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凶牙

 実際、雛の森と思われるこの場所は奇妙な空間だった。

 まず最初に神酒達が違和感を持ったのが、彼女らの靴の下に感じる土質である。

 ここ数日、鳳町に雨らしい雨は降ってはいない。だから土もほとんど乾いているはずだっだし、ここに来るまでも実際そうだった。

 しかし、ここは違っていた。笹の下にある土は明らかに湿っていたのだ。

 一歩踏み出す度に足を取られそうになったり滑ったりしながら、彼女達の前進は、思うようにはいかなかった。


 次に違和感を持ったのは気温である。

 ここにはあの森の清涼感はどこにも無い。少し寒いぐらいにさえ感じていた石着山の気温は、何時に間にこんなに上昇したのか、今は黙っていても汗が噴き出す程に暑くなっている。土の高い湿度も手伝ってか、汗がべとついて非常に居心地が悪い。


 そして彼女達が一番に違和感と面妖さを感じているもの。それは「音」だった。彼女達の囁き声と歩く音以外、全く何も聞こえないのである。

 ここに辿り着くまでの間、森は静かだったとは言え、それなりに何か耳に響いてくるものはあった。例えば鳥や虫の鳴き声、葉や草が擦れ合う音などがそうだ。

 しかし、今はそれさえもが聞こえてこない。


「ねえ、まだ進む?まだなんにも見えないよ」

 七海が声を出した。

 神酒達がこの森に足を踏み入れてから三十分程度の時間が経っただろうか。見えるのは笹の群生と無数の人形達だけで、目指す建物の姿はまだ見えてくる気配は無い。

 なんとか不安を押し殺して前に進んでいた3人だったが、そろそろ強がりも限界に近づいてきた様子である。

「そうですね」

 輝蘭が立ち止まって、ふうと一息ついた。

「時計を持ってこなかったのは失敗ですね。今何時ぐらいでしょう?」


 不快な空気は好転する兆しはない。

 森の木々の間から見える陽射しから、まだ暗くなるには早い時間だというのは判るが、何時ぐらいかを推定するのは難しくなっている。それに加え、相変わらず途切れることのない人形達の群れが彼女達をじっと見つめていて、とてもではないが気持ちが安定しているとは言えない状況だ。


「このままでは危険かも知れませんね。雛の森を見つけることもできましたし、ナミさんの言う通り、一度戻ったほうがいいのかも知れません。」

「賛成。」

 輝蘭の提案に、神酒が答えた。

「もう一度ちゃんと準備してから来るか、大人の人に知らせたほうが・・・」

 そして振り向きながらこう答えた神酒だったが、彼女が後ろを向いた瞬間、思わぬ悲鳴を上げた。

「!」

 神酒の悲鳴に、輝蘭と七海も後ろを振り向いた。そして、見てしまったのだ。


 今まで彼女達が歩いてきた方向、何も発見できなかった丈が腰程の笹林の中に、一軒の巨大な古い建物が見えているのを。

「そ・・、そんな・・」

「そんなはずないよ!だって・・、今歩いてきたばっかりの所だよ!?」


 それは異様な廃屋だった。大きさは、小学校の体育館を一回り小さくした程度だろうか。二階建ての木造建築で、洋式とも和式とも分類できない粗末な民家だが、造りはしっかりとしているようで、遠目からではあるが板間に隙間らしきものは見えない。しかし所々板が剥げ落ちて黒ずんだ部分が目立ち、人が住まなくなって何年も経っているような印象を受ける。


 この建物の出現ですっかり茫然自失となってしまった七海は、もう泣き出す寸前だった。それに気がついた輝蘭は、なんとか平静を保ちながら七海を慰めた。

「ナミさん、しっかりしてください。大丈夫ですよ。この暑さでみんな疲れていて気付かなかっただけです。きっと見落としたんでしょう」

 慌てたように神酒も続いた。

「そ、そうだよ、ナミ。たまたま気付かなかっただけだよ。あたしがあんまり驚いたから・・・、ごめんね・・」


「ミキ・・、キララ・・」

 必死に泣くまいと堪えていた七海だったが、もう限界だった。目にいっぱいに溜まっていた涙が、彼女の頬を伝ってぽろぽろと流れ落ちている。声もひどく震えていて、七海は両手を目に当てて泣きながら2人の肩にもたれかかった。

