黒苺
人は何故昔森に住んでいたのか。実際に森を訪れたことがあるならば、仄かであれ実感としてそれを理解できる人は多いであろう。
木々と草の群れは、我々の五感のどれにも心地好さを与えてくれる。
柔らかく流れる風や涼やかな自然の空調は触覚を。
葉の群れの間から煌く木漏れ日や緑のコントラストは視覚を。
山鳥や葉が風に擦れ合う音は聴覚を。
柔らかく、且つ甘く爽やか香りは嗅覚を。
そして、町の僅かであれ淀んだ大気を肺より洗い流す新鮮な空気と山の恵みは味覚を。
あたかも清水のような森の清涼感は、光合成のなせる業だと博学ぶりを披露したくなる人もいるだろう。だが、ただその人の心を安らげる不思議なほどに優しい雰囲気に感動したいというだけならば、その知識は微塵も役に立つものではない。
中世の神話に、人の心を惑わすドライアドの伝説があるが、森の持つその魅力が人々に木霊の存在を錯覚させるのは、もしかしたら無理からぬことなのかも知れない。
神酒、輝蘭、七海達に途中から保護者的存在となって加わったロバート神父を含め、奇妙な4人組となったこのグループは、石着山の麓付近にある小さな森を目指して歩いていた。
道は舗装されていないとは言え、うっそうと生い茂る野草の間を、最初ははっきりとそれと分かる様相で4人を前へと導いていた。
しかし、さらに十分程歩いた頃であろうか。道の端に控えめに生えていた雑草は次第に勢いを増していき、道を獣道へと姿を変えさせ、彼らの行く手をだんだんと阻み始めた。
夏には彼女達の背丈程もあった草が、季節が秋に移り、その丈を縮めているのだが、それでも神酒達の歩みを遅くさせるに充分な力を持っていた。
「この先だよね」
「うん、もう少しだと思う」
女の子達の会話に、ロバートが興味を持った。
「お嬢さんがた、何が『もう少し』なんですか?」
「あのね」
七海がイタズラッぽく笑って答えた。
「ここもう少し進んだ所に、黒苺の木があるんです」
「そうそう。」
神酒が続いた。
「夏休みに何回かここに来て食べたの。まだ生っているといいな」
「黒苺?ああ、ブラックベリーのことですか」
黒苺とは、山地に生える落葉低木である。初夏から夏にかけて淡い紅色の少し酸味のある直径一センチほどの実をつける。実は熟すと色が黒くなるが、それはそれで甘さが増し、意外に美味しい。しかし熟しすぎて地面に落ちてしまった物には、手を付けないほうがいいようである。
ブラックベリーか。まあ時期が過ぎているから、彼女達が喜ぶような物はもう残っていないだろうな。
ロバートはそんなふうに思っていたが、率先して女の子達をがっかりさせる必要もないので、口には出さないでいた。
彼らが先に進むにつれて、周りの状況が少しずつ変化していった。先程まで心地好く聞こえていた山鳥達の微かな鳴き声が、ほとんど聞こえなくなったのである。
代わりに薄気味悪いカラスの鳴き声が辺りに響くようになり、ここに来た時には空は晴れ渡っていたが、今はその空の青さの一部も見えない程に雲が空を覆っている。
「おかしいね。まだこんなに暗くなるほどの時間じゃないような気がするんだけど」
輝蘭がポツリと言った。
快い程度に身にまとわり付いていた風もすっかり無風状態になっており、気味の悪さが増している。
「なんか嫌な感じね」
そして、やがて背の高い沢山の木が、空が見えない程に四人を覆い、カラスの鳴き声すらすっかり聞こえなくなった頃、神酒達が見覚えのある場所が彼らの前に現れた。
2メートル程度の背の低い曲がりくねった幹、下向きの棘と髭のある蔓状の茎、
間違いなく神酒達の言っていた黒苺の木である。少女達がその木に駆け寄るのを遠巻きに見ながら、ロバートは木の様子をつぶさに観察した。やはり旬が過ぎているらしく、実の一粒も生ってはいない。
ところがその時である。神酒が奇妙なことを言い出した。
「わあ!まだこんなに実が生ってる!やったあ!」
え?ロバートが耳を疑った。
続いて輝蘭も声を上げる。
「本当。まさかこんなに生ってるとは思いませんでした。」
実の無い木を見て、いったい彼女達は何を言っているのだろう?
