冬のある日
息を吹きかけると、窓が白くくもった。幼いころは絵や文字を描いては無邪気に笑えていたが、いつからかそれが出来なくなっていた。静かに座る私に「大人になったのね」と周囲の大人達は口を揃えて褒めたものだが、「もう大人なのだから私達を困らせないでくれるわね」というニュアンスも感じ取れ、うまく笑えずに頷いたのを覚えている。これで扱いやすくなったと言われているようにも思え、素直に喜ぶことが出来なかったのだ。
苦い思い出を払拭するように窓へと手を伸ばし、試しにハートマークを描いてみた。車内との温度差ですでに白い部分がほとんど残っていない窓ガラスに描いたので、ほとんど何を描いたか分からなくなっている。指先に水滴が残っただけだった。
父は「扱いやすい」大人だ。ヨレヨレのスーツに身を包まれて家を出ていき、バスと満員電車を乗り継いで通勤している。同じ会社で事務として働いている父方の親戚に働きぶりを聞けば「真面目だけど地味」らしい。時々、年下の上司に八つ当たりに近い叱責を受けても、黙って頭を下げてから上司を宥めていると聞いた。
そんな父と、学校の帰りのバスで一緒になった。一緒になったといっても、向こうは私の存在に気づいていない。降車口近くの一人掛け席に座っている。白髪混じりの髪は父が憧れるロマンスグレーには程遠く、私が父の日にあげたユニクロのマフラーはなぜか某俳優のようにねじられていたものだからひどく違和感がある。バスに乗り込んできた父のそのマフラーの締め方を見て、思わず目を背けてしまった程だ。恥ずかしいとは少し違うのだが、見ていられない。
バス停に着くたびに、様々な人が乗り込んでくる。見知った顔ではないが、私と同じ制服の女の子が座っていた父の横に立った。父はちらりと女の子を見ると、すぐに立って「どうぞ」と席を譲った。突然のことに女の子は一瞬戸惑いの視線を向けたが、すぐにその席に腰かけ、父には礼も言わずにさっさとアイフォンを弄り始めた。
なぜか無性に腹が立った。逆なら分かる。朝早くに家を出て、家族のために働いてくたくたの状態でバスに揺られている父に、学生の身である女の子が席を譲るならまだ分かる。どうして、父はわざわざ彼女に声をかけたのか。また、どうして彼女は礼を言うこともなく席にふんぞり返っているのか。
最寄のバス停が近づいてきて、父が降車口から降りていく。私も慌てて追いかけ、歩いていく父の腕を掴んだ。やはり父は私に気づいていなかったようで、大げさに飛び上がってからまじまじと私を見つめ、深く長い息を吐いた。
「この年齢になって、はじめて親父狩りの経験をするかと思った」
「そんなことより」
私は父の話を遮る。年齢を重ねるにしたがって、父とはあまり会話らしい会話をしていなかった。母とはよくスイーツバイキングに出かけたり、ショッピングに付き合ってもらうことはあるが、父との思い出はほとんどない。これが久しぶりの会話だ。
「どうして、あんな子に席を譲るの?お父さんの降りるバス停はまだ先だったし、お礼も言わずに座るなんて本当に失礼な子じゃない。どうして?」
父は足元を見ながらしばらく歩いていたが、顎を爪でかきながら笑った。
「あの子じゃなくても、席は譲るつもりだったなあ。あまり深くは考えていないけど、あの子の方がお父さんよりも座りたがっているような気がしたから。まあ、確かにお礼はなかったかもしれないけど、今時の子に限らず、お礼を言うのは照れくさいもんだろう。ああいうのは、別に当人に対して返してくれなくてもいいんだよ。あの子が他の誰かに返してくれた方が、嬉しい」
吹き飛ばそうとしているのは寒さなのか、照れなのか、どちらかは良くわからないが、家にいるよりも父は饒舌だった。「真面目で地味」らしい父を心のどこかで疎ましく思っていた自分もいた。けれど、父の言葉には不思議な重みがあって、すとんと胸のつかえがおりたような気がした。
そういえば、幼い私がバスや電車のくもりガラスに絵を描かなくなった頃、父の書斎に招かれたことがある。そこには沢山の分厚い本が置いてあって、いつでも珈琲の香りがふわりと漂っていた。父は私に甘い紅茶を淹れてくれて、書斎の窓を指してこう言ったのだ。
「さあ、お父さんの部屋の窓は好きに使っていいんだぞ。お前だけのキャンバスだ」
幼い私は目を輝かせて窓いっぱいに絵を描いた。描き間違えたところは二人ではあと息を吹きかけて消した。夕陽の赤色が部屋を満たすまで、その日は絵を描き続けた。
そんな思い出を私はすっかり忘れていた。一度思い出してしまうと、大人にならなければと焦っていた幼い私を思う存分子ども扱いしてくれた父が蘇ってきて、目の前の父が少し格好良く見えたものだから思わず瞼をこすった。
「たまに、嫌になったりしないの?そういう優しさ」
「そんなことはしょっちゅうある。ありはするけれど、なんて言うんだろうな。後先考えずに行動した方が上手くいくんだよ。良いことは特に」
「そっか。そういうものか」
後先考えずに行動した方が上手くいく。心の中で噛みくだいてから、父のマフラーに素早く手を伸ばすとねじねじを解いて、くるりと首に掛けなおした。
「絶対にそっちの方がいいから。ねじねじはもうしない方がいいよ」
再び私をまじまじと見つめてから、父が呟く。
「そっか。そういうものか」
「そういうものだよ」
その後も父はいつもより饒舌で、私もいつもより饒舌だった。冬の冷たい風を頬に受けながら、二人で家路を辿った。
そして、ちょうど同時刻。
バスに乗り込んできた乗客の中に杖をつく老婦人を見かけた女子生徒は、自分の最寄よりも大分前のバス停で席から立ちあがった。
fin