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四十六話『白い眼鏡』


 目を開けると、薄らと灯る懐中電灯の明かりが、誰もいない空間を虚しく照らし出していた。僕は腕時計に視線を向けると、時間は午後十時。一時間も眠っていない。やはりどうしても、この環境では深い眠りに就くことは出来ないようだ。


 僕は身体をもたげると、閉まらない扉の隙間から外の様子を見た。すると、出てすぐのところに座り、空を見上げる加藤さんの姿があった。山に入ってからは無骨なウェアを着て白い眼鏡をかける、いつもの加藤さんに戻っている。


「まだ、交代の時間ではないと思うけど」


 加藤さんはこちらを一瞥することなく、空を見上げたまま言った。加藤さんの視線を追うと、葉の隙間から、こちらを窺うように丸い月が顔を覗かせていた。


 僕は加藤さんの隣へと腰を下ろす。


「なかなか眠れなくて。それに、外に出ると危ないですよ」

「危険なのは中でも一緒。それより、身体は休めておくべきよ。明日は、何が起こるかわからないんだから」


 僕は「そうですよね」と頷きながらも、動かない。少しだけ、ここで冷たい風を感じていたい気分だった。


 相変わらず、加藤さんは自分から余計な話はしない。だから、会話が止まると必ず、こうして沈黙が訪れる。そして普段の僕なら、この沈黙に浸ったままでいるのだが、月の引力のせいなのか、ふと、くだらないことを訊ねてみたくなった。


「そういえば加藤さんって、どうして白い眼鏡をしているのですか?」

「……どうして、そんなことを訊くの?」

「何となく、気になったからです。だって、珍しいじゃないですか。白い縁の眼鏡だなんて。何か、理由でもあるのかなと思って」


 加藤さんは軽く眉をひそめながらも、「別に」と答える。


「特別な理由なんてないけど。ただ、白が好きなだけ」

「へえ。どうして白が好きなんですか?」

「白を好きな理由がないから、わたしは白が好き」


 僕は、加藤さんが何を言っているのか理解出来ず、返答に詰まる。


「……理由がないから好きとは?」

「そのままの意味よ。わたしは、小さい頃からずっと白が好きなの。そこには多分、意味なんてなくて、子供だったわたしが、直感で白が好きだって思った。だけど、大人になってからの好き嫌いは、大抵の場合、それを好む、または嫌う理由がある。例えば、わたしは赤が嫌い。理由は、血と同じ色だから。でも、それはただ、赤と血が同じ色だったからわたしは赤が嫌いなだけで、本当のわたしは、実は赤色が好きだったのかもしれない」


 加藤さんは、白い眼鏡を外す。


「大人になると、人は物事を、理屈を通して見るようになる。それは、決して悪いことだとは思わないけど、わたしは感覚も大事だと思う。特に、自然の中で仕事をすることが多いわたしたちには」


 確かに、それは僕も強く実感している。人間は、人間が思っているよりも獣としての本能が残っていて、それは時に、理屈なんて軽く凌駕してしまうほどの大きな力を発揮する。実際、これまでに僕は、何度もその力に救われた。


 加藤さんは「ただ」と表情に苦さを滲ませる。


「正直、白を好きでいようとしている自分もいるから、正確には、わたしはもう純粋に白が好きなのではないかもしれない」

「白を好きでいようとする自分がいる?」

「そう。わたしはあの時、たくさんのものを失って、自分自身も大きく変わってしまった。……だけど、わたしが白を好きでいる限り、あの時以前のわたしもちゃんと生きているんだって、そう思えるために、わたしは今も白を好きでいようとしているのかもしれない」


 あの時。それはおそらく、加藤さんの両親が河童に殺された時のことだろう。


 そして、それ以前の自分が生きていることの証明として、加藤さんは白を好きでいようとしている。それはすなわち、裏を返せば、その時を境に、加藤さんの中の多くの部分は死んでしまったということではないのか。


 普段、加藤さんは決して弱音を吐かない。


 しかし、きっと、僕には想像もつかないような、重くて暗くて痛いものを、加藤さんは心に抱えているのだろう。その上で、加藤さんはもがきながらも、河童という生き物と正面から向き合っている。


 白い眼鏡をそっとかけた加藤さん。


「……とても似合っていますよ」


 加藤さんは一瞬、驚いたような表情を浮かべたものの、今度は無表情ではなく、むすっとした顔になった。


「その言葉、わたしが変装した時にも聞いたような気がするんだけど。わたしにくだらない気を遣っているのなら、不要だから」

「建前ではなく、本音ですよ。あれも似合っていましたし、白い眼鏡も似合っています。でも、僕としてはやっぱりこっちの加藤さんの方が、何だか安心します。変な緊張もしないですし」


 加藤さんは「何それ」と白い視線を僕に向け、立ち上がった。僕も続いて腰を上げ、全身の筋肉を伸ばす。


 耳が詰まったような感覚のあと、秋の虫たちの澄んだ鳴き声が、押し寄せるように聞こえてきた。


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