2.同僚の夢、俺がかなえてどうする
うちは森の中の一軒家だった。近くにあるのは狩人たちの休憩所だけ。
人が住む村までは歩きで半日以上かかり、家族と飼っている動物たちだけの生活だった。
父親は細工物を、母親は機織りとか縫い物をしていた覚えがあるが、あまりよくおぼえてはいない。
裕福ではないが、普通に暮らしていたはずだ。
十歳になる頃、母の死を機に俺は寮のある学校に入った。
最初は人が多く戸惑いもあったが、子供だったせいかそれもすぐに慣れ、
長期休暇のたびに父に自分の暮らしを話しに行くのが楽しみになった。
それがなくなったのは、十二のときの冬。
うちに帰ったら、全てがなくなっていた。
父も、家も飼っていた動物たちも。
気付いたら、寮の自室で眠っていた。
通りかかった猟師が倒れていた俺を運んでくれたのだそうだ。
未だにうちに、父たちに何が起きたかわからないままだ。
それからはずっと、学校の寮暮らし。
担当の先生がとても面倒見のよい人で、奨学金やら、孤児の手続きやら全てをやってくれ、そこそこの苦労で進学し、大学まで進み、そこの講師にもなることができた。
追い出されるかと思っていた寮にも、寮の管理という名の何でも屋をやることによって居住が許された。窓や備品の管理、床板の補修に水道工事まで業者を呼ばずに済むのだから学校にとってもよかったのだろういまだに出て行けとは一言も言われたことがない。
先生業も五年。ようやく落ち着いて、主任に怒られることも少なくなってきたところだった。
親代わりの先生も亡くなられて、彼女にも去られ、まじめに仕事するか、研究でも始めようかと立ち直った途端、気付いたら風呂場だ。
神様というのがいるのなら、ずいぶん俺には意地悪なのではなかろうか。
召喚魔法の気配もなく、魔法陣のあともない。
魔法ではない方法で、聞いたことのない国に来てしまったのなら、少しやっかいだ。
転移魔法と、時間移動か世界が違ったのなら次元移動になるのか、どちらにしてもそれらの合成ということになるのか、あるいはまた違った形の移動の魔法を考えなくてはならないのか。
大体俺が今いるところは、大学や寮からどんな風にどれくらい離れているかもわかっていない。
試しに転移魔法で寮の部屋を指定してみるが発動しない。
何かがたりないのだろう。
「あいつなら、大喜びしてるんだろうが…」
異世界に行くことが自分の夢だと公言してはばからない同僚の顔が思い浮かぶ。
同僚はいつどんなときに成功するかもわからないからと何度も帰着点を作っておけといっていたのを今更ながら思い出す。
どこへ行っても帰ってくるときの目印になるからと散々言われたのだが、俺は一度もそれをやったことがなかった。
同じ地面の上なら、そんなものを作らなくても普通に移動できるからだ。
そもそも、理論は面白かったが、実際に異世界なんていけるわけがないと思っていた。
今日の論文発表も時間移動の類だったのだが、まだまだ超えなければならない問題があり、実際には発動しないだろうという結論になったんだがなぁ。
学生たちとの雑談を、よその教授がきいていて面白そうだから研究して発表しろというのが今回の論文の発端だった。
学生たちとわいわい言いながら、集まって騒ぐのが論文の中身より楽しかったからやっていたようなものだったからなぁ。
俺の受け持ちの学生達の学期末の評価は教授達が何とかしてくれるだろうし、俺を待っていてくれるのは発表途中の論文くらいだからそれほど慌てることもないか。
魔法が使えて、体も頭も無事なようだし、ゆっくり考えるとしよう。
風呂から上がる。
脱衣所には女王様が着ていたのと同じバスローブと大きなタオルがいくつか置いてあった。
俺の持ち物は見当たらない。
彼女には大きかったバスローブもそで以外はたりた。
風呂場ではない方の扉を開けると、ひんやりとした部屋。
扉はふたつ。片方はトイレ。もうひとつは薄暗い部屋につながっている。
正面と左手に扉、右手には鏡台やらタンスのようなものが並んでいる。
誰も居ない部屋は、しんとして怖いくらいだ。
目の前の扉を開けると、部屋の中は明るかった。
そこに白い夜着の女王様が座っていた。
金の髪は三つ編みにされ後ろに垂らし、長いそでからでる細い手は上品に膝の上にのっている。
長椅子の端に酒でも飲んでいたのかと言うほど顔の赤い女王様。
テーブルの上には、酒瓶と水差し、水の半分入ったコップと空のコップが置かれている。
ひとつは俺のものだろうか?
