桃源郷にて私を救え
カタンコトンと、いつも乗っている電車ではまず聴けない電車の音色に抱かれながら、田舎の田圃道を通る。それが上り方面ならば、都会への夢や希望で期待に胸を膨らました少年たちが、ついにその日を迎えたの図だが。いかんせん逆方向、夢叶わず、現実の不条理に負けた少年たちの傷心帰宅の図である。
切符代などは、全額拓人持ちなのだが、乗り換えに次ぐ乗り換えの所為で、その総額は優に二万を越えており、持ってきた財布の中身では片道も来ることができない額になってしまった。
ボックス席に対極に座り、暇つぶしの為に、高校生らしい不毛な雑談にふけようとしたが、この拓人という男、かなりの饒舌である。
出発した時刻が六時。そして現在、携帯を覗く限り、十時半。つまり四時間半もずっと喋りっぱなしだ。
ジャンルはファッションから始まり、ドラマ、小説、映画、芸能界、宗教、魔術、中世の統治体制、二次元、軍事、クラシック音楽、経済学、心理学、政界について、と様々。先ほどまでは何故日本はバブル経済が訪れたのか、という平成生まれの我々には全く関係ないことをつらつらと述べていた。
「ですから、もう一度日本に好景気を訪れさせるには国家一つ分の需要が必要なわけで」
「もうその話はいい。ところで、もう四時間半も揺られてどこに連れていく気だ?」
「それは内緒ですよ」
拓人とのちゃんとしたコミュニケーションが取れているのはこの一往復だけ。俺の知識量がないのか、それとも拓人の話題がコア過ぎるのか。
いや、そもそもつっこみどころはそこではない。一体我々は四時間半もかけてどこへ行こうとしているのか? 旅行とは聞いていたが、ここまで長旅になるとは聞いていないぞ。
そしてつっこみどころその二。俺が持ってきているのは、エスパー伊藤くらいなら二人ほど入りそうなボストンバックなのに対し、この男の手にしている物はなんだ? ハンドバッグだ! あの中に俺と同じ荷物が入っているのか? どっかの青狸じゃあるまいし。
もし入っているのであれば、なんという出鱈目だ。自然法則や物理法則を完全に無視している。前々から魔術師か天狗の類かと思っていたが、多分そうである。
「次はー、月見ヶ丘、月見ヶ丘。お忘れ物がございませんよう、お降りください」
「おっ、着きましたな」
アナウンスが聞くやいなや、自分の荷物を持ってさっさと乗降口に向かう拓人の背中に、焦りを感じながら、俺は重い荷物と腰を上げ、追いかける。
程なくして、電車は完全に停車し、扉が不調そうに音を立てて開いた。
そこは大正から引き抜いてきた様な作りの無人駅だった。
トタン屋根錆び付き、所々太陽光が差し込み、地面はコンクリートが所々砕け穴だらけになり、かつて駅名が書いてあったであろう木の板は腐敗し、「丘」の部分だけが寂しく残っているという有様。
「おいおい、こんな辺鄙な場所であってんのか?」
あまりの田舎ぶりに、不安感を抱いた俺は、拓人に問うと「大丈夫ですよ、この場所で間違いありません」と答える。
「ささ、早く向かいましょうぞ。ここまでくれば目的地は直ぐです」
拓人は軽快な足取りで、出入り口の方へ向かう。俺にはこの荷物を持ちながらそんな動きをすることはできんぞ。
改札口の上には粗悪に作られた木製の箱が置いてあり、その中には七枚ほど切符が入れられていたので、その中に自分の切符を入れ、外に出た。
外は夏の太陽が照りつける、絵に描いたような田舎であった。右の方にはキュウリやトマトを実らせた畑が広がり、左の方には錆びたブリキ看板を抱えたよくわからぬ店やら所々剥がれた瓦が特徴的な民家などが続いていた。
それを貫くは、アスファルトもなにもない、全く補整されていない道。遠方には山々がそびえ立ち、それよりも巨大な入道雲が飲み込まんとばかりに勢力を増していく。
「さあさあ、参りましょうぞ」
「わかったから、ちょっと待て」
陽炎揺らめく情け容赦ない日の元の道の中心で、俺は一度荷物を持ち直し、軽やかに跳ねる拓人の後を追った。
お地蔵様や、粗末な作りの休憩所などを後目に見ながら、小高く盛り上がった丘をひた歩く。幸い、丘の頂上にある巨木が丁度木陰になる位置に陣取っているので、先ほど程の暑さはないが、それでも十分暑い。インナーが汗でびしょ濡れだ。
「さっ、見えてきましたよ」
先行く拓人が指さす先に見えたのは、巨大な二階建ての木造建築だった。
周りは垣根に覆われ、丘の上にデンと佇むその趣は、昔見たジブリ映画のワンシーンであった気がする。
「えらくでかいな」
「ま、大は小を兼ねると言いますし。もう一頑張りですよ」
先に丘を登りきった拓人に続き、登りきると、そこには一人の人影が見えた。それは少女の姿だった。
少女がこちらに気が付くと、少し速い足運びでこちらによって来て、こう告げた。
「あ、あの。貴方が私たちと同居する千晶さんですか?」
はてさて、彼女は一体何を言っているのかな?
