四十五話『獣』
「絶対に、誰にも見つからない場所がある」
互いの身体から発せられる熱を薄らと感じる、四畳ほどの狭い空間。日の光もほとんど届かず、陰鬱な空気に閉ざされた中、僕と加藤さんは、ただひたすらに、時間が過ぎゆくのを待っていた。
緑の間隙を潜り抜けた雨粒が、落ち葉へと飛び込んでいく。その音は歓喜の声なのか、はたまた死への恐怖から零れる叫びなのか。そしてその時落ち葉は、どんな顔でそれを受け止めているのだろうか。
そんなくだらないことを考えていると、ふと、僕はあることを思いだした。別に、敢えて言葉にする必要はないのかもしれないが、何となく、加藤さんに伝えておいた方がいいのではないかと思い、僕は少し多く、すっと鼻から息を吸い込んだ。
「……そういえば、八幡さんって、お金の使い方が荒かったじゃないですか」
壁に背中を預けて座っていた加藤さんは、瞳だけをこちらに向ける。
「欲しいものはすぐ買って、食べたいものは何でも食べて、ギャンブルから女遊びまで、金に飽かして自分の欲求は何でも満たしていて。僕はその生き様っていうんですかね、それが凄く、格好いいなと思っていたんです」
「だったら、あなたもそうすればいいじゃない。お金ならあるでしょうし」
「あ、いえ。そういう生活に憧憬を抱いていたわけではなく、割り切って人生を楽しんでいるのが、僕にはなかなか出来そうになかったので、羨ましかったんです」
「あなたはうじうじするタイプだものね」
鋭い返しを受け、僕は一瞬、言葉に詰まる。
「……さらに、八幡さんはいつも、太く短い人生を送りたいとおっしゃっていて、そうすれば、自分が死を目前にした時でも、『いい人生だった』と、その死を潔く受け入れられるだろうって」
僕は僅かな間を置き、「ただ」とあの時の光景を思い出す。
「実際は、八幡さんは最期、『死にたくない』と泣き叫んでいました。あれだけ自分の思うように生きて、潔く死を受け入れる覚悟を持っていたのに、それでも八幡さんは、死の恐怖に押し潰されていた」
「それは、彼が死を甘くみていたからでしょう。死は星みたいなもので、遠くには見えるけど、実際の姿なんてわからない。彼は傍まで近付いて初めて、その大きさと恐ろしさを実感した」
それは僕にも理解出来る。
僕は小学生の頃、河童に襲われ、死の扉に手を触れたことがあった。
あの時の、恐怖、絶望、悲しみ、怒り、それらが全身の血肉を震わせた感覚は、未だに僕の身体へと鮮明な記憶として、強く、深く刻み込まれている。その証拠に、今、思い出しただけでも、僕の肌は慄き、細かな粒が隆起する。
加藤さんは「それで」と僅かに顔を傾ける。
「結局、何が言いたいの?」
「いえ、ただ、やっぱりみんな、死ぬのは怖いんだなと思って」
加藤さんは呆れるような表情を浮かべる。
「当たり前でしょ。死ぬのが怖くない人間なんていない。八幡くんじゃないけど、どれだけ口では強がっていても、いざ死が目の前まで来たら、誰だって恐怖を感じるはず。それは理性ではなく、生き物としての本能よ」
「……なら、それは河童も同じなんでしょうか?」
数秒間の、冷たい沈黙が降りた。
空から降る雨ではなく、雨垂れが薄い水溜まりへと着地した音が、小さく響く。
加藤さんは僕から視線を外し、溜息を吐いた。
「あなた、まだ悩んでいるの? 相模さんの言葉を聞いてわかったでしょ。それは、すぐに答えが出るようなものじゃないって」
加藤さんに心情を読まれ、僕は軽く動揺しながら、「でも」と俯く。
「悩みますよ。だって、こちらは命を奪う側なんですから」
「奪われる側になる可能性だって、充分にあるけど」
「まあ、そうですけど。でも、多分、僕も襲ってきた河童を殺すことには、何の躊躇いもないと思うんです。売られた喧嘩は買う、じゃないですけど、命を奪いに来ているのだから、それは命を懸けた上での行為だろうと、割り切れます。ただ僕の違和感は、こちらに何もしてきていない河童を殺すことです」
「同情しているの?」
加藤さんの真っ直ぐな言葉。しかし、それは僕の心には刺さらない。
「いえ、正直なところ、そんな綺麗なものではないです。河童が死ぬのを見て、可哀想だという感情を抱いたことはないので。ただ単純に僕は、自分が河童を殺すことが、絶対に正しい行為だという理由が、欲しいんだと思います」
「ただそれが、見つからない」
