血の歴史
ロバート神父が教会まで取りに行った物。それはベルの祖父であるハリーが彼の下に持ち込んできた、例の数式が書き込まれたレポート用紙だった。
祖父に送られた時間と場所を越えることができると言われる数式。電話の奥から聞こえた、何かを求め、そして訴える声。
ロバートの頭の中で、ある推理が生まれていた。
電話の向こうからベルが何かを求めているのだとしたら、それはもしかしたらベルが助けを求めているのではないだろうか?
だとしたらファックスで送られてきたこの数式は、誰かをベルの下に導く方程式になっているのではないかと。
ロバートは黒苺の前に座り込むと、数式とにらめっこを始めた。もちろん彼には難解な方程式を解く頭脳は持ち合わせてはいない。ただ十歳程度のベルという少女にもできた可能性があるなら、自分にも可能性が0ではないはずだ。
強く願うなら出来ないことはないはず。彼はそう信じていた。
神酒達が失踪して、二時間以上が過ぎていた。
相変わらず数式とにらめっこを続けているロバートだったが、先程から神父の周りで特に環境が変化するような気配は全くない。無駄に時が過ぎていく状況に業を煮やしたロバートはレポート用紙を地面に置き、がっくりと肩を落とすように右手を土の上に打ちつけた。
「愚かな選択だったかな・・・。神よ。どうぞ彼女達を・・」
まさにその時だった。奇妙な声が響いたのだ。
『行為に愚かさなど無い。崇高なのはその目的である』
それは直接彼の頭に響いたのか、それとも彼の周辺に鳴り響いたのかは判らない。だがその声は確かにロバートの耳にはっきりと聞こえていた。
「何者だ?」
『名前は言えない。子孫の行く末を見守る者。仮にRとでも名乗ろうか・・・』
「そのRが私になんの用だ?」
『君に見てもらいたいものがある・・・』
その時だった。不意にロバートの周りの景色が、まるで急激に光を奪われるかのように暗くなり始めた。まず彼を取り囲む木や草の色が、黒い絵の具が真綿に染み込んでいくかのように黒くなり、それに続いて輪郭として残った白い線も、徐々に短くなっていき、やがて消えてしまったのである。
落ちる。瞬間的に彼は思った。
しかし普通なら恐怖と絶望に苛まれるはずなのだが、その時ロバートは、不思議な光景に抱かれていた。
彼がいる空間。それはもちろん闇ではあった。
しかしその闇の狭間に彼を導くかのように、いくつもの星が輝いていたのだ。
半ば捕らわれの身のようになってしまったロバートだったが、そこは居心地が悪くもなかったし、抵抗できるような状態でもなかったので、しばらくは身を任せようと決め込むことにした。
そして、そのような状態は長くは続かなかった。
やがて彼に上下の感覚が戻ってきた。ロバートが足を伸ばすと、見えてはいないが闇の中に足場があるのが判り、ロバートはその上に静かに立ち上がった。
★
そこは大きな建物の中だった。
建物自体は巨大ではあるが、中には敷居になる壁がほとんどなく、体育館のように広い空間になっている。代わりにたくさんのカーテンが、まるで病院の大部屋のようにあちらこちらに掛けてあり、ここの住人は、それを壁代わりにしているらしいと思われた。
一番外側の壁ははめ込み式で、その周りには柱の役目をする粗末な鉄パイプが見えている。一言で言えば、巨大なプレハブ小屋というところだろうか。
ロバートがカーテンの一つを開いてみると簡易的なパイプベッドがあり、その上に一人の男性が横たわっていた。
男性にすでに息は無い。白いシーツの上にべっとりと粘り気のある黒く半ば乾いた液体が付着しており、それが男性の口から大量に流れ出たものだということが容易に推測できた。
ベッドの下には白い紙コップが転がっていた。
「服毒自殺か?」
ロバートは、他のカーテンも開いてみたが、どこも状況は同じだった。
体をくの字に折り曲げた者。
苦悶の表情を浮かべる者。
ベッドから這い出そうとして力尽きた者。
どのベッドにも一様に死体が寝かせてあり、その凄惨な様子に、ロバートは表情を曇らせ、ただその魂が安らかに天国に向かえるように祈ることしかできないでいた。
ふと彼が顔を上げると、そこに一枚のカレンダーがあった。
「1997年?」
彼には思い当たることがあった。確か1997年と言えば、カリフォルニアの「ヘブンズ・パレス」と呼ばれるカルト教団が、四十名の信者を服毒による集団自殺事件へと陥れた年である。
「記録を読んだことはあるが、状況は似ているような気がする」
ここは過去の世界なのか?
