1.ここはどこ?
気付くと湯気の立ちこめる部屋にいた。
確か、今まで俺は魔術大学の論文発表で話をしていたのではなかっただろうか?
教授たちを前にして、学生と合同の研究を実際の魔法陣を指し示しながら発表し、
何度も繰り返した実験データを読み上げようと、資料を持った学生に近づこうと
して一歩踏み出した。それは覚えているんだが、どう見てもここは講義室ではない。
ぼんやりとした視界と、意識の中そんなことを思う。
この頃徹夜続きだったから、夢でも見ているのだろうか。
自分の手を見てみるが特に変わった様子もない。
その手をつねってみれば、痛い。
白色人種系の焼いてもあまり黒くならない肌に、大学で支給された服と靴も
そのまま。
手には何も持っていないが、胸元のポケットにはいつもさしてあるペンが
そのまま刺さってる。
身につけている装飾品もそのまま。体も異常がなさそうだ。
そして夢でもなさそうだ。
探査系の魔法で自分に害意を持つものを探してみるが、それもない。
転移魔法をかけられた気配もないし、研究していた時代移動の魔法でもない。
自分が魔法を使われたのがわからないほど間抜けではないはずだと知っている。
いくら寝ぼけていても、熟睡していなければわからないはずはないのだが。
ここは、どこだろう?
ふわりと花のようないい匂いがするが、もちろん屋外でもなく、どこか建物の
風呂場かサウナ室のような……。
パシャンと水音がして、そちらを振り返ると、石でできた大きな湯船の中に、
金髪美女が居た。丸い大きな瞳をさらに大きくして、驚いている姿は
少しかわいらしい。
きらきらとした柔らかそうな髪は、長く、湯の中で揺らめいている。
雪のように白い肌は少し色づいて、柔らかそうな頬は手を伸ばして触れてみたい。
すっと通った鼻筋に、小さいがぽってりとして赤い唇。
小さな顔は整っているのにどこか柔らかく、美しいだけではなかった。
薄い茶の瞳が何度か瞬きで隠れると、次の瞬間、その金髪美女が湯船から
立ち上がり、そのまま俺の方へ歩いてきた。
女の裸を見慣れているわけではないが、それでもこれは凄いんじゃないか?
と思うほど見事な体型。
形よく豊かな胸とくびれた腰、柔らかそうな太ももと、きゅっと引き締まった足首。
形のいい足が俺の前で止まり、両肩に熱を感じた。
細くて折れてしまいそうな指が俺の肩を掴んでいる。
目の前には美女の顔と胸。にらむような強い光が瞳の中に見える。
「綺麗だ」
ため息のようにこぼれた言葉に我に返る。
……これは、相当まずいんじゃないだろうか。
のぞきどころの騒ぎじゃない。
女が入っている風呂の中にいるのだから。
それに気付いてざっと血の気がひくのがわかった。
「そなた、魔法が使えるのだな?」
「使えますが、わざとじゃないんです、転移魔法とかで忍び込んだわけではなくてですね、気付いたらここに居て…」
「…神よ、感謝します」
「別にのぞきとかではなくて…」
「そなたの名は? 妻や子はおるのか?」
今ではほとんど使われない古風な言葉遣い。
肩に乗る細い手は犯罪者を捕らえてやろうというものではないような気がしてきた。
なぜか目の前の美女が助けを求めて俺にすがっているような気がしてきた。
矢継ぎ早の質問にこちらが冷静になる。
「グレッグ・ドルラルです。妻も子もいません」
素直に言うと、ぱっと目の前の美女の顔が輝いた。本当に嬉しそうな笑み。
心臓がきゅっと掴まれるような感覚。
美人の裸よりもかわいらしい笑顔にやられるとは…。
「私は、リュディリア・バルゲスト・リュクレイ。リュクレイ王国女王だ。
そなた、私の夫となれ」
目の前の美女は、金色の長いまつげを揺らすことなく、俺を見上げている。
男の中でも飛び抜けて大きいと言うほどでもない俺の肩くらいまでの女性。
小柄とはいえないが、その彼女が、何か変なことを言ったような気がする。
「ここは、リュクレイという国で、貴女はここの女王陛下? で?」
「そなたは我が夫になるため神が使わして下さった男だ。魔力は国一番だろう。
茶の瞳は魔力が薄いと言われるが、これほどであれば誰も文句は言うまい。
これで少しは落ち着ける」
ほっとしたように一息つくと女王様はすたすたと扉に向かって歩いて行く。
金の長い髪は腰まであり、絵画の中から抜け出てきたような後ろ姿だ。
扉の閉まった音に慌ててあとを追いかける。今の美女、夢じゃなかったよな?
急いで扉を開けて、中を覗くと、そこは脱衣所。その中に女王様は居なかった。
居たのは、すみにしゃがんでバスタオルを握りしめて、
真っ赤な顔で泣いている女の子。
扉の方を見上げた拍子にぽろりと新たな涙がこぼれ、それを慌ててタオルで
ごしごし拭いている。
そばにあったバスローブのようなものを彼女の肩にかけ背を向ける。
「目の毒だからまずそれを着てくれる? それで、少しゆっくり話がしたい」
返事はなかったが、少し衣擦れのような後ろを振り向きたくなる魅惑的な音がしたあと、背中をつつかれた。
先ほどまで丸くなって泣いていた女の子は、少し大きめなバスローブに包まれて、
色気たっぷりの美女に戻っていた。
開いた胸元が先ほどよりも色っぽく感じられて、どきどきして、慌てて目をそらす。
「見苦しいところを見せた。そなたも湯を浴びて着替えるがよい。
その格好を誰かに見られるとちと困る。着ていたものは私が保管する。
よいな?」
「この指輪とかは持っていてもいいですか? それでよければあとはお任せします」
指にはまっているのは、魔力増強、防御系、転移魔法の補助の指輪だ。
それらを見せると、女王様はこくりと頷く。
指から抜き、それらを首からさげていた鎖に通して彼女に渡した。
なくても困ることはないが、一種お守りのようなもので手放したことはなかった。
この指輪を人に預けるなんて、初めてだ。
ふと見ると、彼女の髪はまだ濡れていた。髪に触れ、呪文を唱えて乾かすと、
金色の柔らかな髪が温かみを増す。
驚いている彼女にほほえみかけると、瞬きされた。
いつもよりは丁寧に上着を脱ぎ、畳んでいると、女王様は何が面白いのかそれをじっと見ている。
シャツを脱ぎ、ベルトに手をかけるところにきてまだ動かない。
「全部脱ぐまで見てます?」
そう言うと、顔を真っ赤にして脱衣所から出て行った。
何だろう、あのかわいい人は。
もっとからかいたくなる。
風呂場は寮の風呂のように広く、それと比べものにならないほど、ぴかぴかで綺麗だった。
床も天井も全てが石。湯船も石だ。天井や壁は磨き込まれたようにつるつるとしていて、
床は滑り止めのためか凹凸としている。色は明るい白。
明かりはぼんやりとした魔法の光だろう。
この明るさで輝くように見えていた彼女は実は幻ではなかったのかとさえ思う。
湯船に近づくと先ほどの光景が思い出され、慌てて湯をかぶる。
匂いの違ういくつかの石けんや、化粧品のような女性らしいものが並んでいた。
見慣れないものに、逆に見慣れた風景が思い浮かぶ。
いつも誰かが居る伝統だけはある学生寮。
十年以上居る我が家が。