「はい。それらしいものは、いくらでもあるんです。正義感だったり、かたき討ちだったり。だけど、どれも自分の中に上手く嵌まってくれなくて。ほら、僕は加藤さんたちみたいに、河童に対する憎しみがあるわけではないので、どうしてもその部分で、何かが引っかかってしまうんです」
「……あなたは何か、勘違いしている」
咎めるようなその口調に、僕は「え?」と固まる。ふと見ると、加藤さんは軽く睨むような視線を、僕に向けていた。
「わたしは復讐や憎しみから、河童を殺しているわけではない。むしろ、それを理由として抱いている人間は、河童ハンターになれないようになっている」
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。河童ハンターを選ぶ際、河童に対する憎しみが強い人間は、例えどれだけ優秀であっても、その選択肢から除外される。感情は時に冷静さを失わせて、実務に弊害が出るおそれがあるから」
「そうだったんですか。知りませんでした」
加藤さんは「勿論」とゆっくり立ち上がる。
「わたしもきっかけは、そこにある。それは、親しい人間が河童に殺され、ハンターになることを志した者は、みんなそうだと思う。だけど、必ずいつか気付いてしまう日がくるの。……たとえ、河童を思うがままに屠ったところで、失ったものはもう、戻ってこないことを」
加藤さんは小屋の外に出ると、掌を空へと向けた。僕は加藤さんに続いて外に出て、じっと加藤さんを見つめる。
「では、加藤さんは今、河童のことを憎んでいないのですか?」
「いや、憎んでいる。ただ、それはあくまで、わたしの両親のことを殺した、あの河童に対してであって、その感情を他の河童たちにぶつけることはしない。そんなことをしても何の解決にもならないから」
「なら、加藤さんは河童を殺すという行為に、どう正当性を見出しているのですか?」
矢継ぎ早の質問。加藤さんは答えるのに少し、間を空けた。
「わたしは、自分が正しいことをしているとは思っていない」
加藤さんの掌に、大きな雨粒が落ちる。
「……ただ、間違っているとも思わない。自分の気持ちを表現するとしたら、『仕方がない』になるかしら」
「仕方がない?」
加藤さんは、ぐっと掌を握り締めた。
「ええ。河童が人間を襲う生き物である以上、人間は河童を害とみなして、排除しようとする。それは理性ではなく、生物としての本能。だからわたしはいつも、一匹の獣として河童と向き合っている」
「じゃあ、理性を通して考えた時、加藤さんは河童を殺すことに否定的なのですか?」
「否定はしない。それは、わたしを含めた、全ハンターの職務を否定することにもなるから。ただ、間違いなく言えることは、もし殺さなくてもいい選択肢があるのなら、わたしは迷わず、それを選ぶわ」
「それは、本心では、河童を殺すことが嫌だということですか?」
「相手が何であれ、命を持っているわたしが、他の命を奪うことは気持ちのいいものではないもの」
そうか。加藤さんもそうなのか。
ずっと、僕だけだと思い込んでいた。
その瞬間は、罪悪感などはないし、嫌だとも全く思わない。それはおそらく、自分も死ぬ可能性があるという状況下で、相手のことを考えている余裕なんてないからだ。むしろ僕は興奮状態になると、非情な冷静さを以て、相手の命を奪う手段を頭の中で組み立てることが出来る。
しかし、一歩現場から離れると、憂鬱になる。
川で水浴びをしている河童や、小動物を虐めている河童、草を千切って遊んでいる河童たちを遠くから捕捉し、一撃で仕留める。
無邪気に動いていたその心臓が、数秒後には爆発し、動かなくなっている。その光景ばかりを頭に思い浮かべてしまい、湯船に浸かっている時や、ベッドに入っている時に、重い溜息が漏れる。
ただ、河童ハンターがそんな気持ちではいけない。そう思い、これまでずっと、その考えを心の奥へと押し込んでいた。
しかし、河童の命を奪う際、加藤さんですら、簡単に引き金を引いているわけではないのだ。なら、ハンターになって間もない僕がそこで悩むなんて、当たり前のことなのだろうと思うと、肩の荷が下りたような、そんな気がした。
僕は白い靄を抱く、木立の奥へと目を細める。
「何か、河童と争わない方法はないのでしょうか。それこそ、本気で和平交渉を考えてみるなどは? あれだけの知能があって、言葉が理解出来るのなら、その道が開ける可能性もあると思うのですが」
すると加藤さんは、言下に「無理ね」と答える。