「おいおい、君達。何言ってるんだい?その木に実なんか・・・」
その時、一陣の突風が吹いた。
その風は、ロバートの最後の台詞が終わるか終わらないかの時に4人を囲むように歪んだ弧を描き、砂塵を巻き上げて吹き荒れた。時間にして約五秒程度だろうか。
しかし、その僅かな時間の中で、状況は大きく変化していた。突風と砂塵から目を閉じたロバートが再びまぶたを開いた時、神酒と輝蘭と七海の3人は、彼の前から姿を消していたのである。
「しまった・・」
ロバートは急いで辺りを探したが、三人の少女達の姿は影も形も無くなっていた。辺りはしんとしていて、ただ微風に揺れる葉の小さなざわめきだけが聞こえるのみで、もう誰もロバートの問いかけに答える者はいなかったのである。
★
「黒苺はいいからさ。早くリコを見つけようよ」
意外な程の赤い実を目の当たりにして色めき立った神酒だったが、七海の指摘を受けてペロンと舌を出した。
「あれ?神父様は?」
その奇妙なことに最初に気が付いたのは輝蘭で、たった今の今まですぐ傍にいたロバート神父が、どこにも見当たらない。
「おかしいな。今まであたしの後ろにいたのに」
「用事でも思い出して帰ったのかしら?」
「えー?でもだったら一言断ってから行くと思わない?」
神父がいなくなったことで、何やら小さな討論を始めた輝蘭と七海だったが、
神酒はそれを背中に、黒苺に手を伸ばそうとしていた。やはり小さな甘い実の誘惑には勝てないようで、まあ2人が話をしている間ぐらいいいだろうと思ったからである。
「いただきまー・・・ん?」
彼女が一つ目の黒苺に触れようとした時、その木の根元に何かが落ちていることに気がついた。そしてそれを拾い上げた時、神酒を大きなショックが襲った。
「どうしたの?ミキ」
輝蘭は神酒の表情の変化に気付き声をかけたが、あきらかに神酒の表情がおかしい。なんと言えばいいのだろう。困ったような、驚いたような、今にも泣きそうな表情とでも言えばいいのだろうか。
「どうしたの?そんな顔して・・!」
神酒の手には、一つの日本人形が握られていた。それは、明らかに人の手で作られた陶器の人形だった。
日本古来の人形によく見られるおかっぱの髪の毛、白塗りの顔、細い目があり、何かの花の模様で彩られた着物を身に付けていて、いかにも高価そうな逸品だったのである。
ただ、かなり古い物で随分あちこちが汚れたり痛んだりしていて、とても持ち帰りたいとは思えない代物だった。
事態を把握し始めた三人は、驚愕のうちに辺りを見回し、驚きとも恐れとも取れるため息をついた。
「あ・・、あ・・・」
彼女達の周りの風景が、いつの間にか一変していたのだ。
先程まで彼女達を取り巻いていたのは、確かにたくさんの種類の名も知らぬ野草や雑草達だった。しかし今は、どこを見渡してもそれらは無かったのである。
神酒達の周りにあったのは一面の笹。あの尖った楕円の葉を持つ笹の群生が、まるで彼女達を引き込むかのごとく、無音の喧騒を投げかけていたのである。
「そ、そんな・・」
少女達が確認した事実はそれだけではなかった。
彼女らの腰の高さほどの笹の群れの間に見えるいくつもの人工的な造形。
まるで見つけてくれと言わんばかりに、無数の人形達が土の上に散りばめられ、
じっと神酒達を睨むかのように笹の隙間に見え隠れしていたのである。
「人形だ・・。こんなにたくさん・・」
ざっと見ただけでも、そこにはいろいろな種類の人形があった。
最初に見つけたような陶器の物。
折り紙で折られた物。
もっと粗末な紙で出来ている物。
雛人形、麦わらで編まれた物。
布や金糸銀糸で作られた物。
巻き毛の西洋風の物・・・。
「雛の森・・・、本当に、あったんだ・・・」
七海が呟いた。
いつの間にか、三人はお互いの手をしっかりと握り合っていた。
遂に絵里子のいる場所に辿り着いたという達成感はあったが、とてもそれを喜べるような気持ちにはなれなかった。なぜなら彼女らの心を、大きな「恐怖」と「不安」が支配していたからである。
しばらくの沈黙の後、最初に言葉を出したのは輝蘭だった。
「先に進みましょう。きっとこの先に何か建物があるはずです・・」
神酒と七海は少し泣きそうな顔をしながらも、何も言わずに輝蘭にうなずいた。そして、肩を寄せ合うようにしながら、ゆっくりと前に進みだしたのだった。