*
彼女の話を整理すると、名前は葉山水穂。現在、俺と同い年の女子高生。ふんわりとした髪の上には大きなリボンが乗り、腕にはウサギのアップリケが付いているリストバンドをつけたとても可愛らしい女の子だ。
そして彼女曰く、俺はここに同居するメンバーになり、夏休みの間、共同生活を送らねば行けないらしい。
とりあえず、今俺がすべき最善の行動は、阿呆の襟元を掴み、バイオレンスありの話し合いをいたいけな少女の眼の及ばぬところですることだ。
「おやおや、何ですか? あんな美人見て、怖じ気付きました」
「ちげーよ! お前の昨日の話と今置かれている現状が全く一致してないから説明を求めてんだよ!」
「即興力ないですね、あなた。世の中は臨機応変に生きるか、常に何があってもいいように備えておくものですよ」
「友人と旅行に行くつもりが、女と同居することになるなんて誰が予想できるか!」
こちらがこれほど怒号をあげているのに、この男はへらへらしてかなり腹が立つ。更に夏の暑さも合わさって、もう血が熱湯の如き煮えくり返りそうである。
「そんなことより、早く家の中に入りましょう。暑くて倒れてしまいそうですし」
そして彼は、当たり前かのように、家の中へと入って行った。まだ話は終わっていないぞ!
だがそんなことは何処吹く風か、拓人は俺の前から姿を消してしまった。
怒りのあとに来る倦怠感と状況を把握できぬ混乱の為にしばしの放心状態になる。
しばしの錯乱状態の後、誰かに肩を叩かれた。それは先ほど話した葉山だった。
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうに上目遣いで尋ねられる。正直言うと、大丈夫じゃありません。もう夢と信じるしかありません。
だがそこは男。たとえ駄目でも、平気と言うものだ。
「ああ、問題ねぇよ」
「よかった。あの人ちょっと強引なとこあるから、混乱しているんじゃないかと思って」
そして彼女は少し困った顔で笑う。
「あいつとは幼なじみだから、もう慣れてる」
「へぇー、そうだったんですか。昔っからあんな感じだったんですか?」
「そうだな。あんな感じだった」
初対面とは思えないくらいリラックスしたのは、奴との会話の反動か? 自然と言葉が出る。
「とりあえず、中に案内しましょうか?」
「あ、ああ、じゃあ頼むわ」
「そうですか。はい」
そう言うと、彼女は俺に両手を差し伸べる。
「えっと」
「荷物、お持ちしましょうか?」
「あ、ああ、いいよ。これくらい自分で持つから」
俺が紳士らしく遠慮すると「そうですか」と残念そうに呟いた後、家の中へと招き入れた。
*
家の中も古風な木造建築であった。長く真っ直ぐに延びた廊下は、ひんやりと冷たい。
「こっちですよ」
葉山に連れられ、靴を脱いで奥へと入っていく。
「やあやあ、貴君。どうかね、この部屋は」
荷物を置いて、上機嫌そうに拓人が隣の部屋から尋ねてきた。
「ああ、手抜きだな」
「シンプルと言ってくださいよ。さて、葉山さん」
拓人が葉山の方を向き、優しく語り出す。
「他の人の紹介をお願いできますか?」
「はい」
なんだか聞いてはいけない台詞を聞いてしまった気がする。
「ほ、他にも人が居るのか?」
「ええ、居ますとも。しかもみんな女性ですよ。やりましたね、ハーレムなんて、一生のうちにあるかないかのもんですよ」
「んなもん誰が望むか!」
「おや、青少年としては意外な反応。ま、私もごめんですが」
「あ、あの、そろそろ紹介の方を……」
完全に置いてきぼりを食らっていた少女葉山が、申し訳なさそうに我々二人の間に割ってきた。
「おっと、そうでしたね。私は用事があるので、一人でお願いしますね」
「わかりました」
「では、アディオス」
そう告げ、あの変わり者の友人は細い廊下の先へと消えていった。
「えっと、ではこちらにどうぞ」
葉山に告げられ、俺は部屋を後にして、一階へと降りて行く。
「ここが食堂です」
連れられてきたのは、大広間。真ん中にはこれまた日本家屋に似合う足が低い長机が置かれている。
隣には台所もあるらしく、入り口には暖簾が掛かっている。
そちらに目をやっていると、暖簾がめくれあがり、また違う少女と目があった。と思ったら、引っ込んで暖簾の奥へとまた消えていった。
「あっ、ちょっと待っててくださいね」
葉山もそう告げると、暖簾の奥へと消えていった。
そしてなにやら会話が聞こえてきた。
