二十八話『交渉』
何とか険しい岩を越えると、洞窟の入り口が見えた。河童側が指定してきた会談の場所は、加藤さんとドクダミが会っていた洞窟だった。洞窟はあの時と変わらず、暗闇を抱き、大きく口を開いている。
その洞窟の前に、二匹の河童が立っていた。ドクダミのような装飾品などは見につけておらず、普段、僕たちが山で出会う河童と同じ。しかし、まるで哨兵のように、彼らは洞窟の入り口の左右に、直立している。
「……あ、あれが河童か。初めて見たな」
唾を飲み込む左管理官。隣の柳川管理官は、ふふっと小さく笑う。
「こうして見ると、可愛らしいではありませんか。ほら、なんて綺麗で、澄んだ瞳なのでしょう」
「可愛らしい? どこが? どこからどう見ても、化け物じゃないのよ」
息を切らしながら顔を歪める古賀管理官に、「それより」と坂本管理官は、僕の身体を肘でつつく。
「ほら、まずはあれが襲ってこないかどうか、確認してくれないか?」
僕と班長、そして八幡さんの三人は、互いに顔を見合わせ、頷いた。八幡さんは管理官たちの傍に残り、僕と班長の二人はわざと音を立てて、彼らの前へと出る。
二匹の河童は、僕たちの存在に気付いていたかのように、慌てることなく、おもむろに視線を僕たちへ
と向ける。
班長と僕は銃から手を離し、両腕を上げた。
「会談へと来た。中に入ってもいいのか?」
すると、二匹の河童のうち一匹が、僕たちの後方に視線を向け、地面を指差した。彼らも連れてこい、ということだろう。班長は顔だけ振り返ると、八幡さんへと向かって視線で合図をした。
岩陰にいた管理官たちは、おそるおそるといった様子で、こちらへと近付いてくる。
やがて、全員が集まると、次にもう一匹の河童が、僕たちの銃に視線を向け、また同じように地面を指差した。僕たちは一人ずつ、河童に警戒心を向けながらも、肩から下げていた銃を下ろしていく。
三人が銃を下ろしたのを確認すると、河童はゆっくりと僕たちへと近付いて、身体をチェックしていく。僕は、少しでも変な動きを見せた瞬間、皿を割れるよう細心の注意を払いながら、河童からの身体検査を受けた。
僕たち三人が他に武器を持っていないことを確認すると、次に河童は、管理官たちに視線を向けた。
「ちょ、ちょっと。あたしたちは、何も持っていないわよっ」
「いや、ここは素直に受けましょう。何かあれば、損をするのは彼らです」
抗議する古賀管理官を諭すように、久千管理官がそう言った。古賀管理官は「でも」と納得いかない様子だったが、それ以上は言っても無駄だと悟ったのか、目を閉じ、言葉を飲み込んだ。
河童が管理官のチェックを始めると、古賀管理官が「ひっ」と小さな悲鳴を上げたものの、それ以外は誰も声を出さなかった。もしかしたら、恐怖のあまり、声を出すことすら出来なかったのかもしれない。
やがて、全員の確認を終えると、二匹の河童は僕たちが下ろした銃を拾い、ついてこい、と顎で合図をし、洞窟の中へと入っていった。中は真っ暗で、僕たちは上手く進むことが出来なかったが、河童は待ってくれるわけでもなく、先へと行ってしまった。
ようやく薄らと光が見え、加藤さんとドクダミが話していた広場まで辿り着くと、そこには入り口にいた二匹の河童の他に、三匹の装飾を施した河童が、並んで僕たちを待っていた。中央にいるのは、ドクダミだ。
班長が八幡さんに視線を向けると、八幡さんは「多分」と指を五本立てる。
「この洞窟におんのは、全部で五匹です。……息を潜めて忍んでへん限りは」
班長は小さく頷き、正面に視線を戻した。
ドクダミは半歩前に出ると、両腕を広げた。
「どうも、遠いところ、わざわざ来させて申し訳なかったね。あたしは、火伯支部の河童全てをまとめている、『王の一族』の長であるドクダミ。それでこっちが、妹のナズナ。とても大人しく、そして優しい子でね。ただ、人間に怯えているから、優しくしてやってくれると嬉しいよ」
ナズナと紹介された、鼻に何個もピアスをしている河童は、物珍しいものでも見るかのような視線を僕たちに向けながら、小さく頭を下げた。
「そして、これが弟のスイセン」
ドクダミが肩に手を置くと、スイセンと紹介された河童はそれを邪見に振り払った。そして、頭を下げることもなく、鋭い眼光で僕たち全員を睨みつける。その態度に、ドクダミは呆れるような笑みを浮かべる。
「すまないね。こいつは血の気が多いから。あ、でも心配は要らないからね。あたしがいる限りは、何もしないから」
ドクダミは、『あたしがいる限り』を強調するように少し大きな声で言うと、「それで」と僕たちの顔を見渡した。こちらの挨拶を促しているらしい。
管理官たちは、河童相手にどう挨拶をしていいのか困惑している様子だったが、まずは久千管理官が半歩、前に出た。そして、胸ポケットから名刺を取り出す。それを久千管理官が渡そうとすると、ドクダミは「いや」と掌を向けた。
「それは要らないよ。あたしたちは、人間の言葉は話せるけど、読むことは出来ないからね。とりあえず、全員の呼び名を教えてくれればそれでいいよ」
久千管理官は名刺を仕舞うと、こほん、と空咳をした。
「この五人は、環境省自然環境局獣害対策課特定動物捕獲管理班の管理官を務めていて、こちらの三人は、護衛の三人です。そして私は、久千と申します」
それから、他の管理官四人の名前、そして僕たち三人の名前を伝えると、ドクダミは頷き、上目で久千管理官を見返す。
