0と1の間に
いくつかの事件を間近に見た後、彼は今までとは雰囲気の違う、ある落ち着いた空間に辿り着いていた。
そこはどこか懐かしいような雰囲気を持つ良家の一室で、室内には子ども用の勉強机が置いてあり、壁には子どもが描いたと思われる絵が何枚も飾ってある。小さな棚には女の子用の人形や縫いぐるみがいくつも並べて置いてあり、ロバートにはそこが女の子用の子ども部屋であることが判った。
窓際にはカラフルなベッドがあり、その上に女の子がいる。
年の頃は十歳程だろうか。窓の外を眺めているので顔立ちまでは分からないが、茶色がかった金髪の少女で、白地にオレンジのパジャマを見に付けており、
膝の上には、これもまた金髪に巻き毛の少女の人形を乗せている。
少女はなんとなく寂しげで、窓の外の風景を眺めるその姿は、なんとなくO・ヘンリーの『最後の一葉』を連想させる。
その時後ろの方でドアの開く音がし、ロバートが振り向くと、そこには思いがけない人物が立っていた。
「ベル・・・」
その部屋に入ってきたのは、ロバートに孫娘の調査を依頼した人物、ハリー・ケネスだったのである。
ロバートは少々焦った。誰に断るわけでなくこんな場所に入り込んでしまっては、その行為をとがめられるのではないかと思ったからだ。ところが目の前に彼が立っているにも関わらず、ハリーがロバートに気付いた様子はない。ハリーは彼の前を通り過ぎると、そのままベッドのある場所へと進んでいってしまった。
「見えていないのか?」
ハリーはベッドの傍に立つと、ベッドの上に腰掛ける少女に声をかけた。
「ベル・・」
あの少女がベルなのか。
振り返った少女は、美しい整った顔立ちをしている。しかしそれと同時に少しやつれている印象を受け、顔色もあまり良くないし、表情も沈んでいる。
おそらくハリーが言っていた病気との闘病中の場面に来たのだろう。
ハリーはそんなベルにいくつか言葉をかけると、額に軽くキスをして部屋を出ていってしまった。
この様子を見たロバートは、この家族のことをとても不憫に思っていた。
確かハリーの娘でもあるベルの母親は病気で亡くなっており、父親もこの家を出て行って今はいないはず。この愛らしい孫娘もこの後失ってしまうのであれば、ハリーの哀しみはいかばかりだろうと想像せざるを得なかった。
ハリーが部屋を出た後、しばらくベッドの中で大人しくしていたベルだったが、またすぐに上半身を起こすと、傍らに置いてあった人形を抱き上げ、その人形に向かって何かを話しかけ始めた。
ロバートがベッドの傍に回りこむと、人形の着ている青いドレスに、刺繍で何かメリーと書かれている。きっとベルの母親の名前なのだろう。
「お母さん・・」
ベルは人形に母親の幻影を見ているのだとロバートは思った。
多分この人形は母親の形見なのだろう。だから他の玩具とは扱いを別にして、自分の傍に置いているのに違いない。
「前はよく来てくれたジル達も、もう全然来てくれなくなっちゃったね・・。
私のこと、忘れちゃったのかな・・。私、寂しいよ・・」
こんな年端も行かぬ少女が、幼くしていくつもの乗り越えがたい試練を背負っている。それが運命という神が与えた試練だとしたら、神はなんと残酷な存在なのだろう。
『信仰を貫くこと』と、どこかから声が聞こえた。
「そうだったな」
ロバートはフッと笑った。
忘れてはいけない。運命がどんなに残酷であっても、その輪廻の螺旋の中で、必ず神は救いを与えてくれる。そう信じているから、神父になる道を選んだのじゃないか。
その時のことだった。ロバートの身に、思いもかけない出来事が起きた。不意に顔を上げたベルと、目が合ったのである。
自分の姿は見えていないと認識していたロバートだったが、その考えが崩れてしまったことに、一瞬彼は慌てふためいた。
「神父・・様・・?」
「ええっ!?」
ロバートはしまったと思った。
ここでこの少女に大声でも出されたら、警察沙汰になりかねない。
ところが少女は意外な反応を見せ、急いで両手で涙を拭くと、ロバートに向けてにっこりと笑顔を送ったのである。
「こんにちは、神父様。何時の間にいらっしゃったんですか?全然気がつきませんでした」
「ああ、その、君のおじいちゃんに呼ばれてね・・」
確かに間違いではない。
「はい、そうでしたか。私、足が悪くて動けないもんだから、おじいちゃんが気を遣っていろんなお客様を呼んできてくれるんです。他の神父様にもお会いしましたし、学校の先生や大道芸の方達も来てくださいました。神父様は初めてお会いしますね。お名前を教えていただけますか?」
「ぼく?ロバート。ロバート・フォースといいます。初めまして、ベルさん」
「初めまして、ロバート神父様」
それから二人はしばらくの間、いろいろな話をした。
ベルは余程暇だったのか、または相手をしてくれる人物に飢えていたのであろう。ロバートが話題を提供する間も与えず、くったくの無い笑顔で、たくさんの想いや考えを彼に投げかけてくれる。
また、ロバートが『ノアの方舟』を初めとする聖書の様々な話をすると目を輝かせ、瞬きもせずに彼の顔に注目しながら物語に聞き入っていた。
時間としてはそう長いものではなかっただろうが、ロバートはこの少女にだんだんと好感を持っていった。そしてもしこの場にあの三人の少女、確か名前をミキ、キララ、ナナミと言っただろうか?