「もう、いきなり引っ込んだら失礼でしょ」
「や、やっぱり怖いですよ」
「大丈夫だよ。ほら、一緒について行ってあげるから」
「い、いなくなったりしません?」
「しないしない。ほら、行くよ」
話が付いたのか、暖簾の奥から葉山と涙目のさっきの少女が出てきた。容姿としては悪くはなく、どこか愛玩動物を思わせるその顔立ちは、好感が持てる。
「すいません。ほら、自己紹介して」
葉山が少女の背中をポンと叩くと、少し後込みしながら彼女は話す。
「わ、私の名前は雪野秋奈です。と、特技は家事全般です。一ヶ月間、よろしくお願いします!」
どうやら、彼女は葉山のように対話力がないようだ。まあ、それが普通なんだが。にしても、もう少しリラックスして話せぬものか。
「よろしく、俺は」
そこまで言うが、雪野は不抜けた声を上げて走って暖簾の奥へと消え去っていった。
「な、何だったんだ?」
「やっぱり、あそこまでが限界か」
葉山が頭を掻きながら言う。
「どういうことだ?」
「秋奈ちゃん、男の人苦手らしいんですよ」
なるほど、だからあんなにも挙動不審だったのか。腑に落ちたところで、なんだか悲しくなるのは何故だろう?
「そう言えば、あの子、家事が得意とか言っていたが?」
「ええ、ここで家事全般ができるの、私と秋奈ちゃんだけなんですよ。それがどうかしたんですか?」
「いや、俺も家事は得意だから、もしかしたら、ここで家政夫でもやらされるんじゃないかと思って」
「ああ、そうだったんですか。問題ないですよ。家事は三人で分配すれば。あ、でも料理はお願いします」
葉山が頬を赤らめながら言う。「私、料理はできないんですよ」
「そうか、わかった」
しっかり者少女の意外な一面。いや、知り合ってまだ一時間も経ってないから、よくわからんけども。
「じゃ、次移動しましょうか」
葉山と大広間を去ろうとした時、まだ手にも掛けていない扉が突然がらりと開いた。
扉の前に立っていたのは、髪を上部の方で二カ所結ったまた違う少女であった。
「なによ?」
彼女の鋭い三白眼が俺を睨む。
「丁度いいところにいた」
葉山が彼女の後ろに着くと、その少女はより一層眉間に皺を寄せる。
「この人が、前に話していた人だよ。ほら、自己紹介して」
葉山にそう言われるが、この少女は口を利く気がなく、そっぽを向いて何も喋ろうとしない。
「ごめんなさい、この子、竜ヶ崎凛香って名前なんですけど、いつもこんな感じで」
竜ヶ崎に変わり、葉山がその無礼に謝った。だがしかし、こいつの態度が癇に障るので、おそらくこいつが一番コンプレックス抱えていることを指摘してやった。
「お前、ちんまいなー」
「なっ!」
俺と同世代にしては、彼女の身長は頭一つ二つ分くらい小さい。
「こ、これから大きくなるからいいもん!」
涙目ながら彼女は訴えるが、説得力がないと言うか、何と言うか。
「ちなみに、お前何歳だ?」
「十四!」
おっと、俺としたことが、年齢を読み間違えたか。まあ、今まで宗方、葉山、雪野と同世代が続いたから、仕方がない、と正当化して問題をエスケープ。
「まあ、あれだ。許せ」
「絶対に許さない! いつかあんたなんて追い抜いて、もうチビとちっちゃいとか、言えなくしてやる」
それもそれで不気味な気もするが、怒らせてしまった以上、俺はその責任を取らねばならないので、まあ影ながら応援はさせてもらおう。
「じゃあ、私、この人を案内しなきゃいけないから、行くね」
「お前らなんかどっか行っちゃえ!」
竜ヶ崎と言うじゃじゃ馬を残し、俺は他を案内してもらうことにした。
*
「ここから庭に出られますよ」
そう連れてこられたのは、縁側。庭にはヒマワリと、もはや言うまでもない、女性が立っていましたよ。そして特筆する点があるならば、木刀を振るってますよ。
「おーい、真中さーん!」
葉山が呼びかけると、真中と呼ばれた女性は、木刀を振るうのを止め、こちらを見た。
凜とした顔立ちの髪が長い女性だった。
「ああ、葉山か。そちらに居るのは?」
「前に話していた人ですよ。自己紹介してください」
「そうだな、私の名前は真中岬だ。以後よろしく頼む」
「は、はぁ、こちらこそ」
まるで乱世の時の一国の姫君を思わせるその面影に、胃が熱くなる。
俺が緊張で硬直していると、真中は俺の方に寄り、何も言わず、体をべたべたと触り始めた。何とも言い難い感覚である。お触り厳禁ですよ、お姉さん。