「着替えがないのでこのままですいません。失礼します」
彼女の隣に座ると、好きな方を選べと言われたので水をもらった。
この状況自体がすでに酔っているようなものだ。今更酒で酔わなくてもいい。
部屋の中には大きな寝台と、その横にサイドテーブル、今座っているテーブルセット、それと見慣れない酒瓶のしまわれている小さな棚だけ。
窓もないし、石の壁と天井ではこれ以上情報はない。
ここにいる女王様に聞くしかないようだ。
「今は何年ですか?」
「ダーナ歴八百二十四年空の月三日だ」
暦まで違うとは、いよいよ本格的だ。空の月って何月だろう。
文明もこちらの方が少し遅れているのか、それとも女王様の趣味で古風なものばかり集めているからなのか判断がつかない。
風呂場で色々考えてきたのだが、睡眠不足のためか、混乱のためか、うまくまとまっていない気がする。
バスローブ一枚で女性と二人きりというのは色々まずい気もしなくもないが、目の前の女王様は気にしていないようだ。俺のことをじっと見ている。
「そなたはどこから来た? 服の生地といい作りといいこの近くのものではない。
神の国か?」
「いいえ、俺はスフナーダの王都シェートの魔術大学の転移魔法科の講義室にいました。
歴史は詳しい方ではないですが、今までリュクレイという地名はきいたことがありません。
暦も違います。
着ていた服もそれほど珍しいものでもなく、ごくありふれた素材でした。
言葉は通じているようですが、文字はまるで見たことがない。
転移魔法の誤作動にしても少しおかしいですから、俺にとってここは異世界。
つまりは俺はこことは違う世界からこの国に来たのだと思います。
俺の常識では帰るのは困難なところにいるのだと判断しています」
会話に多少の違和感はあるものの、話していて意味が通じないということは今のところないようだったが、文字は読めないどころかまるで見たことのない形だ。
酒瓶に書いてある銘柄もデザイン文字だったとしても見たことはない。
今まで見たところ、多少俺のところと違うものもあるが、おいてあるものは少し古い時代の調度品とあまり変わらず、違和感なく使えそうなものばかりだ。
人も女王様が格別美人と言うことを除けば、きっと俺たちの世界と変わらない。
同僚の大好きなちょっとだけ違う異世界、と言える。
「我が国にも、他国にも魔術大学なるものはない。
現在では魔力のあるもの自体が少なく、我が国では貴族のほんの一部。
本来なら国王である私が一番強い魔力を持っておらねばならぬが、私にはほとんどない。
王族と呼べるものは私一人。
出来損ないの王族とて王族が居なくなればまた国は荒れる」
「また?」
「五年前父が倒れ、国は混乱した。弟がいたがまだ幼く、王として立つには早かった。
それで私が弟の成人まで王となった。
そして一年後に王は身罷られ、国が荒れ、やっと落ち着いた去年弟も…」
「二人とも病死…ですか?」
返ってきたのは沈黙。
誰かに暗殺された可能性もあるのか。
「それで、俺を夫にすると? 魔力が強いから?」
「王の夫となれば、地位も金も思いのまま。何でも望みが叶う。不服か?」
国の大きさは今のところわからないけれど、確かに女王様の夫なら金には困らないだろう。
目の前の美女が妻っていうのもいい話といえるが。
いつ、もとの世界に戻れるかわからないこの状態でこの話を断るのはあまり得策ではないとは思うのだが。どうにも引っかかる。
「もしかして、俺がいなかったら、女王様は他の人と結婚するはずだった?」
「あさって、大臣との婚約が発表されるはずだ」
落ち着いた言葉が返ってくる。
女王様の顔は表情がなくなり、頬も白くなっている。
この様子だと、その大臣が好きでと言うわけではないらしい。
「大臣? その人、年は?」
「五十八だ。たしか」