彼女達がいたら、きっとこの少女は、多分短い時間ではあっても幸せな時を過ごせたに違いないだろうとも思い、その話も付け加えた。
「素敵!その3人の女の子、もし出会えたらお友達になってくれるかな?」
「多分ね。向こうが放っておかないと思うよ」
「会ってみたいな・・」
ベルが感傷的になってしまったので、ロバートは慌てて話を変えた。
「ベル。しかし、動けないとはいえ、いつもここで外の景色ばかり眺めているのは、少し飽きたりしないかい?」
「いいえ、神父様」
ベルはきっぱりと答えた。そして再び窓から見える広い庭の景色に目をやると、巻き毛の人形の頭を撫でながら、ロバートにこう話した。
「最初は私もそう思っていました。窓から見える景色は一枚の絵みたいで、毎日あまり変わらない風景を眺めているのはつまらないって。でも私、そのうち気付いたことがあったんです。例え見えているものが同じでも、ここから見えるあの一本の木も草も、どれもみんな違っていて、みんながそれぞれ生きているんだって。蝶が飛んできたり、草が風で揺れているのを見たりすると、何を考えているのかな?とか、どんなお話をしているのかな?とか思うんです。
こんなにたくさんの緑があるんだもん、それを考えているだけで、とっても楽しいとは思いませんか?神父様」
「そうだね、ベル。とっても素敵なことだと思うよ」
「でも・・」
ベルが舌をペロッと出した。いかにも小さな子どもらしい仕草だ。
「やっぱり飽きます。神父様」
2人は声を上げて笑った。
ロバートはとても温かい想いが胸に広がっていて、こんなに心から笑ったのは久しぶりだと思った。
「でもね。そんな時、秘密でこの部屋から抜け出す方法があるんです」
「えっ?」
ベルは上半身を前に伸ばすと、ベッドのすぐ傍にある小さな棚の引き出しを開けた。ロバートがちらりと覗くと、そこには見覚えのある古い書類が詰め込まれている。書類にはいくつもの数え切れない数式や記号がびっしりと書き込まれていて、その不可思議な配列の記憶が彼の頭に甦ってくる。
間違いない。ハリーが前に彼のもとに持ってきたあの書類だ。
「おじいちゃんには絶対内緒にしてくださいね」
ベルはそのたくさんの書類の中から一枚を取り出すと、息を止めて、じっとそれを見つめた。しかししばらくして何事も起きる気配がないことが判ると、彼女はふうと一息をついて、また神父の方を向きなおして笑顔を見せた。
「それは?」
「おまじないです。前にお父さんが内緒で教えてくれたんです。これを使うと、どこでも好きな場所に連れて行ってくれるんだよって言ってました。前に一回だけ、ここを抜け出して何も無い真っ白な大きな部屋に行くことができたんだけど・・。今日もやっぱり無理みたい・・・」
「抜け出した・・?」
ロバートは驚愕した。
かつてベルの祖父であるハリーは、ケネス家に伝わる数式によって、時間や空間を越えることができると確かに言っていた。彼はその話を信じていたわけではないが、この少女は偽らざる素直な言葉でそれができたと言っているのだ。
ベルが嘘をつくような少女とは思えない。
彼女は脳の腫瘍を患っているのだから、もしかしたらそれが幻覚を見せたのだろうか。
「お父さんはこう言っていたんです。『この計算は、普通の人なら特別な薬でも使わないと難しすぎて理解できない。でもベルの頭の中にある病気はすごい力を持っていて、お前なら薬を使わなくてもそれができるかも知れない。』って。」
脳の腫瘍は、普通ならば人に苦痛のみを与える恐ろしい病気だ。しかし希にではあるが、その病巣は人間の脳に特殊な能力を与えることがある。そのことを彼は噂では聞いたことがあったが、現実に起こりえるのかを疑問に思った。
「本当にこの部屋を抜け出せたのかい?」
「ええ。気が付いたら、何にも無い真っ白な部屋にいたんです。なんて言えばいいのかな・・。透き通っているって言えばいいのか、輝いているって言うのか。
でも、壁や天井はあるんですよ。そこでは何故か私も立つことができて・・」
不意にベルの言葉が切れた。見ると彼女の顔にたくさんの汗が浮かんでいる。
視点が宙の一箇所を鋭く見つめるような状態で、人形を落とし、息を荒くしながら胸のあたりを掻きむしるように握っていた。
ベルの様子がおかしい。
「だ、大丈夫か?」
「お、おじいちゃんを呼んで・・。また発作が・・」
ベルの容態が急変したのだ。
驚いたロバートは立ち上がると、急いでドアに走った。
不法侵入などと言ってはいられない。しかし彼はドアノブを握ろうとしたが、何故かそれに触れることすら出来なかった。
