以上、全てを隠すことは出来なくなってしまった。ただ、物証がなければ、噂はあくまでただの噂に過ぎない。これさえ手に入れば、問題はない。そしてあとは、ここに参加している奴を全員、消してしまえばいい」

「そんな簡単にはいかない。ここにいなくても、もう知っている人はたくさんいるはずだ。たとえ、ここにいる人間を全員殺したって、これから先、あなたたちへの疑いの目が絶えることはない」


 久千管理官はふっと嘲笑するかのように、息を吐く。


「疑いの目など、恐るるに足りないよ。人間社会においての灰色は、白だからね。そして、真実に近付こうとする者が現れたら、キミたちのように、片付ければ済むだけの話。幸運にも、私たちは素晴らしい兵力を手に入れたのだから」


 久千管理官は傍にいる河童の肩に、手を添える。


「人間を使って人を殺すのは、それなりの面倒事を背負うことになる。金はかかるし、裏切る可能性もある。当然、捜査が為されるから、そこから私たちの情報が漏れることも警戒しなければならない。一方、河童が人間を殺すのは災害のようなものだし、提供物だから特別な費用もかからない。そして極めて従順で、あとに余計な情報が残ることもない。……人間を使うのが馬鹿らしくなるほど、実に優秀な子たちだ」


 肩を撫でられる河童は無表情で、じっと正面を見つめている。彼らは仲間が自爆したことに対し、何も感じていないのだろうか。


 久千管理官は「さて」と僅かに首を傾ける。


「先ほどまで降り注いでいた銃撃音も、すっかり止んだ。あれだけの数の河童を撒いたのだから、そろそろ片付いただろう」


 久千管理官は懐から拳銃を取り出し、僕へと向ける。


「まあ、放っておいても死んでしまうだろうけど、ここまで迷惑をかけられたんだ。最後くらい、私がこの手で始末をしよう。……最後に何か、言いたいことはあるかい?」


 僕は真っ直ぐ、久千管理官を見据える。


「あなたたちの金と権力のために、多くの人間が犠牲になっている。それに対して、何も思わないのか?」

「愚問だな。特に思うことなどないよ。なら逆に訊こう。キミは、ライオンが狩りをすることに、疑問を抱くのか?」

「ライオンと人間は違う」

「いや、同じだ。形が違うだけで、生き物としての本質的な部分は、人間だって他の動物と変わらない。ただ、彼らにとっての牙や爪が、人間では金と権力となる。だから私は爪と牙を研ぎ、弱い者を狩る。……最大の違いは、他の生き物たちは自然界のヒエラルキーの中で争うが、自然界から逸脱した人間は、同種族間で食い合っていることくらいだろう。まあ、どちらにせよ、私は生き物として、本能に忠実に生きているだけだよ」


 滔々と持論を述べる久千管理官の瞳は、河童たちのものに比べると、ずっと濁っているように見えた。


 しかし、確かに、久千管理官の言うことも一理あるだろう。人間にも欲という本能が備わっている以上、それを満たそうとするのは、生き物として当然の帰結だ。


 ただ、人間には強い理性も備わっていて、それにより、人は自己の欲望と『他者』を天秤にかけることが出来る。そして、それが出来るからこそ、人は自然の摂理から外れた、が正しい表現なのかはわからないが、他の生物たちが属する自然環境とは異なる次元での生活が、可能となっているのだ。


 だから、『本能』を理由として、自己の行為を正当化しようとしているその久千管理官の言葉は、詭弁に過ぎない。


 人は人である以上、人らしくあるべきだ。


「……僕は、あなたの考えが正しいとは思わない」


 それを聞いた久千管理官は、口元に薄い笑みを乗せる。


「是非など、どうでもいい。私にとって重要なのは、私が満たされるか否か、ただそれだけだよ」


 混濁していた久千管理官の瞳が、澄み切ったものとなった。


 僕は銃口ではなく、じっとその瞳を見つめる。


「おい、待てっ、やめろっ」


 瑞己の叫び声が響いたと同時に、激しい発砲音が空気を振動させた。


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