「あ、あの何ですか?」
「喋るな、じっとしていろ」
しばらく触られたあと、彼女は顎を触りながら「少々筋肉の付きが甘いが、まあ、良しとしよう」と言った。
己の貞操の心配をしながら、五体に安全を呼びかけていると、ヒマワリが咲く花壇の方に、何やらふわふわした固まりが見えた。
それをよく見ると、もうわかるな? 故に俺はもう言わんぞ。
「あ、おーい、姫乃ちゃーん!」
そのフワフワはこちらを向き。はい、女です。女の子です。それもまだ幼いです。それがこちらへととことこと駆け寄ってきた。
姫乃と呼ばれたその少女は髪の毛にウエーブがかかり、腕にはテディベアを抱えていた。
「なんですか?」
彼女は首を少し捻って、葉山に問う。
葉山は彼女の目の高さに合わせて、それに答える。
「この人が、前に言っていた新メンバーだよ。自己紹介して」
彼女がこちらに目線を合わせると、一度ぺこりと、頭を下げた。
「初めまして、守谷姫乃です。よろしくお願いします」
守谷と名乗るその少女は、儚げに笑みを浮かべ、俺に呟くようにしてそう言った。
「ああ、よろしく頼む」
こちらも軽く会釈すると、守谷はまた花壇の方へと走っていき、また屈んでにらめっこを再開した。
「何やっているんだ?」
俺の些細な質問に、葉山が変わりに答えた。
「昨日もあんな感じでしたね。話しかけても、何もしてません、としか返してくれませんでしたし」
「ふーん」
*
さて、ここまで本当に女性しか居ないわけだが。女性が嫌いなわけではないが、何とも居心地が悪い。
縁側で一人、苦悩するが、解いたところで得するわけでも、現状打破できるわけでもあるまい。「やあやあ、友人こんなところに居たかね」
思考停止させたと思ったら、また悩みの種が一つ頭の中に飛び込んできた。ここはこれ以上頭痛を酷くさせぬ為にも、無視を決め込むことにした。
「……」
「おや、黙りですか? いけませんねぇ、それは」
「……」
「ではこれは独り言です。お風呂が沸きました。以上」
とだけ残し、彼はまたどこかへと行ってしまった。
ふ、風呂か。
今日の猛暑は昨年にも増して、その猛威を振るい閻魔大王が地獄から這いずり出るほどの熱気が日本を被い尽くしていた。
そんな日に、大荷物を持って旅行に出た日にや、体の血液を全て汗にせねばならんほど汗をかく。そんな状態で平気でいられるものか。流したくもなるわ。
「な、なあ、葉山さんよう」
「ふふ、わかっていますよ」
「じゃあ、服を取ってきた後、案内頼むわ」
「構いませんよ」
一度部屋に戻り、着替えの服を取りに行ったのち、俺は葉山に連れられ、脱衣所へと連れられる。
「では、ごゆっくり」
俺一人を残し、葉山が出ていく。
中を見回すと、銭湯までとはいかないが、それなりに広く、立派であった。しかもうちよりもいい洗濯機使ってやがる。羨ましい……。
汗まみれのシャツやらなんやらを脱ぎ捨て、かごの中にぶち込んだあと、浴場の方へと出てみた。
おお、素晴らしき日本風呂、檜の作りとはまた風流な。思わず感嘆の息が漏れる。
まずは体を清めるために、シャワーで汗を流し、その後湯船に浸かる。少し熱めではあるが、慣れてしまえばいい加減である。肺の中にある空気を抜き、ゆっくりと体を湯船へと沈めていく。
白き雲の様な湯気の中で、ゆったりと溶けそうになっていると、引き戸が開く音がした。
はて、俺は窓など開けたかな? いや、していないな。だとするならば、誰かが入り、扉が開いたのだろう。
そこまでひらめくと湯船の中で立ち上がり、扉の方を指さし「そこで止まれー!」と叫んだ。
「なんだ、先客が居たのか」
この声を聞く限り、さっき庭で木刀振るっていた真中に違いない。湯気がなかったらどうなっていたことか。
「いいか、俺はすぐ風呂を出るから、しばらく外で待っていろ」
「その声は、さっきのか。驚かすな、危うく転けるところであったぞ」
「いいから、早くしろ! 湯気がなくなる」
「別に私は、裸体をさらけ出したところで、恥など欠かぬが」
「そういう問題じゃねぇ!」
何とか言いくるめられたようで、扉が閉まる音がした。タイミングを見計らい、さっさと脱衣所に戻って着替えを手早く終わらせた。
風呂とは本来、力を抜いて、リラクゼーションするものではないのか? 逆に疲れてしまったわい。
一度嘆息した後、廊下に出てみると、真中が何故かバスタオル巻いただけの姿で立っていた。
「何しているんだ?」
