『運命の日』
夜は雲からやってくる。
雲が眠りに就いたことを確認してから、夜は空に大きな黒い布団を被せて、月に見守りをさせる。しかし、だとしたら星は何のために存在しているのか、なんて思うものの、この世の中にはたくさんの無駄があるので、きっとその内の一つなのだろう。
僕は必死にそんなことを考え、心の中の恐怖心を掻き消していた。
時間は、夜の七時を過ぎようとしている。友達とゲームに夢中になっていたら、つい、こんな時間になってしまっていた。門限は六時半なので、早く帰らなければ親に叱られてしまう。
その時、分かれ道に差し掛り、僕は迷った。
いつも通る道と、森を抜ける道。
森を抜ける道を通ると、家に帰るまでの時間が五分は短縮される。しかし、森を抜ける道は街灯がなく、夜は危ないから通ってはいけないと言われている。確かに、森の入り口はまるで夜を吸い込むかのように真っ暗で、先はほとんど何も見えない。
しかし、今の五分はとても大きい。それに、危ないといっても、僕は昔からよく森の道は通っているので、多少暗くても大丈夫だろう。
僕は唾を飲み込み、森を抜ける道へと足を進めた。
足元では落ち葉が泣き、遥か頭上では木の葉が笑う。頬を冷たい風が撫で、土の強い香りが、鼻の穴を抜けていく。
時折、妙な視線を感じて振り返るものの、当然、そこには誰もおらず、不気味なざわめきを抱いた暗闇だけが、僕をじっと見返している。
早く抜けてしまおう。
僕はぐっとつま先に力を入れ、走り出した。
僕の足音と息遣いだけが、森の中に響き渡る。昼間はあれだけ聞こえてくる鳥や虫の鳴き声は、一切耳に入ってこない。
やがて、前方に薄らと明かりが見えたと思ったその時、ふと、僕は足を止めた。
それは、本能だった。
何かが見えたわけでも、聞こえたわけでもない。ただ、何かが近くにいるような、そんな気配を感じ取ったのだ。
呼吸を止め、ゆっくりと振り返ってみる。しかし、そこには深い闇が広がっているだけで、何かがいるような様子はない。
気のせいだったか。
そう思い、身体を正面へと戻した次の瞬間、視界の端に、二つの緑の光が浮かんでいるのが見えた。そしてその光は、勢いよくこちらに向かってくる。
僕は反射的に、身体を屈めた。
すると、頭の上を何かが通ったような風が吹いたあと、土が擦れる音が聞こえてきた。
顔を上げてその気配に視線を向けると、そこには黒い影があった。大きさは、僕とほとんど同じくらい。怪しく緑色に光る眼は、じっと僕を見つめていて、そこからは小さく唸るような声が聞こえてくる。
そんな、どうして。警報は鳴っていないはず。ということは、僕が第一遭遇者になってしまったということか。
僕は必死に、学校での対策授業の内容を思い出す。
『えー、万が一、河童に出会ってしまった場合は、すぐさま、持っている食べ物などを渡してください』
『先生、食べ物を持っていなかったら、どうすればいいんですか?』
『その時に持っているものを、そっと地面に置いて、背中を見せずにゆっくりと後退りしてください。決して、叫んだり走ったりしてはいけません』
『何も持っていなかった場合は?』
『……その時は、敵意がないことを示すために、優しく話しかけながら、同じく背中を見せずに後退りしましょう』
僕は今、食べ物を持っていない。そして、手に持っているものも、一つもない。そうなると、僕に出来るのは、敵意がないことを示すだけ。
僕は両手を上げ、頬に引きつった笑みを浮かべる。
「ほら、何もしないから」
怪しい光が、一瞬、濁ったような気がした。
僕は一歩ずつ、後ろへと下がっていく。
「ただ、ここを通りたいだけなんだ。キミに危害を加えるつもりはないから」
落ち葉が割れる音と、心臓が内側から僕の胸を叩く音、そして低い唸り声が、静寂の漂う森の中に響き渡る。
大丈夫だ。今は冬でもないし、食糧に困ってはいないはず。無意味に僕みたいな子供を襲ったところで、彼にもメリットはないだろう。
少しずつ、緑の光点は遠ざかっていく。今すぐ走り出したい衝動に駆られるものの、それを必死に抑え込む。これだけの距離を取っても、僕の足じゃ逃げ切ることは出来ない。完全に見えなくなるまで、離れなければ。
その時、緑の光点の位置が、僅かに右へと傾いた。
次の瞬間、耳が土を蹴る音を捉え、僕は反射的に身体を翻し、走り出した。
くそ。どうして。
追いかけてくる足音は、徐々に近付いてくる。
何とか森を抜けたものの、既に足音はすぐ背後にまで近付いてきていた。
「だ、誰かっ、助けてっ」
僕はそう叫びながら、身体を反転させる。
するとそこには、街灯に薄らと照らされた、河童の姿があった。




