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十四話『加藤さんの疑惑』

 八幡さんはこれからパチンコをするとのことなので、中華料理屋から宿舎のマンションへは、一人で帰ることになった。


 吹きつける夜風には、薄らと春の香りが漂っている。気温も随分と温かくなってきたので、おそらくあと数日で、桜が開花するのではないのだろうか。


 やがて、徒歩で五分ほど歩くとマンションに着き、エントランスへと向かっていたその時、僕はふと、気配を感じて振り返った。


 すると、数メートル前に、黒服を着た一人の男性が立っていた。年齢は四十代くらい。そしてその視線は、明らかに僕へと向けられている。


「……えっと、何か?」


 黒服の男性は、「すみません」と身体を傾け、マンション前の道路に視線を移した。そこには、先ほどまではなかった、黒い車が止まっていた。


「少し、お話したいことがございまして」

「話? どちら様ですか?」

「久千管理官です」


 久千。その名前を聞いて、僕は驚いた。


 久千といえば、特定動物捕獲管理班の幹部の一人だ。形だけ籍を置いている幹部たちが多い中、現場の声を訊いて回って要望に応えるなど、幹部の中では珍しく優秀な人物であると評判だ。僕も、直接話をしたことはないが、施設生の頃、支部を訪れているのを見たことがある。


 しかし、そんな人が一体、僕に何の用なのだろうか。


 僕は警戒心を保ちながらも、男性に誘導される形で車両へと向かった。


 車両へと近付くと、後部座席の窓が開き、久千管理官が座っているのが見えた。縁のない眼鏡をしていて、顔から聡明さが伝わってくる。確か五十歳前後だったはずだが、白髪がほとんどなく、年齢よりも随分と若く見える。


 僕が「お疲れさまですっ」と背筋を伸ばして挨拶をすると、久千管理官は「ああ」と頷き、手で隣に乗るよう示した。見ると、僕に声をかけてきた男性が既に車道側、後部座席のドアを開けていて、僕は急いで車へと乗り込む。


 ドアが閉まると、久千管理官が「出してくれ」と運転手に告げ、車は静かに発進した。


「えっと、どこに……?」


 僕が訊ねると、「いや」と久千管理官は目元に笑みを浮かべる。


「どこかに向かうわけではないよ。ただ、話をするのに、あの場所に止まっているわけにもいかないからね。少しその辺りを回って、またマンションの前に戻る」

「そうですか。それで一体、話とは?」

「まあ、いきなり本題から入るのもあれだから、まずは少し四方山話でもしようじゃないか。……どうだい? 捕獲管理班に配属されて」


 僕は身体を小さくし、「あ、はい」と答える。


「まだ二日目なので不慣れなことばかりですが、みなさんとても優しいので、何とかやっていけそうです」

「もう、狩りには出たのかい?」

「はい。探索活動には、今日初めて従事しました」

「どうだった? 緊張したかい?」


 僕は「そうですね」と苦笑する。


「やはり、想像していたよりも緊張感が大きかったのと、他の先輩方が凄くて、自分でもこれからやっていけるのかと、不安になりました」

「そうか。しかし、火伯支部に配属されたキミなら心配ないだろう。火伯は河童の数が多い分、優秀な人材を送ると決まっているからね」

「自信になります」


 頭を下げると、久千管理官は小さく頷いた。


「……ところで、何か疑問に思うところなどはなかったかい?」

「疑問、ですか?」


 久千管理官は、顔に僅かな笑みを残したまま、「ああ」と眼鏡を中指で上げる。


「火伯支部に配属されて、気になった点などはないかな?」

「いえ、特にありませんが。……しかし、どうしてそんなことを?」


 久千管理官の表情から、笑みが消える。


「キミが火伯支部にとって新参者だからだよ。成熟した組織は素晴らしい仕事をするが、同時に、中の人間には見えない死角が出来てしまう。だから、今のキミにしか見えないものがあるのではないか、と思ってね」


 なるほど。確かにそれはそうかもしれない。僕は何とか絞り出そうとしてみるものの、何も出てこない。しかし、二度も特にないと答えるのもどうかと思い、必死に絞ってみると、一滴だけ落ちてきた。