「わたしも、王の一族と会った当初は、そう考えていた。だけど、彼らと接しているうちに、それは叶わないことを知った」
「どうしてですか?」
「彼らが、絶対に人間を信用しないからよ」
言下に加藤さんが答え、僕は一瞬、言葉を見失う。
「……しかし、わかりませんよ。こちらも本気で向き合えば、もしかしたら可能性があるかもしれません」
僕が前のめりになって訴えるも、加藤さんは目を閉じ、小さく首を左右に振った。
「……わたしたちが助けた河童の子供、どうなったと思う?」
突然の問いかけに、僕は「え?」と反応に窮する。
「ほら、わたしたちが怪我をしているところを助けた、河童の子供よ」
僕が黙って首を傾げると、加藤さんはゆっくりと目を開いた。
「わたしが、この手で撃ち殺したの。皿を狙う余裕がなかったから、腹に一発、顔に一発、至近距離からライフル銃を撃ってね」
「……どうして、そんなことを」
僕が半歩、後ろへと下がると、加藤さんは鋭い視線で、僕を真っ直ぐと射抜いた。
「わたしたちのことを、襲ってきたからよ。友好な態度を取っていたのに、ある日、突然だったわ。おそらく、ずっとその機会を狙っていたのでしょう。わたしたちを油断させるために、心を許しているふりをしていた」
加藤さんはそう言うと、突然、着ていた服を捲り上げた。僕が「わ、わっ」と慌てて目を背けようとするも、それが視界に入り、僕は固まった。
「これが、その時の傷よ」
加藤さんの胸の下から脇腹にかけて、干からびたミミズを掌で潰したような、そんな傷痕が三本、斜めに並んでいた。その痕を見るだけでも、傷の深さが窺え、僕の顔は自然と引きつってしまう。
加藤さんは服を戻すと、「それに」と険しい表情を浮かべる。
「彼らにはあれだけの知能があって、言葉が話せる。それは一見、光明に思えるかもしれないけど、むしろ逆。彼らが人間に近ければ近いほど、きっとこれから先も、互いに相容れることはない」
「どういうことですか?」
「だって、人間は同じ種族同士ですら、誕生から長い時間が経過した今でも争っているじゃない。人間が他の生物と共存出来る方法は二つ。互いに干渉しないことと、両者の間に絶対的な力関係があること。残念ながら河童は、知能が高過ぎる」
知能が高過ぎるが故に、河童と人間は共存が出来ない。何とも皮肉な話ではあるが、反駁の言葉は見つからなかった。
「では、河童と人間の争いがなくなる方法は、ないのでしょうか?」
「……それこそ、河童が人間を襲うことをやめるか、どちらかが滅びるしかないでしょうね。そして当然、わたしたち人間は、滅びる側ではなく滅ぼす側を選ぶ。そのためには、河童を殲滅させなければいけない」
「その先頭に立つのが、僕たちということですか」
「そう。それが、わたしたち河童ハンターの役割。ある意味では、自然から目を背けた人間が捨てた、『獣の部分』を背負う存在なのかもしれないわね」
加藤さんはそう言うと、葉が犇めく天を仰いだ。僕がそんな加藤さんを見つめていると、加藤さんは「何?」と僕を軽く睨み返す。
「わたしの顔に、何かついているの?」
「い、いえ、何だか恰好いいなと思って……」
するとその時、加藤さんが「しっ」と唇の前に、人差し指を立てた。僕も慌てて耳を澄ますと、西の方角、三十メートルほどの場所から、何かが動くような気配を感じた。
僕と加藤さんは、扉から顔を覗かせる。
「ミズナラの木の裏でしょうか」
緊張感を身体に纏い、息を殺して神経を集中させる。
「ええ。ただ、河童がどうかはわからない。ただ、動きから、人でないことは確かよ」
それを聞いて、僕は少し安堵を覚える。
加藤さんが懐から拳銃を取り出し、構えた。拳銃ではあるものの、距離は三十メートルなので充分に射程圏内だろう。
すると、木の裏から何かが飛び出し、加藤さんの身体がぴくりと反応した。しかし、その影は随分と小さい。出てきたのは、野うさぎだった。
加藤さんは拳銃を下ろすと、口を窄めて息を吐いた。
絶対に、誰にも見つからない場所。ただしそれは、人間を相手とした場合である。
火伯支部からそう遠くはない、山の中。おそらく、まだ山が立ち入り禁止になる前に地元民が倉庫として建てた小屋で、僕たちは身を潜めていた。
当然、河童や他の獣に襲われる可能性はある。しかし、それでも僕たちは、相模さんとの待ち合わせの日まで、ここで過ごすことに決めた。
なぜなら、僕たちが恐れているのは河童や熊ではなく、人間なのだから。




