第八話 追憶と予兆
そんなに遠くはない昔。
けれど、まだ人生の四分の一しか生きていない私にとっては、遠い昔。
私が私ではなく、私が俺だった頃。
強さを求める事なく、弱い自分を知りながらも、何も変えようとしなかった頃。
変化を恐れ、安定を求めていた頃。
その頃の私を、今私は見ている。
これは、夢。
私の意思はどこにもなく、実感すらない。
ただただ、過ぎ去った時が脳裏を横切る。
そのときの私は幸せだったのだろうか?
それとも、不幸せだったのだろうか?
私には分からない。
幸せなんて曖昧なもの。
誰にも決める事は出来ない。
決める事なんて許されていない。
だけど……
それでも、私は知りたい。
あの時の私は本当に不幸せだったのか。
本当に救いなんてなかったのかを。
あの時の私は、自分を不幸だと思っていた。
幸せなんて結局幻想なんだと思っていた。
だけど、今は違う。
今の私は、幸せのただ中にいる。
彼女が私に幸せを分けてくれている。
私が絶望したりしないように。
私が壊れてしまわないように。
けれど、いつまでも、それでいるわけにはいかない。
私は幸せを知った。
そして、それと同時に絶望も知っている。
だから、分かる。
終焉へと向かう軌跡。
それが、本当に小さなほころびからくると言う事を。
本当に些細な事で壊れてしまうと言う事を。
だから、私はそのほころびを許さない。
何があっても、ほころんだりしないようにしたい。
だから、問う。
本当に、あの頃の私は不幸だったのか。
その事を。
唇に何かを感じて、私は眠りから覚めた。
目をあけると、すぐ傍に彼女の顔があった。
そして、彼女は、私と目が合うと、そっぽを向いてしまった。
だけど、その頬はやや赤い。
すぐに分かった。
どうやら、先ほどの感触は、キスなのだろう。
軽い悪戯心でやろうと思ったところまでは良かったけれど、私が目を覚まして驚いたのだろう。
まぁ、確かにそんな状況になってしまえば、ばつが悪くて目をあわす事は出来ないだろう。
そこらへんが、彼女らしいと言えば彼女らしいけど。
「おはよう。膝枕ありがとうね?気持ちよかったよ」
私は、彼女にそうお礼を言うと、起き上がる。
結構寝たつもりだが、意外と外はまだまだ明るい。
まぁ、以外と膝枕は身体に負担がかかる。
あまり長時間させるわけにもいかないからちょうど良いと言えばそうだろう。
私は立ち上がると、そのまま身体を伸ばす。
やはり、少々無茶な体勢で寝てしまったせいで、身体の節々が少々痛い。
まぁ、彼女の方が、きつかったとは思うけれど。
無駄にでかい頭を膝の上にのせていたわけだし。
大した物はつまっていないくせに。
使えない知識しか入っていないというのに。
大事なときには本当に役立たないというのに。
……今、私は何を考えた?
今、私は自分になんと言った?
いや、いちいち疑問符をつける必要はない。
分かっている。
今、明らかに私は自分自身に自嘲していた。
嘲笑をかぶせていた。
それは、なぜ?
どうして、そんな事をする必要がある?
私には、そんな事をする必要はないはずだ。
彼女に愛してもらっている私は十分存在価値はあるはずだ。
なのに、なぜ、私はそんな事を思った?
どうして、そんな発想へと向かったのだ?
「っ!」
途端に頭痛がした。
まるで、何かが私に考える事を押さえ込むような感じだ。
頭の中で声が、考えるな、と叫び続ける。
分けが分からない。
なぜ、私は、考えてはいけない?
なぜ、私は、疑問を持ってはいけない?
もしかして、寝ている間に、何かあったのだろうか?
もしかして、寝ている間に、夢で何かを見たのだろうか?
じゃあ、もしそうならば、私は夢の中で何を見た?
どんな夢を見たと言うのだ?
分からない。
全く分からない。
覚えていない。
何を見たのか。
いや、それどころか、夢を見ていたのかさえも分からない。
完全な空白。
どんなに探り出しても、何も出てこない。
……怖い。
なんなんだ、この感覚は?
全く分からない。
何がどうなってこうなってしまっているのかが分からない。
分からないから、怖い。
ならば、どうすればいい?
簡単だ、理解すれば良い。
そうすれば、怖がらなくてもすむ。
そうだろう?
今まで、そうして来たはずだ。
無知なのは怖いから。
何も知らないのは怖いから。
だから、いくらでもいいわけを作って生きてきた。
適当にいいわけにもならない事柄を見つけ出して、それを答えとして、自分に言い聞かせてきたじゃないか。
そうだろう?
上月聡と言う人間は。
俺と言う人間は……
「……俺?」
一人称が変わった。
そして、その瞬間に気がついた。
目が覚めて感じた違和感。
まるで、自分が自分でないような感覚。
いや、現在の自分ではないような感覚。
だけど、ようやくその違和感の正体に気がついた。
現在の上月聡なら、決して俺とは言わない。
その一人称は、封じたからだ。
それが、心が着る鎧の一つだったから。
決して上月聡の心に触れさせないための鎧だったから。
私と呼ぶ事で、あたかも自分自身を他人として見るために。
だけど、それが今壊れた。
私ではなく、俺に変わった。
いや、俺に戻った。
それが意味する事。
それは、きっと……
「ねぇ、大丈夫?」
彼女が、俺にそう尋ねる。
その表情は心が痛むほど心配そうな顔をしている。
「全然大丈夫。だから、そんな顔しないで?ほら、せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
そんな顔を俺は見たくない。
私が俺に戻ってもそれは変わらない。
彼女への想いは何一つ変わらない。
変わったのは、ただ一つ。
俺は、完全に心の鎧を脱ぎ捨てた。
その一点だけだ。