「…女王様はおいくつですか?」
「あさって二十歳になる」
「…何ですかその犯罪のような組み合わせ。他にいなかったんですか?」
好きで結婚するならいくら離れていようがかまわないだろうが、いくら何でも離れすぎだ。
ざっと探ってみたが、彼女のいう通りそれほど強い魔力は感じられない。
この建物が城ならば、騎士や貴族の住まいもご近所のはずだ。そっちも探ってみよう。
「私は出来損ないの王族だから。魔力の強いものの中では大臣しか…」
「そんなわけないでしょう。
こんな美人の夫なら、魔力があればいいのなら誰だって立候補する。
このご近所で少なくとも三人はそれなりの魔力持ってますよ。
年は正確にはわかりませんが、年寄りっぽいのが別に二人、女性も二人、除外してますからね」
「そなた、そこまでわかるのか?」
「さっきから、出来損ないとか魔力がないとかリュディリア女王陛下はおっしゃいますが、ありますよ、魔力。このご近所で一番」
「私に魔力がある…と? そんなはずはない。私は魔法も使えず、魔法具もほとんど動かず、ただ人の顔を見れば、魔力の大きさと質がわかるだけだ。私は…」
「質までわかるんですか。探知系特化か。他の人が気付かないって事は、ここの人は、魔力をはかるのに火を出したりしてはかってる?」
「魔力灯に明かりを点すか、人形を破壊する力ではかる」
「それだと、治癒やら探知系は発見できませんね。自己申告ないと」
自分に魔力があるかどうかさえわからないって、どんな感覚の持ち主なんだろうこの国の人たち。
「貴女は、美人でスタイルもよく、女性としてはとても魅力的な上に、この国で重要視されている魔力も強い。
よっぽど女王様がその大臣を好きなら婚約でも結婚でもすればいいと思いますが、そうでないのなら、他をあたった方がいい」
「他のなかにそなたは入らないのか?」
「リュディリア女王陛下は、‘候補’の中に俺がいて欲しい?」
静かに頷く女王様を見ながら少しだけ考える…ふりをしてみる。
「俺は遠慮しますよ。婚約者‘候補’に入るのは」
「なぜだ。そなたの望みは叶えるぞ。何が欲しいのだ?」
焦るように言いつのる女王様。求めるのは魔力の高い男。
俺ではない。気に入らない。
「世界がほしいと言えば下さるのか? 女王陛下」
「我が国は大陸一の大国だが、それは無理だ。他ではだめか?」
「そうですねぇ。では、町ひとつ分の国民の命」
女王陛下は沈黙した。
悩んでいるわけではない。
酷く落胆したようなあきらめたような、悲しそうな顔。
無理なことを言っているのに、怒ることのない女王様。
この人は何に対して怒るのだろうか。気になる。
「望み、か。地位や金は貴女の夫になれば手に入る。
力はまぁ、魔力も国一番らしいですし、この話、断る方が馬鹿だとは思いますが。
貴女が望むのは魔力が強ければどんな男でもいいんでしょう?
動機が不純です。気に入らない」
目をまん丸くして、驚いた顔の彼女。
髪型のせいもあるのか、女王様然とした取り澄ました顔よりもこちらの方が好みだ。
こっちなら、欲しい。
「動機が不純とは、何だ?」
「結婚するなら、俺を好きな人でないと。でしょう?」
「好きとか嫌いとかそんな問題ではない。
王族の婚姻とは力をつけ血を絶やさないことだ。
そんなことをいっている暇はない」
「暇ならあるでしょう?
あさって大臣と婚約といってましたよね?
その前に取りあえず俺と婚約すればいい。
王族は婚約してすぐ結婚なんてこともないでしょう?
婚約なら多少外聞は悪いでしょうが、破棄できる。
貴女が俺を好きになってくれたら結婚すればいいし、
そうでなかったら、俺が雲隠れすればいい。
魔力探査系はいないみたいだから、貴女から離れれば俺を探せる人はいない」
「つまりは、私と婚約してくれると?」
「婚約者‘候補’はいやですよ?
