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へたり込む隊長さんに、数人の警察官が慎重に近寄る。
戦意は喪失していると思われるものの、抵抗しないとは限らない。
息を殺して様子を見守る。
そのとき。
微かに音が聞こえてきた。
なんだか、嫌な感じ。
上下左右すべての方向から、地鳴りのような重苦しい音が響いてくる。
そう思ったのは私だけなのか、他の誰も、なにも言わない。
「ね……ねえ、くりおねくん。変な音がするの……」
「えっ? ……僕には聞こえないけど……」
やっぱり、気のせいなのかな……?
「だけど、和歌菜ちゃんに聞こえたなら、なにかあるのかもしれない」
くりおねくんがそう言ってくれた瞬間。
背後から慌ただしく駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「大規模な土砂崩れが起きそうです! 早く逃げてください!」
外で待機していた警察官なのだろう、切羽詰った焦りの声が届く。
降り続いていた雨の影響で、地盤が緩んでしまっていたようだ。
一部ではすでに土砂崩れが始まっているらしい。
「このホールの上辺りから、獣の咆哮のような不気味な音がしています! 崩れるのも時間の問題かと!」
「わかった。総員、速やかに退避! ホールの外へ急げ!」
本部長さんの指示で、通路に残ったままだった人たちを含め、全員がエントランス方面へと駆け出す。
「あたしたちも逃げるわよ!」
「うん」
「はいっ!」
綾芽さんの言葉で、くりおねくんと私も急いで部屋を出ようとした。
そこで気づく。
隊長さんが、座り込んだまま動こうとしないことに。
「おい、お前も早く来るんだ!」
本部長さんが叫ぶ。
身柄を捕らえようとしていた警察官たちは、先ほどの本部長さんの指示を受け、すでに部屋から逃げていた。
「俺は罪を犯した。もう終わりだ……。ここで……このホールで心中するよ。ソングフォーオール事件の記憶とともに……」
気力のない声でつぶやく隊長さんの声は、逃げる人たちの足音や声によってかき消されてしまうほど、小さなものだった。
「なにを言っている! 早く来い!」
本部長さんは部屋の奥まで駆け込み、隊長さんの腕をつかんで立たせようとする。
それでも隊長さんは、頑として動こうとしない。
「立てこもり事件で唯一の犠牲者となった女性がいたんだ……。撃ったのはこの俺だ。威嚇射撃のつもりだった……。焦っていたとはいえ、浅い角度で撃ってしまった俺のミス……。跳弾が、彼女を貫いてしまったんだ……」
え……? それって……。
「彼女への謝罪の意味も込めて、ここで幕を閉じることにするよ……」
すべてを終わったと言わんばかりの表情で独白する隊長さん。
「本部長、あんたも早く逃げてくれ。ホールと心中するのは、俺ひとりだけでいい」
「ふざけるな!」
大声を飛ばしたのはおじさんだった。
混乱の中でいつの間にか部屋に入り込んでいたのだろう。
「生きて罪を償え! 今は自分の足で立ち上がって、しっかり歩くんだ!」
そう叫びながら、おじさんは隊長さんの片腕を引っ張り上げ、力ずくで立たせようとする。
本部長さんとふたりがかりとなっては、抵抗のしようもなかったのだろう。
左右から抱え上げられる形で、隊長さんは無理矢理、直立させられた。
ソングフォーオールの立てこもり事件でただひとりの犠牲者となったのは、おじさんの奥さんだ。
いわば、仇と呼んでもいい相手。
その相手を、おじさんは助けようとしている。
「そうですよ! 死んでいい命なんてないんですから!」
「罪を犯したなら、精いっぱい償う。死んで詫びるなんて、逃げているだけですよ。犠牲者の女性に悪いと思うなら、生きて自分にできること見つけて償えばいい。僕はそう思います」
「そうね。本人は亡くなっていても、必ずなにか償う方法はあるはずよ。お墓参りして天国に向けて謝るだけでもいい。死んだらそれすらできなくなるのよ?」
私もくりおねくんも綾芽さんも、危険が迫っている中だというのに、思いのほか落ち着いていた。
大丈夫。
音は大きく響いてきているけど、まだ余裕がありそうだ。
単なるカンでしかないけど、私は不思議と確信を持っていた。
犠牲者の女性というのが、おじさんの奥さんだというのは、くりおねくんや綾芽さんも気づいているに違いない。
だけどあえて、そこには触れなかった。
おじさん自身がそれを隊長さんに語っていない以上、部外者には踏み込めないと考えたのだ。
「…………」
おじさんと本部長さんに両脇から抱えられた隊長さんは、終始無言だった。
無言のまま眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。
でもすぐに、諦めた様子で力を緩めると、素直に出口へ向けて歩き始めた。
「よし! 君たちも、急いで外へ出るんだ!」
「はい!」
本部長さんに促され、私たちもようやく部屋を出た。
☆☆☆☆☆
通路を抜け、エントランスを通り、ドアを開けて外へ。
その途端、凄まじい轟音が襲いかかってくる。
もともと防音設備のしっかりとした施設。外からの音も聞こえづらかったのだ。
自分の耳に届く音だけを頼りに安心しきっていたのは、完全に間違いだったのかもしれない。
「急げ!」
まだ雨は降っている。
ぬかるんだ山道を必死に駆け下りていく私たち。
猛獣のうなり声のような激しい山鳴りの発生源は、周囲に反響して絶対とは言いきれないけど、ナガネギーホールの上方の辺りだと推測できた。
なるべく離れておく必要がある。
下りのほうが、距離も稼げる。
そう考えたのだ。
バシャバシャと泥を巻き上げながら走る山道。
服や体が汚れることなんて、気にしてはいられない。
どうやら隊長さんも、本部長さんに腕をつかまれてはいるものの、すでに自力で走って逃げているようだ。
「やばい、崩れてきてるぞ!」
誰かの声が響く。
と同時に、爆発音のような大音量が、すべてを飲み込み始める。
一目散に逃げるしかない!
逃げ遅れれば、波のように襲い来る土砂によって木々とまとめて押し流され、海の藻屑ならぬ山の藻屑となってしまうだろう。
急げば急ぐほど、焦れば焦るほど、失敗してしまうのが人間というもので。
走ることが得意じゃない私は、安定しない泥の地面に足をすくわれてしまう。
ものの見事に転倒してしまったのだ!
ずべしゃっ!
ぶざまな音を立て、地面に顔面からモロに突っ込み、服も髪も全身が泥まみれになる。
ヒザをぶつけてしまったのか、激しい痛みで顔も歪む。
轟音が四方八方から耳に飛び込んでくる。
土砂は、確実に迫ってきている。
立ち上がろうとしても、足の痛みのせいか焦りのせいか、上手く立ち上がることができない。
――もうダメ、間に合わない!
せめて目と口を閉じて、泥が入り込むのを少しでも食い止めよう。
そんなの無駄なあがきだと、わかってはいるけど……。
「諦めるな!」
突然耳もとで声が響く。
愛しのくりおねくんの声。
これは……走馬灯ってやつ?
「立って、走るんだ!」
いや、違う。
本当にくりおねくんだ!
くりおねくんは泥まみれになった私に躊躇することなく、しっかりと横から抱え上げてくれていた。
そうだ。
私だって、生きなきゃ!
「うん、走る! くりおねくんと一緒に!」
「よし、行くよ!」
泥にまみれた私たちは、力いっぱい駆け出す。
その背後を、雷鳴のごとき地響きを伴って押し寄せた大量の土砂が、怒涛の勢いで流れ落ちていった――。




