三十五話『奪還』
火伯地区に住むようになって半年しか経っていないのに、関東地区に来ると、どこか遠い過去を掬い上げたような、そんな懐古の念に駆られる。
僕の出身は関東第三地区で、火伯地区に移り住むまでの二十二年間を、ずっとこの地区で過ごした。だから、瑞己との思い出も、河童に襲われた記憶も、特定動物対策施設生として邁進していた日々も、振り返った時には、必ずこの土地の香りがついてくる。
僕は一瞬、実家に寄ろうかと考えたが、かぶりを振った。今は、一刻も早く加藤さんを留置施設から出さなければ。ブレーキにかけていた指の力を緩め、アクセルを強く回し、関東第三地区を抜けた。
関東第一地区へと入ると、僕は一度、頭の中を整理することにした。
状況からすると、看護師の中村さんが言っていた、横領で本部に送られた火伯支部の職員というのは、加藤さんのことだろう。
そしておそらく、本部に送られた本当の理由は横領ではなく、加藤さんがドクダミたちのことを黙っていたことにある。それなら、混乱を避けるために、一時的にその理由を『横領』としていたとしても、おかしくはない。
ただ、だとすると気になるのは、班長の、『助けろ』、『奪還しろ』という言葉だ。
加藤さんの行為は明らかな背信にあたるため、本部に送られ、調査を受けるのは何らおかしいことではない。
しかし、班長のそれらの言葉を純粋に受け取ると、加藤さんが留置施設に入っていることが、まるで不当であるかのような意味となる。
さらに、『絶対に誰にも言うな』、『どんな手段を使ってでも』という言葉も気になる。もし、加藤さんが不当な理由で留置施設に入れられているのだとしたら、それに対して、正面から抗議すればいい。
しかし、あの真面目な班長が、ある種の違反行為を容認するような形で、僕に対して加藤さんを助けろと言ったということは、そこにはそうせざるを得ないような、とても重要な事実が隠されているのではないだろうか。
僕はどこか煙たい空気を掻き分け、やがて、関東第一支部、本部近くへと到着した。
既に時間は夜の十時を回っているものの、不夜城であるこの街は眠らない。いや、眠りたくても、眠れないのだろう。
猥雑な灯火が交錯する下、僕はバイクを止め、これからの行動を慎重に考えた。
本部に入るのは、僕の立場を用いれば、おそらくそう難しくはない。本部の警備は特別厳しいものではなく、二十四時間、玄関に二人の警備員を立てているだけだ。
それも、その警備員は、施設に入って一年未満の新人が務めることになっているので、僕が特定動物管理捕獲班員であることを示せば、深くは追及してこないだろう。
ただ、問題は留置施設だった。
本部には施設生の頃に何度か来たことがあったものの、留置施設がどうなっているのかはほとんどわからない。唯一知っているのは、地下にあるということくらいだが、どこから繋がっているのか、また、警備がどれだけの数いるのかなどは、一切不明だ。
場合によっては、強硬手段に出なければいけないかもしれない。僕はポケットに入れた拳銃の感触を手で確かめながら、すっと息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
正直、僕は加藤さんに強い不信感を抱いている。加藤さんを通じて河童サイドから提案された和平交渉の席で、僕たちは河童に襲われ、四人の管理官の命を失い、班長と八幡さんは生死を彷徨う事態となった。
加藤さんは、河童が僕たちを襲うことを知っていたのではないのだろうか。むしろ、この状況下で、加藤さんに猜疑心を抱かない方がおかしい。
ただ同時に、加藤さんを黒だと決めつけてしまっていいのかという思いも、心の隅には残っている。それは、半年間一緒にいて感じた、加藤さんの実直で真っ直ぐな性格が嘘とは思えないからだ。
いくら加藤さんが人間に恨みを持ち、河童の味方だったとしても、あんな卑劣な手を許すとは思えない。それに何より、あの状況で河童が僕たちを襲っても、河童にとってメリットがないことくらい、加藤さんが理解出来ないはずがない。