一応、話は聞いてやろう。その後、取るべき行動を取ろう。
「外で待っていろと言われたので、待っていただけだが」
この場合、どう行動すればいいのか、恐らく変態にしかわかるまい。
「俺はな、外に待っていろとは言ったが、風呂入る時のまま出ていろとは言ってないだろ」
「もう一度あの汗まみれの服を着ろというのか?」
彼女が脱衣所の方を指すと、確かに汗で濡れた服がかごの中に散乱していた。ということは、こいつはあの服をもう一度着るより、俺にそんな破廉恥な格好を見られる方のがよっぽどマシだと判断したのか? 多分、男として見られていませんね、こりゃ。
「ああ、わかった。ゆっくり浸かってこい」
俺が乱暴にそう吐き捨て、その場を去った。
*
「あ、千晶さん、丁度いいところに」
自室戻る途中、葉山に話しかけられて、歩みを止めた。
「なんだ?」
「あの、これなんですけど」
そう言って渡されたのは、定期と二枚の紙切れ。その内一枚にはこう書かれてあった。
『用事も済んだので、私これで帰ります。あと携帯電話は持ち込み不可なので、先ほど頂戴しました。変わりの品として、定期と連絡先のメモを置いておきます。では良い生活を。バイビー』
何だこのふざけた文は、最後まで読み切った瞬間、かのエジプト兵から逃げる際に割った海のように二枚にちぎってくれたわ! こんな奇跡では誰も助からぬぞ、むしろ俺を誰か救え! そして、最後のそれは死語だ!
感情の風船が膨らむに膨らみ、そして膨らんだ以上に中身が出てしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
「もう、勘弁してください」
先ほど、男性ならどんな時でも問題ないと言わねばならないと心で誓っていたが。これはもう限界です。見知らぬ地で知らぬ人と一人で同居だと? 心細くて、あと一息かかればポッキリ折れてしまいそうである。
「えっと、言っていいのかな? あの、そろそろお昼じゃないですか」
そう言われ、うなだれた顔を上げ壁に掛かっている振り子時計を見ると、確かに時刻は十二時少し前を示していた。。
「ああ、そう言えばそうだな。つまり、そろそろ昼飯を作れと」
「すみません! 無理ならいいんですよ!」
彼女は、腰を折り、深々と頭を下げる。
まあ、休みの日何かも、母親に変わり家事洗濯料理全てこなしていたから、習慣的にやるのだが、とりあえず了承はしておこう。
「ああ、構わないぞ」
「ありがとうございます。先に秋奈ちゃんがいるので、お手伝いしてあげてください」
「わかった。でも大丈夫なのか? あいつの男性恐怖症?」
「多分、問題ないですよ。だって彼女から呼んできて欲しいって頼んだんですから」
これは面妖な。鬼を自らの手で招き入れるとは。まあ、取って食おうとは思ってないが。
「とりあえず、行ってみるか」
早速俺は、台所に向かうと、雪野の小さな後ろ姿が、目に入った。
雪野も気付いたらしく、こちらに目をやると、たちまち顔面蒼白となり、石のように固まってしまった。
「おい、いきなり固まる奴があるか」
俺が叱責すると、ハッと我に返り、今度はぎこちない愛想笑い浮かべた。無理しなくてもいいぞ、少女よ。
「とりあえず、手伝ってやるから、何作るか教えてくれ」
「え、えっと、じゃあ、カレーを作りたいのでお願いします」
そう告げる、彼女の口は徐々に不自然につり上がっていく様子は、昔見た口裂け女かと思うほどのものだった。
「わかった、食材切るの手伝うから、早くやっちまおうぜ」
俺がかごの中の野菜を手に持ち、素早く洗い、皮を向き、まな板の上に置いて乱切りにしていく。それを順々に繰り返していき、野菜の山が積み上げていく。
手際よくやっていくと、一本しかない包丁に両方から手が伸び、丁度包丁の真上あたりでぶつかった。
「おっと、すまん」
雪野の方を向いて謝るが、彼女は脱兎の如く逃げだし、部屋の角で丸くなって、カタカタと震えていた。
「あー、大丈夫か?」
俺が尋ねると、目に涙を蓄え、足を振るわせながら、ゆっくりと立ち上がり「だ、だだだ、大丈夫ですよ」と震える声で言う。
こちらとしては、かなり不安ですよ、雪野さん。
まあ、そんなことがありながらも、無事カレーが完成。甘口なのは、ガキんちょ二人の為だとか。
匂いに釣られて、ほかのメンバーも続々とやってくる。
長机を囲むように腰掛け、我々は食事を始めた。