それと、いくつか条件がありますが、それをのんでくれますか?」
「のむ」
即答だった。
よっぽど大臣がいやなのか、王族としての使命からなのか。
どちらにしてもあまり面白くない返事の仕方だった。
「ではまず第一に。リリって呼んでいいですか?」
「は?」
何を言われるのだろうかと、膝の上できゅっと握りしめていた拳が、緩む。
薄い茶の瞳が何度もまぶたで隠れた。
「次に、俺と話すときは素で話して下さい。
女王様らしい貴女よりも、裸を見られて真っ赤になって泣いていた貴女の方が俺は好みです」
「なっ」
「今も耳まで赤いですが。貴女は本当はとてもかわいらしい女の子ですよね」
顔を真っ赤にしてしゃべれなくなったリリはかわいらしくて、抱きしめてしまいたかった。
夜着も首元や手首までしっかり隠れるかわいらしい女の子が着るようなもの。
体は妖艶と言っていいくらい色っぽいのに、中身は十四・五の女の子のようだ。
「心まで読めるの?」
小さな声は、今までの中で一番かわいらしいつぶやき。
見上げてくる瞳は純粋で、真っ直ぐだ。
「心が読める魔法は知りません。あったら便利かもしれませんが。
そんな風に素直な言葉で話しかけてくれたら、俺は大変嬉しいです」
「貴方が言うことは何か、おかしい」
「大事なことを言い忘れてましたね。
貴方ではなく、グレッグと呼んで下さい。
あとは貴女がいやがることはしない予定ですので、貴女に触れる許可を下さい。
以上を許していただけるなら、俺の全力をもって貴女を守りますよ? 婚約者として」
リリは俺の言う条件に不満があるのか、しばらく考えていた。
だが、条件を聞く前に彼女はそれをのむと言っているのだ。
こんなでよく今まで無事だったものだ。
「グレッグ、条件はそれだけか?」
「他に何か必要ですか?
あ、浮気はなるべくさせないよう努力しますが、
今現在恋人とか、好きな人とかいます?」
名前を呼ばれて嬉しいと思うなど、久しぶりだ。
好きな人がいますかと聞かれて、冷静な顔のまま首を横に振るリリを見ながら、さらに笑みが深くなる。
「では以上ですね。条件はのんでいただけたということで。
早速ですが、リリ、明日のご予定は?」
「明日は自由だ。朝議も休んでいいことになっている。
今夜から明後日の朝までしなければならないことはない。
人にも会わなくていい」
「それは好都合。今、夜ですか。何時頃ですか?」
時間の区切りはリリの国の方が曖昧なようで、深夜だとしかいわれなかった。
日が昇ると、だいたい2時間ごとに教会の鐘が鳴り、お昼と日没には大きな鐘が鳴るらしい。
「では、ここはどこですか? お城の中のリリの部屋?」
「城の離宮の中。もとは父の部屋だった。
今はこの部屋も人払いしている。
普段なら侍女らがいるが今夜は執務室に入らなければ誰にも会わなくていいようにした。
執務室は、入ってきた扉の向こうだ。
ちなみにこちらの扉は開かない。王妃の寝室だが鍵を母の棺に入れてしまったから」
部屋のもうひとつの扉を少しさびしそうな顔で見つめて言うリリ。
父親の話の時に母親の話はなかったから、王妃様はそれよりも前に亡くなったのだろう。
両親も兄弟も亡くした美しい女王様か。
「じゃあ、細かい打ち合わせは明日でもいいですね?
時間も遅いようですから、休みましょうか」
リリの手を取って、部屋の奥にある普通の3倍くらいの大きなベッドへ向かう。
リリは驚いているようだが、別段抵抗する様子もなく、少しつまらない。
俺にとってはまだ夕方ぐらいの感覚だが、リリは普段ならもう寝ている時刻なのだろう。
けだるげな様子で素直に横になる。
「明かりは消さなくていいの?」
こくんと頷くとそのまま寝入ってしまいそうだ。
自分の横に俺がいるというのに。
「リリ、おやすみ」
おやすみなさいと返すリリを抱き寄せて、額に口付けてみる。
リリの目は見開かれ、体が強張り、頬が赤くなっていく。
抵抗らしい抵抗もないため、少しだけ笑って見せてそのまま目を閉じる。
花のようないい匂いがして、やわらかくて抱き心地は最高。
論文発表のための徹夜続きだったことを差し引いても、いい夢が見られそうだった。