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二十三話『毒』


「僕ですっ、火伯支部、特定動物管理班所属の瀬織流です」


 電話の向こうに数秒間の沈黙が流れたのち、『あ、ああ』と久千管理官の驚いたような声が返ってくる。


『どうした? 何かあったか?』

「はい。え、えっと、今朝、早くに加藤さんがマンションを出たのを見かけ、あとを追いかけると、人の言葉を話す河童がいて、えっと、それで、」

『少し落ち着きなさい。一旦、深く息を吐き出すんだ』


 興奮状態にあった僕は、久千管理官に言われた通り、一度肺の中の酸素を全て出し切ってから、ゆっくりと吸い込んだ。すると、狭くなっていた視界が広がり、暗くなっていた全ての色が、いくらか鮮明になったような気がした。


 僕は「すみません」と説明し直す。


「マンションを出た加藤さんは、バイクで山の奥へと向かいました。そのあとを追うと、加藤さんはある洞窟の中へと入っていき、その中に、信じられないかもしれませんが、人の言葉を話す河童がいて、加藤さんはその河童と会話を交わしていました」

『人の言葉を話す河童?』


 久千管理官の声が大きくなる。無理もないだろう。人の言葉をある程度理解する河童がいる可能性こそ、これまでにも指摘されていたが、まさか人の言葉を扱う河童がいるなんて、ゆめゆめ誰も思っていなかった。


 久千管理官は『まさか』と呟いたあと、数秒間の沈黙を挟み、『わかった』と驚きを飲み込んだ様子で続ける。


『……俄かに信じ難いが、キミがそんな嘘を言うとも思えないので、信じることにする。それで、加藤くんはその河童とどんな会話を?』

「加藤さんは、どうやら河童と和平したがっているようでした。話し合えば、争う必要もなくなると。……ただ、加藤さんは人間のためではなく、どちらかというと、河童の身を案じているようでした」

『河童の身を? 河童の味方をしているということかい?』

「えっと、河童の味方、というよりは、人間という生き物に対して、どこか不信感があるような、そんな様子でした」

『人間に対して不信感、か。よくわからないな。確か彼女は幼い頃、目の前で両親を河童に惨殺されているはずだが。それなのに、人間に対して不信感を抱いて、河童の味方をするというのは、理解し難いな』


 確かに、今思えばそれはおかしい。もしかしたら、加藤さんには僕たちが知らない、何か秘密があるのかもしれない。


『それで、今現在のキミの状況は?』


「加藤さんから逃げてきて、もうすぐ山から出るところです。ただ、洞窟から出る際、河童に引っかかれてしまったので、今からすぐ、支部に向かって血清を打ちます」

『……間に合うのかい?』


 息を呑むような気配。僕は「わかりません」と身体を見る。


「ただ、今のところはまだ、皮膚の変色はそこまで広がっていません」

『そうか。しかし、河童の毒が回るのは早いと聞く。出来る限り急いでくれ。……そして治療中、そしてそのあとのことについてだが、キミは見たことについて、しばらく誰にも話してはいけない』

「班長にもですか?」

『ああ。この件は、キミに密告を命じた私に収拾の義務と責任がある。キミの話が本当なら、加藤くんのしていることは、組織、国民に対する背任と捉えざるを得ない極めて重大な違反行為だ。しかしだからこそ、早まらず、慎重に調査をしなければならない。これから加藤くん本人からは勿論、火伯支部の職員全員に対して外部からの調査機関を入れて、徹底的に調べる。だが、もし事前に情報が流れてしまうと、その調査に影響が出る可能性もある』

「それはつまり、久千管理官は、尾角班長たちを疑っているということですか?」


 電話の向こうで、小さな息が漏れた。


『いや、むしろ逆だよ。徹底して調べることで、尾角くんを含めて、他の職員たちの潔白が証明出来る。それに、私個人としては、他の職員がその件に絡んでいるとは思っていない。私の元に届いていた情報も全て、加藤くん一人のものだったからね』


 それを聞いて、僕は安心した。


『とにかく、キミは血清を打つことだけを考えた方がいい。あとのことは、私がちゃんと対応しておくから。……いいかい? このことは絶対に、他の人に話してはいけないよ』


 久千管理官からの念押しに、僕は「わかっています」と頷いた。すると、『では』と短い一言のあと、電話が切れた。


 そのタイミングでちょうど、僕はバイクを置いた場所へと出た。


 時間を確認してみると、引っかかれてから、およそ二十分近く経っている。服を引っ張って覗くと、緑が濃くなり、そして広がり始めていた。感覚としては随分と遅いが、それでも毒は確実に身体を蝕んでいる。


 僕は車道までバイクを押すと、急いで支部へと向かった。




 支部へと着くと、僕は足を引き摺りながら医療救護班の部屋へと向かった。


 ノックもせずにドアを開けると、まだ来たばかりだったのか、コーヒーを飲んでくつろぐ救護職員たちが、丸い目で僕を見た。


 僕は「すみませんっ」とほとんど感覚のない手を懸命に動かし、シャツを脱いだ。


「三十分ほど前に、河童と遭遇し、傷を負いました。手当をお願いしますっ」


 僕の身体を見た職員たちは慌てて立ち上がると、すぐさま動き始めた。


 僕は診察台へと運ばれ、仰向きに寝かされる。


「傷を負ったのは、三十分前ですか?」

「はい。ちょうどそれくらいです」


 息も切れ切れに答えると、僕の顔を覗き込む女性職員は苦い表情を浮かべる。


「瀬織さんは、以前にも一度、河童の毒を受けていますよね?」

「はい。子供の頃に」

「血清にアナフィラキシーショックを起こす可能性があるわ。抗菌薬、セファランチン、抗ヒスタミン薬に、ステロイド……………」


 呼吸が荒くなり、僕の意識は遠ざかっていく。


 職員たちから伝わってくる緊張感から、僕が今、危険な状態であることはわかった。実際、身体は浮いているかのように感覚がなく、呼吸も苦しい。


 僕はここで死んでしまうのだろうか。


 ああ、そんなことより、瑞己に連絡しないと。


 視界が端の方から、薄らと黒く染まっていった。


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