十八話『疑惑』
「おい、流。起きろって」
身体を揺さぶられ、僕はベッドの上で目を開いた。ぼやける視界に、僕の顔を覗き込む瑞己の姿が映る。
デジタル時計に視線を移すと、まだ朝の五時前。カーテンの隙間から見える青も、まだ随分と深みを帯びている。
「もお、こんな時間に何?」
僕がゆっくりと上半身を起こすと、瑞己は少し興奮した様子で、「ほら」とカーテンを開け放つ。
「外、すげえ白いんだけど」
見ると、確かに外には霧が立ち込めていた。僕は目を擦りながら、「ああ」と頷く。
「そういや昨日、夜遅くに小雨が降ってたっけ。……けど、どうしてこれで、僕を起こす必要があったんだよ」
「外、散歩しようぜ」
僕は予想外の言葉に、「はい?」と面食らう。
「どうしてわざわざ、散歩なんてしないといけないんだよ」
「いや、こんなの見たら、普通、テンション上がるだろ。じゃあお前、朝起きて雪が積もってたら、外に出ないのかよ?」
「子供じゃないから出ないし、霧と雪は別でしょ。それに、ここじゃこんなのよくあることだから。どうしても行きたいなら、一人で散歩してきなよ」
瑞己は「いやいや」と僕の腕を掴んで、起こそうとする。
「火伯を一人で歩くなんて、危ないだろ」
「大丈夫だよ。この辺りまで河童が下りてくることなんてないから」
「それでも、万が一ってのがあるだろ。それに、俺はこの辺りの道がよくわからんから、間違って山の方に行ってしまうかもしれないし。ほら、行こうぜ。また帰ってから、いくらでも寝ればいいし」
瑞己はそう言うと、僕の肩を掴んで、身体を揺らし始めた。僕は左右に揺れながら、大きな溜息を吐く。
「あー、もうわかったよ。相変わらず、子供だな」
「無邪気と言ってくれ」
僕は「はいはい」と大きな欠伸をすると、全身の筋肉を伸ばした。瑞己はしつこい性格なので、一度決めたことをなかなか諦めない。そういえばあの時、僕が河童と遭遇したのも、帰ろうとする僕を瑞己がしつこく止めたからだったな、と思い出す。
しかし、たまにはこの辺りをゆっくりと逍遥するのもいいかもしれない。僕はもう一度、今度は小さな欠伸をして、ベッドから下りた。
マンションから出ると、冷たく湿った外気に身体を包まれた。瑞己は薄らと粒が立った腕を抱える。
「凄いな。この時期に肌寒いなんて」
「この辺りは山に囲まれているから、かなり気温は低いよ」
「利便性を代償にして、涼しさを手に入れたわけだな。……ってか、ほとんど前が見えないな。十メートル以上先は、まるで別の世界みたいだ」
「まあ、日が昇るまでには晴れるよ」
僕は欠伸を噛み殺しながらポケットに手を入れたものの、ふと、違和感を覚えた。そしてすぐに、その違和感の正体に気付く。
「ああ、ごめん。部屋に携帯電話、忘れてきた。取りに戻るからちょっと待ってて」
「携帯電話? 別に、ちょっと散歩するくらいだから、要らないんじゃないのか?」
「いや、緊急招集があるかもしれないから、いつも肌身離さず、連絡手段を持つように義務付けられているんだ」
「なるほど。じゃあ待ってるよ」
僕は踵を返すと、小走りで部屋へと戻り、充電器に刺さっていた携帯電話を取った。緊急招集は、河童が出没すると何時であろうとかけられるため、寝ていようが、風呂に入っていようが、常に着信がわかる場所に携帯電話を置いておかないといけない。
瑞己の元へと戻り、「ごめん」と僕は歩き出す。すると、瑞己は「なあ」と隣のマンションを見上げる。
「このマンションってさ、流の住むマンションと同じ形の建物だけど、宿舎なのか?」
「ああ、そうだよ。この二棟が、火伯支部の職員用の宿舎」
「ふーん。じゃあ、あの人も職員なのか」
「あの人って?」
「いや、さっき、そのマンションから出てきた女の人がさ、バイクに乗って走って行ったんだよ。それがさ、すげえ恰好よくてさ」
それを聞いて、僕は立ち止まる。
「……その女の人って、どんな人だった?」
「顔はよく見えなかったけど、白い縁の眼鏡をしてた」
「白い縁の眼鏡っ? 本当に?」
瑞己は「あ、ああ」と身体を引く。
「そんな嘘、つかないって」
「その女の人、どっち行ったかわかる?」
瑞己は鼻白みながら、支部のある山の方を指差す。
「あっちだよ。見えなかったけど、音が向こうに消えていったから」
僕は「ごめんっ」とポケットから部屋の鍵を取り出すと、瑞己へと渡した。
「僕、ちょっと用事が出来た。適当に散歩して、先に部屋に戻っておいて」
「え、いや、ちょっと待てよ」
「多分、数時間で戻る。もし、昼までに戻らなかったら、火伯支部に、今あったことを全て連絡して」
僕はそう言うと、駐輪場へと向かって走った。瑞己は何かが起きたと察したらしく、僕の背中に向かって、「無茶はするなよっ」と声を投げた。
その言葉は、焦る僕を少しだけ、落ち着かせた。