「ところで、あんたたちは、人間の中で一番偉いのかい?」
久千管理官は、「いえ」と首を横に振る。
「人間の世界は平等なので、一番偉いとされる人間は存在しません」
「ふーん、平等ねえ……。じゃあ仮に、あんたたちと和平交渉を結んだとして、他の人間から河童が襲われないと、確約は出来るのかい?」
「それはどういうことですか?」
「河童は、あたしが『人間を襲うな』と命令すれば、全ての河童が人間を襲わなくなる。それは、あたしが全ての河童の中で一番偉いからだ。だけど、あんたたち人間は、偉い存在がいないんだろう? だったら、あんたたちと和平交渉を結んだとしても、あんたたちは他の人間に河童を襲うなと命令出来ないのだから、他の人間が河童を襲うかもしれない」
「それなら心配は不要です。我々人間には、全員が守るべきルールというものが存在し、それに違反した人間には、罰が与えられますから。つまり、『河童を襲うとそれ相応の罰を受ける』というルールを制定すれば、人間が河童を襲うことはなくなります」
ドクダミは「なるほど」と顎に手を当てる。
「……ただ、そのルールは完全ではないね」
久千管理官は、「と言いますと?」と顎を引いた。ドクダミは「だって」と片側の目だけを大きく見開
く。
「それなら、罰を恐れない人間がいた場合、そのルールは桎梏とはなり得ないじゃないか。河童が殺されたあとで罰を与えても、殺された河童は生き返らない。事後のルールではなく、人間が絶対に河童を殺せないよう、事前の制度を整備して貰わないと」
久千管理官は、「それは……」と言葉に詰まった。
人間が絶対に河童を殺さないようにするなど、不可能だ。仮に、唯一、河童を退治することが許されている特定動物捕獲管理班を解体して、河童を狩ることを禁止したとしても、河童に対して憎しみを抱いている人間が存在する以上、河童を殺そうとする人間は必ず出てきてしまう。
久千管理官の反応を見たドクダミは、口元に薄らと笑みを浮かべる。
「その反応からするに、難しいみたいだね。……では、仮にあんたたちの言う、事後のルールとやらで手を打つとしよう。その場合、河童を殺した人間には、どんな罰が与えられるんだい?」
「それはまだ、わかりません。ただ、人間が人間を殺した場合、身体の自由を長期間拘束するか、もしくはその命を以て償うことになっています」
ドクダミは鼻で笑う。
「予め言っておくけど、それだと和平は結ばないからね。河童を殺した人間がその後、どうなろうが、正直、どうだっていいんだ。例え、その人間が死んだところで、あたしたちには何のメリットもなければ、ただの殺され損だからね。河童が殺されたとしたら、河童一匹の命の分、人間側から何か代償を払って貰わないと」
「代償、とは?」
「それを今から、決めるんじゃないか」
ドクダミはそう言って三日月のように目を細めると、奥にある石のテーブルに視線を移し、僕たちを誘導した。テーブルには、どこから持ってきたのか、背もたれのある木製の椅子が八つ、用意されている。
僕たち護衛三人と、洞窟の入り口にいた河童二匹は、机の周りを囲むようにして等間隔に立った。そして管理官たちは、ドクダミ、スイセン、ナズナの三匹の河童と向かい合って座る。そこには支部を出発する前に漂っていた、河童に対する優越感のようなものは一切なく、管理官たちの表情には見るからに不安と緊張が浮かんでいる。
強かだな。
僕は素直に、ドクダミの交渉術に感心した。
人間に足を運ばせた上、下手に出ることなく、あくまで対等の立場であることを強調し、そして一筋縄ではいかないということを、この短い時間で人間側に強く印象付けた。きっと、所詮河童だと馬鹿にしていた管理官たちは、今、動揺しているだろう。
一方、こちらは河童に対して、まだ何も出来ていない。勿論、得体の知れない相手に対し、一旦様子を見ているというのもあるだろうが、それ以上に僕は、この場所に引っ張り出されたのが、大きかったのではないかと思った。
今、僕たちは丸腰の状態で、完全アウェイの場所にいる。あとのことを考えると、彼らが僕たちのことを襲ってくることは考えにくいが、それでも、年間千人もの人間の命を奪っている生き物に囲まれているのだと思うと、不安と恐怖が自ずと胃の辺りを圧迫してくる。
河童に慣れている僕ですらそうなのだから、きっと、管理人たちが感じているそれはより強大なものであり、彼らが萎縮してしまって、冷静な思考が出来なくなっている可能性は充分にある。
河童側が、そこまでを見越して会談の場所をここに選んだのなら、相当な策士である。ただ、もしそうだったとした場合、それが河童の考えなのか、それとも加藤さんの入れ知恵なのかはわからない。
全員が席につくと、左管理官が、「しかし」と初めて口を開いた。
「そちらは、和平後に人間が河童を殺害するおそれについて心配しているが、それはこちらも同じだ。あなたがいくら全ての河童の中で一番偉いからと言って、必ず他の河童たちがあなたの命令に従うとは断言出来ないと思うが」
「いえ、必ず他の河童は、あたしの命令には従う」
「だから、それを信用出来ないと言っているのだ」
声は僅かに震えているものの、左管理官は毅然とした態度で、ドクダミを真っ直ぐと見据えた。するとドクダミは、「あなた」と立っていた河童のうちの一匹を指差した。
「……自分の左腕を、今すぐ千切りなさい」