「おいしいですね、これ」嬉嬉として言ってくれるのが葉山。
「少し甘いが、うまいな」勇ましく言ってくれるのが真中。
物静かに食べているのが守谷。
「男のくせに」そう貶すのは竜ヶ崎である。
「おいおい、人参残すなよ」
竜ヶ崎の皿に除けられている人参を指摘し、そう突っ込むが彼女は反抗的な態度で俺に対抗する。
「いいでしょ別に、嫌いなんだから」
このガキんちょ、自分より歳の小さい子ですらちゃんと食べているのに、自分だけは食べぬ気か。
「そんなこと言ってたら、俺よりでかくなるなんて無理だな」
「うっ」
俺の一言で決心が付いたのか、彼女はスプーンの上に人参を置き、震えた手で顔の辺りまで上げる。そして、目を瞑って口の中に一気に放り込んだ。
「よし、よくできた」
人参との戦に勝利した竜ヶ崎を賛美の為に彼女の頭を撫でてやったが、彼女はムスッとした顔でこちらを睨む。
「いつか追い抜いてやる」
「ま、楽しみに待っているさ」
*
楽しい楽しい食事の時間も終わり、俺と葉山は、つまらんつまらん食器洗いをすることになった。ええ、家事をやりはじめ早六年、これだけは苦痛以外の何物でもない。
「よし! すぐにやっちゃいましょう!」
葉山が意気込むように声を上げ、取りかかるので、俺も小さく「よし」と呟き、スポンジを握った。
「皆さん美味しそうに食べていましたね」
皿を洗いながら、葉山がそう聞いた。
「ああ、そうだな」
「少しは馴染めました?」
「馴染めるか。全く、何が目的なんだ。あの馬鹿は」
「きっと何もありませんよ。きっと……」
そう呟く彼女だが、何となく儚げと言うか、弱々しいと言うか、今までの彼女とは思えない反応だった。
「はい、これで終わりですね」
いつの間にやら、皿は全て真っ白に輝き、鍋も焦げまで綺麗に落ちていた。此奴、出来おる。
「この後どうします?」
泡だらけの手をタオルで洗いながら、彼女が聞くので少し考えた後、ポンと手のひらを叩いた。
「なら、定期に書いてある、夕日台って所に行きたいんだが」
ここに来る途中、車窓から見えた風景のうち、夕日台というところは、それなりに栄えており、ちゃんと人や店があったのを瞬間的に記憶していた。まさかこんな形で役に立つとは。恐らくそこならいろいろ入手できる、と俺は踏んだ。
「ええ、構いませんよ」
葉山は快く承諾してくれたが「ただし」と条件を提示した。
「行くなら姫乃ちゃんも連れてってあげてください」
「別に構わないが、何でだ?」
「あの子、昨日もあそこでじっとしていたので、なんだか接点を持ちにくいんですよ」
確かに言われてみればそうだ。ここまでろくに会話をしていないのは彼女くらいのものだ。
「無理に誘っては欲しくないんですけど、よかったら声を掛けてあげてください」
「ああ、承知した」
早速縁側の方に出てみると、花壇方面でまたもやふわふわしたものが花壇に見えた。
「おい、守谷」
優しく声を掛けると、守谷はこちらを振り向き、とことこと寄ってきて首を小さく傾けた。
「なんですか?」
「これから、夕日台に行こうと思うんだが、お前も来るか」
そう尋ねると、口を噤んで難しい顔をした後、彼女は大きく首を縦に一度動かした。
「じゃあ、行くから支度してくれ」
「わかりました」
彼女はとてとてと廊下を走っていき、角の辺りで、足を取られ激しく転倒した。
「だ、大丈夫か!」
ええ、焦りました。世界震撼レベルで。その証拠に、この鳥肌ですよ。今まで見たことないほどの鳥肌ですよ。その割に冷静そうだなだって? そりゃパニックで頭真っ白になっているからですよ、この野郎。
心配になって駆け寄ると、彼女は何事もなかったかのようにケロッとした顔で、そのまま奥へと消えていった。やっぱり子供はタフなんですね。
*
俺と葉山、それと守谷は、駅に向かい電車を待った。さすがは田舎の駅と行ったところか、電車が来る間隔が二時間とは。
三十分前後ホームで待たされ、ようやく一両編成の電車がやってきた。それに乗り込むと、来たときとは違うく、ボックス席が長椅子へと変わっていた。
椅子に左から順に、俺、守谷、葉山の順に腰を下ろす。
「なあ、いつもお前は花壇で何を見ているんだ?」
俺が守谷に問うと、彼女は「別に、何でもありませんよ」と儚げに微笑みながら返すばかり。そう聞かれると、逆に気になるのが人間の性か。
「そういえば、姫乃ちゃんいつもその人形持っているけど、どうしたの?」