ここに彼が連れてこられた異常な状況から考えれば、このような不自然な場所に居ることも納得できないわけではない。
石着山の森の中で、あの三人の少女が姿を消した時から、常識からかけ離れた世界は間違いなく彼の前にもその口を開いていた。その事をロバートはよく理解していたが、そんな彼にも一つ判らないいことがあった。それは何故ロバートがここに連れてこられたのか、ということである。
不意に彼の数メートル前のカーテンが一つ、風もない中でゆらりと揺れた。
それに気がついたロバートは、そのカーテンに仕切られた空間に近づいてみた。
「恐いわ。恐いけど、でも、あなたが一緒ですごくうれしいの。変だよね・・」
中から声がする。若い女性の声だ。
「恐いことはないよ。僕が一緒にいるんだから」
若い男性も居る様子だ。
ロバートはカーテンに小さな隙間を作り、そこから中の様子をこっそりと覗いてみると、そこには一組の男女がいた。並んでパイプベッドの上に腰を下ろし、男性は女性の肩をしっかりと抱き寄せ、お互い離れまいと身を寄せ合っている。おそらく恋人同士なのだろう。
女性は男性の肩にもたれかかって涙を流していた。
「もうすぐ一緒になれるのね」
小さく震えた声だったが、それでも女性の気持ちは男性にしっかりと伝わっている様子だった。
「ああ。もうすぐ天国で一緒になれるよ。きっとみんなが僕達を祝福してくれる」
二人はもう一度お互いを見つめ合い、長いキスを交わすと、お互いの足元に置いてあった白い紙コップを手に取った。
自殺する気だ!ロバートは瞬間的に察知した。
そしてそれを阻止するために、カーテンを開いて中に飛び込もうとした時である。それは起こったのだ。
最初は何か獣の咆哮のようなものが彼には聞こえたような気がしたが、その凄惨な場面はすぐに訪れていた。そこにいた男女のすぐ後ろのカーテンが、激しく引き裂かれたのである。そして切り裂かれたカーテンと共に、男女の上半身も無残に引き裂かれていたのだ。
残された下半身からは、まるで噴水のように、激しく血しぶきが飛び散っている。
そして血しぶきが赤くロバートの顔を染め上げる中、眼前に転がる哀れなカップルの亡骸の後ろに、彼は目を逸らすことのできない存在感を持つ、異形の獣の姿を目撃していた。
そう。それは、あの笹の葉が乱れ茂る異世界の入り口で、その凶悪な牙でロバートを威嚇したあの獣の姿だったのである。
すでに肉片と化した二つの遺体の上半身を苦も無くその顎にくわえた姿は、まさに悪魔としか言いようが無かった。
黒光りする一本一本が太い針のように見える毛皮。しかしそれは全身を覆っているわけではない。ある部分はまるで溶けてしまったかのように腐った肉片がむき出しになっており、またある部分は骨すら見えている。その異様な容姿は、ロバートに嫌悪感と恐怖感を存分に与えていたのである。
目の前に突然に現れた禍々しい獣に対し、もちろんロバートはそれを回避する術を多くは持ってはいないため、彼は急いでカーテンの陰に身を隠すと、獣に気付かれぬように息を潜めた。どうやら獣は彼には気付いていないようで、時折鼻を鳴らしながら、辺りをゆっくりと動き回る音が聞こえている。
「悪魔め・・。」
ロバートは小さく呟いた。
彼は頭の中で、この場から逃げるための方法をいろいろと画策した。この獣がロバートの姿を目撃したら、きっとロバートも、あの悲恋のカップル同様の目に遭ってしまうだろうと思ったからだ。
しかし幸運なことに、その心配はすぐに晴れることとなった。程なく再び彼の周りをあの闇が覆い始めたのである。
その後、あの謎の声の主Rは、ロバートを様々な時代、世界、事件の真只中に連れて行った。
ロアノーク島集団失踪事件。
ノーフォーク兵消失事件。
アイリーン・モー灯台事件。
マリー・セレスト号事件。
人民寺院集団自殺事件等々・・・。
この一連の不思議な旅で、ロバートは一つ確信したことがあった。
多くの人間の原因不明の失踪、あるいは人間の死が深く関係した事件や場所には、必ずあの忌むべき獣が関与しているということである。
ある時は身を潜めながら哀れな犠牲者の急所にその刃を突きたて、またある時は旋風のように駆け巡り、大量の人間を血の海に沈めていた。
ロバートはそれまで、あのような獣が存在していたということをもちろん知らなかったし、噂にすら聞いたこともない。しかもそれは地球の生物の進化の過程と照らし合わせてみても、矛盾する特徴を多く持ち合わせている。
おそらく地球以外の世界。
それが宇宙なのか別次元なのか、それとも地獄の底の万魔殿なのかは分からないが、とにかく想像を超えた世界からそれはやってきたものだと彼は思った。