「えっと、トイレットペーパーが少し硬いです」


 久千管理官は目を丸くして僕をじっと見つめたあと、弾けたように笑った。


「そうか。それは大変だな。私の方から、もっといいトイレットペーパーを使うよう言っておくよ」


 僕は「ありがとうございます」と礼を言いながらも、何だか恥ずかしくなってきて、俯いた。するとその拍子に、大事なことを思い出した。


「あ、もう一つあります。あの、これまで僕は、河童は単独で行動すると聞いていたのですが、どうやら協力して戦闘を行うこともあるそうです。今のところは火伯地方でのみ確認された生態らしいのですが、これは新たな河童に関する情報として、全ての支部、ないしは、国民に知らせた方がいいのではないかと思います」


 すると久千管理官は頷きながらも、その表情には苦さが滲んでいる。


「それは、キミのところの尾角くんにも頼まれていて、私もそうしたいんだ。だけど、こんなことを言うのはよくないのかもしれないが、他の幹部たちがね……」

「でも、伝えるだけじゃないですか」

「いや、そう簡単なことじゃないよ。今は、河童が一匹で出てくることを想定して、班員の数や装備品などを決めている。しかし、それが二匹で出てくるとなると、当然、二匹を想定した調整をしないといけなくなる」

「しかし、それが必要ならばするべきでは? 命にかかわる問題ですから」


 久千管理官は、「私もそう思うよ」と溜息を吐く。


「だが、残念ながら、私がいくら動いたところで、幹部の決定は多数決制だからね」

「じゃあ、他の幹部の方々が面倒だからという理由で、その情報がそこで止まっているということですか?」

「私の口からは、何とも言えない。キミたちからすると、当然、大きな不満があるかもしれないが、どうしようもないことも、世の中にはある」


 額に手を当て、唇を噛みしめる久千管理官。その様子からするに、相当悔しい思いをしているのだろう。僕も一応、国家機関の端くれなので、公務員の杓子定規な部分や、旧態依然で理不尽な体制などは、理解しているつもりだ。


「出過ぎたことを言って、申し訳ありませんでした」


 僕が謝ると、久千管理官は、「こちらこそ、力不足で申し訳ない」と、僕に向かって小さく頭を下げた。僕は、管理官から謝られたことに戸惑いながらも、「では」と訊ねる。


「それが、僕に話したいことですか?」

「それもそうだが、本題ではない」


 久千管理官は空咳を挟むと、真剣な表情を虚空へと浮かべる。


「キミに一つ、頼みたいことがある」

「頼みたいこと、ですか?」

「ああ。……加藤くんの動向に注意して、不審な点があったら、私に報告して欲しいんだ」

「加藤さんの不審な点、ですか?」


 久千管理官は正面を見たまま頷く。


「実は彼女に関して、不審な動きがあるとの情報がいくつか、匿名で寄せられている」

「不審な動き、とは?」

「夜中から明け方にかけ、河童出没エリアである山の中へと入っていく姿が、何度か目撃されている。ただ、その目的がわからない。……それを、キミに探って貰いたい」


 夜中に山の中へ。確かに、そんな時間に山へと入るのは不自然だ。


「では、本人に訊ねればいいのでしょうか?」

「いや、それは駄目だ。本人に悟られず、そしてこの話は、他の誰にもしてはいけない」

「班長にもですか?」


 久千管理官は、「そうだ」と強く頷いた。


「でも、どうして僕なんですか?」


 久千管理官は、横目で僕を見る。


「それも、キミが火伯支部にとって新参者だからだ。彼らは、命を懸けるという状況の中で、多くの時間を共に過ごしている。そうなると、どうしても情というものが湧き、組織にとって正しくない選択をしてしまうことも有り得る」


 まだ入ったばかりの僕なら、情に流されて、加藤さんを庇ったりする心配がないということか。そして、他の誰にも言ってはいけない理由も、そこにあるのだろう。


 そこから、しばらくの間、息苦しい沈黙が流れた。


 やがて、車両が止まると、車はマンションの前に着いていた。


 僕はすっと息を吸い込み、久千管理官に視線を向ける。


「……それは、頼みごとですか? それとも、命令ですか?」

「どうしてそんなことを訊ねるんだい?」


 久千管理官は、僅かに目を細めた。僕は目を逸らしそうになったものの、じっと見据えたまま、「いえ」と小さく首を振る。


「特に意図はありません。ただ、一応、訊いておこうと思いまして」


 久千管理官は少しの間を空けたあと、「命令だ」と低い声で言った。それを聞いて、僕は「わかりました」と頷き、そして車両から出た。


 車両が見えなくなるまで見送ると、僕は空を仰いだ。


 無数の星が、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、騒いでいた。



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