今度は葉山が指さしながら訊くと、守谷はぎゅっと握りしめた。
「これは、おばさんがくれた大事なものです」
これは重要な事だろうか? まあ、一応そのテディベアは頭の片隅にでも置いておく事にしよう。
……うん、どうしよう。会話が続かない。
葉山さん、私も気持ちは一緒だ。だからそんな慌てた顔で私を見ないで欲しい。むしろ助けて欲しいのは私だよ。どうしようもないときはどうしようもないのが、現実である。それを打破できるのはいつの時代も、英雄だ。
とりあえず、思いつく限りの質問を彼女にぶつけ、話の尺を延ばす作戦。略してトオハ作戦を実行する。
「好きな食べ物は?」
「特にありません」
「じゃあ、嫌いな食べ物は?」
「それもありません。出されたものは全部食べますよ」
「えっと、好きな歌手は?」
「特にいません」
「えっと、じゃあ、好きなスポーツは」
「これと言ったものは」
「えっと……じゃあ……」
限界です、ギブです、これ以上不可能です。トオハ作戦、中断をここに宣言します。
話が膨らまず、幼女相手に必死に迷走する高校生の姿たるや、笑うなら笑え、滑稽であろう。こんな事になるなら、拓人に会話術の一つや二つ、教わるべきであった。
しかし、そのくせ守谷の顔はどこか満足げで、頬をチューリップのように淡く赤くしていた。まあ、彼女が満足ならば、それでいい。結果よければなんとやら。
そんな迷走劇をしているうちに、電車は夕日台へと到着した。
「つ、着きましたよ。は、早く降りていろいろ見ましょう」
慌てふためいた口調で葉山が言うので、俺もそれに便乗し、そそくさと車内から出た。
さらば不毛なる永久凍土の車内よ、我が心は春と共にありき。
外に出ると、月見ヶ丘より、少しはマシになった屋根と、多少舗装された土台が築き上げられていた。
改札を抜けると、天照らす土地に人が正しき営みをし、栄えた里があった。何が言いたいかというと、ちゃんとした商店街がありました。人もそれなりに見え、活気にも溢れていた。
「じゃあ、いろいろ見て回りますか」
「そうだな。守谷、何かみたいものはあるか?」
「特には」
そう言うと思いましたよ、こんちくしょう。
「なら、適当に散歩するか」
「そうですね」
我々は目的もなく、気ままに町の散策に出た。
さすがは商店街か、八百屋から精肉店、魚屋に和菓子屋と文具店、おお、書店まであるのか。
一通り、見てみると守谷が突然立ち止まり、何かをじっと見ていた。
その視線を追うと、その先にはさっきの書店があった。
「何だ、あそこに寄りたいのか?」
「いえ、そんなことはありません」
「嘘こけ。顔に行きたいって書いてあるぞ」
俺が指摘すると、守谷は顔を赤めて、顔を手で覆い隠すように撫で繰り回し、葉山に「書いてますか?」と訊ねる。葉山は俺とばっちりアイコンタクトし「うん、綺麗に書いてあるよ」と答えると、守谷は恥ずかしそうに顔を俯けた。
「そう無理すんなって。ほら、行くぞ」
俺が背中を押してやると、いやいやながらも彼女はどこか嬉しそうな顔をしながら、書店へと入っていった。
書店の中は、店と言うより、古本市のような素朴な作りで、奥にレジとおそらく店員だと思われるお婆ちゃんがちょこんと座っているだけで、後はすべて本棚でいっぱいいっぱいだった。
しかも、その本の種類と来たら、夏目漱石の「こころ」、芥川龍之介の「地獄変」、二葉亭四迷の「浮雲」、司馬遼太郎の「坂の上の雲」。
げっ、田山花袋の「布団」までありやがる。
完全に時代に取り残されている。今頃の漫画が一冊も見あたらない上に、週刊誌すらありゃしない。
古本好きには是非進めたいところだが、我ら活字嫌い世代にはちと手厳しい場所だ。葉山さんも、目が白黒して焦点が合っていませんよ。
そんな中、守谷はと言うと。何か良さげな本があったのか、立ち尽くしてじーっと何かを見つめている。
「何見てるんだ?」
俺が、横から問うと「これです」と言って一冊の本を指さした。
その本は百万回死んだ猫という絵本であった。
「これが欲しいのか?」
俺が抜き取り、顔の前に出すが、彼女は首を振って「入りません」と帝国時代の日本人のような態度を見せる。
ところが今は高度経済成長期に入り、そんな古い思想はぽーんと大空の彼方へぶん投げており、今は手に入るものは無理せず入手できる時代なのです。
「だから、無理すんなって。ほれ、買ってやるよ」
俺が寝ぼけた顔した婆さんのところに本を出し、一応持ってきた財布の中から金を出して買ってやった。