ロバートは、この世界での存在はかなり不安定なようで、時間あるいはそれ以外のものに起因するのか、実体がはっきりすることもあれば、まるで幽霊のように物にすら触れることの出来ないような状態にもなるようだ。
いや、もしかしたらあの『R』が、意識的に作為を持って操作しているのかも知れない。
物をすり抜けられるならと、ロバートはまるで幽霊のようにドアをスルリと抜けると、そのまま階段を駆け下りた。
「ハリーさん!ハリーさん!」
彼はすぐに廊下の傍で電話をしているハリーを見つけることができたが、彼の背中を叩こうとしても、触れることができない。いくら大声で叫んでもその声が届いている様子も無く、ロバートの焦りは頂点に達しようとしていた。
「こんな時に!」
ロバートは急いでベルの部屋まで戻ると、彼女のベッドの周りを見回した。
ベルは重病の身である。何かがあった時のために、緊急用の呼び出しのための機器が何か用意してあるはずだ。
「あ、あった!」
ベッドのすぐ枕元、ベルのちょうど頭の上あたりに、オレンジ色のボタンがある。しかし先程と同じく、ロバートはそのボタンを何度も押そうとしたが、どうしてもボタンに触れることができない。
細かく痙攣を始めるベル。
「ベル!今から君を抱えてハリーの所まで担いで行く!しっかりするんだ!」
「神父・・様・・」
ベルが、ロバートの手を握った。
「恐い・・、恐い・・・よ・・・」
「ベル!しっかりしろ!」
「私、一人ぼっちで・・逝きたくない・・・」
ベルの手が、スルリとロバートの手をすり抜けた。
表情すら固まり始めたベルの目に涙があふれる。
彼は、遂にベルにすら触れることができなくなってしまったのである。
そして遂にまたロバートの周りを、あの闇が少しずつ覆い始めた。
「やめろ!まだだ!まだ彼女は死んではいない!」
ロバートは叫んだが、それでも彼を包む闇は、その手を緩めようとはしなかった。
「ベル、だめだ!諦めちゃいけない!呼吸を整えて・・」
しかしそんな神父の叫びとは裏腹に、ベルの呼吸はどんどんと弱くなっていった。
「私、友だちも・・、お母さんも・・何も無い・・」
ベルは泣いていた。彼女にはいくつもの満たされぬ思いがあった。
彼女の元からいなくなってしまった母のこと。
彼女のことを忘れてしまった友人達のこと。
思い出にすらできなくなった自由な散策のこと。
本当はベルは信じていた。いつか神様は、必ず彼女の思いを聞き入れてくれると。
しかし現実は違っていた。運命は皮肉にも、一度にその全てを死によって解消させようとしているのである。
幼いながらも、彼女はそれを現実として受け入れるしか術がないことを知ってしまったのだ。
そして、それっきりだった。
苦しさと寂しさの色を顔に浮かべ、ロバートを見つめる少女。ロバートはもちろんベルが助からないことを知っている。しかし、それでも彼は納得できなかった。
自分が目の前に居ながら何もできない理不尽さ。ただ寂しさの中に死んでいく少女を見守ることしかできない己の無力さを。
闇の中に消え行く神父を見つめながら、幼くして死が孤独であることをベルは既に知ってしまっていた。
それは誰もが必ず通る道ではあるが、彼女が通るにはまだ早すぎるとロバートは強く感じた。
「何をさせたい?貴様はいったい私に何を見せたいんだ!?」
闇の中に光が見えた。それは決して大きな光ではなかったが、光はまるでロバートにその存在を強く印象付けるかのように、強くその輝きを発している。
彼が光の中に見たもの。それは、真っ白に輝く広い一室だった。
部屋の片隅に、一人の少女がうずくまっている。
きちんと両足を揃え、顔を伏せ、まるで黙って泣いているかのように体を動かさない。ロバートが見間違えるはずもなく、それは間違いなくベルの姿だった。
彼女は言っていた。
一度真っ白に輝く不思議な部屋を訪れたことがあると。
多分今ロバートが見ているこの部屋こそが、きっとそれなのだろう。
彼は胸を強く痛めていた。何故彼女はあの苦しみの後も、こんな部屋で孤独に耐えなければならない?このような情景を見ても、それでも自分には神に祈ることしか出来ないのか?
そもそも祈りとは何だ?
ふいにベルが顔を上げた。そしてそれと同時だった。ロバートは白い部屋の中に、ベル以外にもう一つの存在を確認した。
あの死の影を引きずる、邪悪な獣が居たのだ。
獣はベルとちょうど反対側の壁の傍に伏せていて、一見すると眠っているような姿勢だが、その両目はしっかりと開き、黙ってベルに鋭い視線を送っていたのだ。
そして・・・。
気が付くと、ロバートは一人、笹林の中に立っていた。微かながらも薄ら温かい風が、彼の足元を吹き抜けていく。
そう。ロバートは神酒達3人の少女が足を踏み入れた、あの『雛の森』の入り口に立っていたのである。