だとすると、加藤さん自身も、あの奇襲については知らされておらず、ドクダミたちに騙されていたのかもしれない。
勿論、それはただの僕の憶測で、本当は全て加藤さんが糸を引いている可能性だってある。
しかしどちらにしろ、僕はとりあえず、加藤さんを留置施設から出す。
それは、班長の命令であるというのは勿論、加藤さん本人から、真実を訊き出したいという、僕自身の気持ちもあった。
本部近くの路地にバイクを止めると、本部に向かって、歩を進めた。
僕は堂々とした足取りで、本部の玄関へと歩いていく。すると、玄関前に立っていた二人の警備役の施設生が、「すみません」と声をかけてきた。
僕はすぐさま懐から身分証を出し、彼らに提示する。
「特定動物捕獲管理班、火伯支部の瀬織流です」
二人は慌てて姿勢を正すと、僕の全身を見つめ、「ご苦労様です」と小さく頭を下げた。河童ハンターの恰好をしていて、身分証を見せているのだから、彼らが僕のことを警戒する理由はないだろう。
「留置施設に用があるのですが、留置施設へはどう向かえばいいですか?」
「それなら、入ってすぐ右に曲がり、廊下の突き当たりにある階段を下りたあと、真っ直ぐ進めば、左手に見えます」
僕は「ありがとうございます」と微笑を浮かべ、建物の中へと入っていく。僕を見送る二人の顔からはどこか憧憬の念が感じられ、僕も施設生だった頃は河童ハンターを見る度に興奮していたな、と初々しい頃の気持ちを思い出す。
時間も時間だからか、廊下に人影は見えず、やけに眩い蛍光灯の明かりが、何とも不気味に床を照らし出している。
僕は階段を下り、言われた通りに進んでいくと、やがて左手に『留置施設』と書かれた壁があり、その先に一本の廊下が伸びていた。そしてその奥では、一人の男性職員が、パイプ椅子に足を組んで座り、漫画を読んでいた。
年齢は班長よりも少し上くらいだろうか。こけた頬に狐目で、顎には無精髭を生やしている。髪には酷い寝癖がついていて、その傲慢な態度から、決して真面目な人柄でないことが窺える。
するとその男は、僕に気がついた。
「あ? 誰だ、お前は?」
男は僕に誰何すると、気怠そうな動作で立ち上がった。そして、漫画を開いたまま椅子に置き、鋭い視線を僕へと向ける。
僕は緊張を唾と共に飲み込み、懐から、身分証を出す。
「特定動物捕獲管理班、火伯支部、瀬織流と申します」
男は訝しい眼差しで、舐めるように僕の全身を眺めると、「なんだ」と面倒臭そうな表情で、頭を掻く。
「ってことは、この中の姉ちゃんと同じ班ってことか」
男は三つ並んだ部屋の内、唯一ドアの閉まっている中央の部屋を親指で指した。僕はてっきり、牢屋にでもなっているのかと思っていたが、どうやら留置施設は普通の小部屋のようだ。そして、その中央の部屋に加藤さんは入っているらしい。
男は「で?」と首の関節をポキポキと鳴らす。
「そのお仲間さんが、遠い本部まで足を運んできて、何の用だ? 面会の予定なんて聞いてねーし、そもそも許可が下りるとも思えないが」
僕はじっと男を見つめ、乾いた唇を開く。
「加藤さんを、ここから出すために来ました」
男の眉がぴくりと動く。
「……それは、正規の方法でか?」
僕は「いえ」と左足を僅かに引いた。
僕と男の間に、張りつめた緊張感が漂う。おそらく男も、僕がこれから何をしようとしているのか、勘付いたのだろう。
するとその時、「瀬織くんっ?」と加藤さんの驚くような声が聞こえた。僕が「は、はい」と慌てて返事をすると、中央のドアが、僅かに揺れた。
「ど、どうしてあなたがここにいるの?」
「加藤さんを留置場から出すよう、班長から命じられたので」
「尾角班長から? ちょっと待って。じゃあ、班長は今、どこに?」
「……班長と八幡さんは、和平交渉中、突然、河童たちに襲われて傷を負い、さらに毒の成分が変わっていたために血清が効かず、非常に危険な状態のまま、病院へと運ばれました。今、どうなっているかはわかりません」