「ほら、大事にすんだぞ」
俺が紙袋で包装された本を差し出すと、目を輝かせながら守谷それを片手で掴んだ。
「よかったね、姫乃ちゃん。ちゃんとお礼言って」
「ありがとうございました」
これで、この少女とも少し近づけたかは、定かではないが、とりあえず喜んで貰えてよかった。うん、それだけだ。
*
家(仮)に到着したのは、七時を回ったところだった。
料理は雪野がやってくれたので、我々はその後片付けだけをやった。
空にはうちでは見られぬ星が所狭しと散りばめられ、白銀の粒の如く瞬いていた。
縁側で一人、それを眺めていると、葉山が俺の前にひょっこり顔を出した。
「なんだ?」
「お風呂をまた暖めたので、その報告に」
「ああ、ならお前ら先に入っていいぞ」
「そうですか。じゃあ、先に真中さんと凛香ちゃんと姫乃ちゃんに先に入ってもらいますね」
「わかった」
そう言うと、葉山は速やかな足取りで角を折れて呼びに行った。
それにしても、今日はいろんなことがあった。俺は後頭部に手を回してころんと後ろに倒れた。
これからの生活、かなり不安が残るものだ。見知らぬ土地で初対面の人と生活して、それを夏期休暇中ずっととなると、気の滅入る話だ。あの時、断っていればどうなったであろうか? おそらく俺は拓人以外の友人たちと、くだらなくもそれなりに楽しい生活をしていたのであろう。何にもなりはせんと思うが、きっと十年後辺りに「いい思い出だった」と思い返す日が来るはずだったはヴぇ!
そこまで物思いにふけていると、腹の上になにか棒状のものに勢いよく突かれた。何事かと上体を起こして辺りを確かめると、竜ヶ崎がこちらを半目で見つめていた。
「何やってんの、あんた?」
「お前こそ、風呂に行ったのではないのか?」
俺がせき込みながら聞くと、廊下の奥から葉山が大声で竜ヶ崎を呼ぶ声が聞こえ、それに反応した竜ヶ崎はビクリと肩を震わせた。
「いい、私はここにはこなかったってことにしなさいよ」
そう言うと、後ろにあった襖の部屋へと消えていった。一体なんだったのか、と思う前に葉山が行き絶え絶えにやってきた。
「あ、あの、こっちに、凛香ちゃん来ませんでした?」
「こっちには来てないけど」
「そうですか、ありがとうございました!」
そう言って、また駆けだして、廊下の奥へと消えていった。ああ、良心が痛む。
「なんで庇ったのよ」
竜ヶ崎が襖から不満そうな顔だけを出して俺に聞いてきた。
「なんだよ、隠せって言ったり庇うなって言ったり」
「そうじゃなくて、あんた、あいつと仲良かったのに、なんで私がここに居たことバラさなかったのよ」
「そりゃ、一応約束したからな」
「はぁ? 約束? あんたそんな理由だけであいつを裏切ったの?」
「裏切ったとは人聞きが悪いな。それ以上聞くのであれば、お前を取っ捕まえて、葉山の前まで連行するぞ」
「わ、わかった、もう聞かないから、黙ってて」
竜ヶ崎が苦虫を潰したような顔で襖から出て、俺の横に腰掛けた。
「なぜ俺の横に座る」と問うと「別にいいでしょ」と突っ慳貪に返された。
「にしても、お前が風呂嫌いだったとはな」
意地が悪そうに俺が聞くと、竜ヶ崎は顔を餅のように膨らましてこちらを向いていた。
「違うわよ、あの真中って言う男女が私の髪をごわごわにすんのよ」
そう言われてみると、彼女の髪は絹のように美しく流れ、癖毛や枝毛があまり目立っていない。思わず手が伸びてしまいそうなほど、美しい緑の黒髪であった。
「触んないでよね」
思わず伸びた手を引っ込めると、俺は「はいはい」と無念に呟いた。
夏の夜風に吹かれ、風鈴が綺麗な音で鳴き、蚊取り線香の独特の匂いが鼻を掠める夏の日。よくわからないまま、流れに身を任せてこんなとこまで来てしまったが、本当に大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと父親の言葉が過ぎる。
「チビ助、人生なんぞ適当にやっときゃなんとかなる。人様にさえ迷惑を掛けなきゃ誰かがお前を助けてくれる。だから安心、してどこへでも行け」
そんなことを当時三歳の俺に言うその豪快ぶりは、少々気が引けるものがあるが、今にして思えば立派なことを言っているような気もする。
ま、なんにせよ、ここには恐れるもんなんて何もありゃせん。平和、安全。素晴らしい響きだ。
だがなんでだろう。この救われない感じは。