「もう限界だよ・・。帰ろうよ・・、ミキ・・、キララ・・」

「・・・うん。帰ろ、ナミ」

神酒の優しい言葉に、七海は彼女らの肩に顔を埋めたままコクンとうなずいた。



                  ★


「おーい!ミキさーん!キララさーん!ナナミさーん!」

 黒苺の木の前で一人取り残されたロバートは、大声で叫びながら彼女達を探し回っていた。

「おかしいな、普通じゃない」

ちょっと用事があったとか、急に帰りたくなって帰ったとか、そういう類ではないことに彼はすぐに気付いていた。

 あの歪んだ小さな竜巻のような風が吹いたほんの数秒の時間。たったその僅かな時間の間に、三人の少女が揃って姿を消してしまうなど、有り得ないことだと彼は既に理解していた。

 

 ロバートは再び黒苺の前に立つと、その手に持っていた黒い鞄を開き、中から一冊の聖書を取り出し左手に握った。そして、首にかけていた旧い金色のロザリオを取り外し右手に握ると、両足を軽く開き重心を安定させて目を閉じ、まるで呪文を詠唱するかのように、祈りの言葉を静かに、しかし力強く唱え始めた。

 彼はこの出来事を人智の理解を越えたものの仕業と考え、神の御力に頼ろうと考えたのである。

 そしてロバートは何度も繰り返して十字を切り続けると、20分ほど続けた頃だろうか。彼の目の前に一つの変化が起きた。

 彼のいる場所から黒苺の木を挟んだちょうど反対側の風景が、急にぼやけ始めたのである。

 それは、まるで歪んだ1メートル四方のキャンバスが空中に浮いているような状態で、ロバートは祈りを止め、そのキャンバスを凝視した。そこには、石着山の風景には程遠い別の場所を感じさせる風景が描き出されていたのだ。


 独特の楕円に尖った葉先を持つ、もう枯れかけた見渡す限りの笹林。

 それは、一面の笹の群生地帯だったのである。


 予想を超えた出来事を目の当たりにしたロバートは、その風景の真偽を確かめようと、右手をキャンバスに伸ばした。

 そして、その時だった。

 業の深い忌み事が、ロバートのもとに歩み寄ったのである。

 笹林から、ロバートが伸ばした右手を噛み付こうと何かが飛び出したのだ。


 咄嗟の出来事に急いで右手を引っ込めたロバートだったが、それはキャンバスよりこちらに出てくるつもりは無かったようで、一瞬だけ見せた鋭利な牙をたたむと、そのままキャンバスと一緒に姿を消してしまったのだ。


 まさに一瞬の出来事だったが、ロバートはその凶悪なものの一部をはっきりと目撃していた。それは、凶暴な獣だったのである。

 何の種類の獣かは分からないが、ライオンのように開いた顎と、サメのように並んだ鋭利な牙から、それがこの世には存在していない凶悪な獣であるということは容易に予想することができた。

そしてもう一つ、消えてしまった三人の少女達に未曾有の危機が迫っているということも。


 彼女達が危ない。どうする。法王庁に連絡をしてエクソシスト【悪魔祓い師】を頼むか?

 いや、だめだ。バチカンを納得させるためには材料が少なすぎるし、何よりも時間が無い。

 しかし、今の自分ではこれ以上のことはできそうにない。

 明らかに彼女たちに対して悪意を持つものが存在する。

 どうする?考えろ!


 短い沈黙の時間が流れた。

 しかし、しばらくその場に佇んでいたロバートだったが、ふいに彼の頭の中を、ある閃きが駆け巡った。

「そうだ!」

 ロバートは付近に誰もいないことを理解していたのかは判らないが、一言大声でそう叫ぶと、真剣な目つきのまま、彼の住居である鳳教会に向かって駆け出した。

 彼の頭の中に、ある名案が浮かんだのだった。


☆☆☆


 雛の森に迷い込んでしまった神酒と輝蘭と七海。

 繰り返し起きる未体験の出来事と、突然三人の前に現れた廃屋の存在に、彼女らはすっかり意気消沈となっていた。特にこの手のことが一番苦手な七海は、もうどうにもならないぐらいに落ち込んでいて、まだ絵里子を見つけることはできないでいたが、一度退却する選択をせざるを得ない状況だった。

 

 謎の廃屋の横を通り、すっかり涙に暮れてしまった七海の手を引きながら、輝蘭はその建物の様子をつぶさに観察した。遠目で先程だいたいの感じは掴んでいたが、改めて近づいてみてもその印象は変わらない。

 ただ割れた窓ガラスなどが見えるので、日本の伝統的な建物ではなく、割合最近(戦後?)に建てられたものではないかということは想像することはできた。

 廃屋の周りには、多分以前にここに住んでいた住民が使っていたものであろう。軒下に吊るされた麻袋や錆びたシャベルなど様々な生活臭のある道具を目にすることができる。

 輝蘭はそれらを眺めながら、いったいどんな人物が住んでいたのだろうと想いを巡らせていた。

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