僕が誹りを込めてそう言うと、加藤さんは「嘘……」と、これまでに聞いたことのないような、弱々しい声を吐いた。
すると、「おいおい」と男がドアへと視線を向ける。
「俺がどれだけ話しかけてもだんまりだったくせに、突然、ぺちゃくちゃ喋ってんじゃねーよ」
男の言葉に、加藤さんは反応しない。男は溜息を吐いて後頭部を掻くと、「それより」と僕に訝しむような視線を向ける。
「……尾角がこいつを出すようお前に命じたって、それは本当なのか? それも今、危険な状態って。それに、和平交渉だとか、毒の成分が変わっていたとか、全くわけがわからねーんだが」
僕は男の言葉に、「え?」と小さく驚く。
「班長のことをご存知なのですか?」
「施設生の頃の同期だからな。まあ、俺の方がいくつか年上で、俺はハンターを希望してないから、施設所属のままだが。……それで、さっきの話は本当なのか?」
男の雰囲気が急に真剣なものになり、僕は「は、はい」と頷く。
「事実です。どんな手段を使ってでも、加藤さんを留置施設から出してこいと」
班長からは、絶対に誰にも言わないように指示を受けていたが、僕は男の反応から、この人には正直に伝えた方がいいような気がした。
すると、男は「やはりな」と小さく舌打ちをする。
「あいつが指揮する班員が横領だなんて、おかしいと思っていたんだ。その上、取り調べも幹部が直々にするから、準備が出来るまで保留だなんて、そんなの聞いたこともねえ。これは何か裏があるな。……お前ら一体、何をやったんだ?」
僕は「僕もわかりません」とドアを見て答えた。加藤さんからの反応はない。
男は「しかし」と遠い眼差しを宙へと浮かべる。
「あいつが、間違った指示を出すとは思えない。……お前、瀬織って言ったな」
「は、はい。そうです」
「……この女を外に出してやる。ただ、俺が出すわけにはいかない。あくまでお前が、俺から鍵を奪ったという体を取って貰う」
「体、ですか?」
「そうだ。今、お前が立っている場所の上からこちらに向かって、監視カメラが作動している。音声は拾えねえタイプのものだから、話す分には問題ないが、撮られているということを意識しろ」
なるほど。僕は男が言いたいことを察した。
「今からお前が俺を倒し、俺のズボンについている鍵を、俺から奪い取れ。仕方なしに一発だけ、殴られてやる」
僕は「それなら大丈夫です」と、懐から拳銃を取り出し、男へと向けた。男は一瞬、目を開いて驚いたが、苦笑を浮かべる。
「なるほど。確かにそれなら、殴られる必要はないな。それにしても、どうしてそんな物騒なものを持ってんだ?」
「班長に渡されました」
男は呆れるような息を吐き、両手を上げた。
「ったく、あいつも色々、大変なんだな」
僕は男に近付くと、「すみません」と一言断り、ベルトにかかっていたチェーンから鍵を取った。そしてその鍵を使い、中央のドアを開錠する。
ドアを開けると、加藤さんがどこかおそるおそるといった様子で出てきた。それを見た男は、「よし」とすっと息を吸い込む。
「俺に拳銃を向けたまま、出て行け。ただ、監視カメラの映像がある以上、俺はこのあとすぐ、留置場からお前が逃げたことを報告する。だから、捕まりたくなかったら、出来るだけ遠くに逃げろ。足はあるか?」
「はい。ここまでバイクで来ましたので」
「この女のヘルメットがないなら、駐輪場のバイクにつけてる赤いヘルメットを持っていけ。ホルダーの暗証番号は、七、二、四だ」
僕は「七、二、四」と復唱すると、頭は下げずにじっと男を見つめる。
「本当に、ありがとうございました」
「ああ、わかったからさっさと行け。腕が疲れる」
僕は目で感謝を伝え、留置施設をあとにした。
それにしても、助かった。看守役があの人でなければ、僕は強硬手段に出なければならず、下手をすれば、人を傷つけることになっていたかもしれない。
これも全て、班長の人望があったからだ。
僕は班長の顔を思い浮かべながら、階段を駆け上った。




