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第十二話 大切な人

「いいの?」


千鶴はグラスを空にすると、そう言った。


今は、彼女の部屋の傍のイタ飯屋。


そして、私たちは二人きり。


しかも、ここ最近はずっと、彼女とつきっきり。


だから、当然の問い。


彼女の事はいいのか。


そういう事なのだろう。


「うん。どうせ、今は独り身だし」


だけど、彼女が心配するような事は何一つとしてない。


そのために、私は別れたのだから。


彼女は、私の言葉を聞いて驚いた表情をする。


まぁ、彼女とて、私と沙希さんの関係の深さを知っている。


別に、彼女に惚気話をしたわけじゃない。


ただ、本当の私を知っているだけに、私が恋人として受け入れた事の意味合いを分かっているのだ。


私がどれだけ深く愛していたのか。


それを知っていたのだ。


「私のせいか?」


そして、すぐに眉間にしわを寄せると、そう尋ねる。


けれど、それは尋ねるというよりかは、詰問に近い。


鋭い彼女の事だ。


彼女と別れて千鶴と一緒にいる時間を延ばす。


それがどういうことを意味するのかぐらいは予想がつく。


「違うよ。むしろ、これは俺が選んだ事。このままでは、きっと俺は自分の事を一生許せない。だから、千鶴に許しを請いたくてここにいる。千鶴だって知っているだろう?俺がどれだけ身勝手なのかぐらいは」


だけど、それは違う。


確かにきっかけは、千鶴と再会した事。


だけど、選んだのは私。


これ以上、罪を背負いたくないから、ここにいる。


「お前、それで、私がそんな理由で一緒にいるな、なんていわれたらどうするつもりなんだ?」


そして、もちろん、今こうして千鶴が言った事も考えた。


こんな形で一緒にいて欲しくないと思うのは普通だ。


だけど、


「俺の知ってる千鶴はそんな事言うなんて思ってなかったよ。お前は本当に優しいからな。お前は俺の事を恨んでいても受け入れてくれる。だいたい、俺の事を受け入れる気がないなら、俺が裏切った時点で、お前は切り捨てる事が出来たはずだろう?俺がそうしたように。」


千鶴がそんな事するとは思わなかった。


千鶴は優しい。


口調は厳しいし、毒ばっかり吐いて、皮肉家でもある。


だけど、それ以上に、彼女は優しい。


本当に欲しい言葉をくれる。


あの時私が彼女を裏切ったとき、彼女は私にこういった。


『お前がそれを選ぶのは当然の事だ。私はお前の選択に何も言わないよ』


絶望して、彼女の手を突き放した。


だけど、彼女は、そんな私に笑ってそう言った。


ずたずたに傷ついて死にそうなほど苦しいくせに。


だから、私は思ったのだ。


千鶴のように強くありたいと。


千鶴のように優しくありたいと。


まぁ、それは途中で失敗したが。


「だから、そういう事で、俺は全く心配はしていなかったさ」


私は、彼女にそう答えると、グラスに残るカクテルを飲み干す。


すでに、かなりの量を飲んでいる。


彼女と会うときはそうしないとやっていられないから。


そうじゃないと、また逃げ出したくなるから。


これ以上、傷つきたくないと、弱い心が叫ぶから。


「お前は、本当にばかだな」


彼女は、泣き笑いするような顔をすると、そうつぶやく。


「あぁ、ばかさ。そんなの千鶴だって最初から知ってるだろう?」


そのつぶやきに答える。彼女のつぶやきは真実。


私はばかだ。


何一つ大切な物を守れない弱い人間だった。


好きだと言う想いすら、守りきれなかった。


だから、私はばかなんだ。


「でも、ホント、お前は優しいよ。優しすぎる。私と一緒にいるという事は、おまえ自身も傷つく事になるんだぞ。それでもいいのか?」


そんな私の事を、彼女は本当に心配そうにそういう。


自分の方がもっと辛いくせに、そうやって他人の心配をする。


だから、助けてやりたい。


せめて、傍で支えてやりたい。


「かまわないさ。俺は、千鶴事が大切だ。それは昔から変わらない。だから、きっとここでまた見捨てれば、裏切れば、きっと後悔する。死ぬまでずっと。どうして、あの時裏切ってしまったのか、と。それだったら、一瞬だけの悲しみの方がいいさ。永遠の苦しみよりも」


そして、自分自身の罪から開放してやりたい。


もうこれ以上、罪を背負い続けるわけには行かない。


この罪は、私だけではなく、他人をも傷つける。


沙希さんを傷つけたように、それ以外の親しい人たちをも傷つける事になる。


だから、いつまでも背負い続けるわけには行かない。


私は、人の事が大好きだ。


だから、否定するのだ。


失望は期待を二乗する。


良く言った物だ。


私は人の事が好きだから、裏切られる事で、さらに憎むのだ。


期待しすぎて、それが絶望に変わるのだ。


だからこそ、私は背負い続けるわけには行かない。


きっと、期待して、裏切られて、絶望するだろう。


それは、この現実世界で生きている以上変わらない。


だけど、それでも、時々期待通りの事だってあるだろう。


そんなときに、この罪はいらない。


邪魔にしかならない。


「ありがとう」


いつの間にか、千鶴は泣いていた。


化粧が涙でぼろぼろになるが、それでも私はその姿が綺麗だと思った。


いや、綺麗なのは姿じゃない。


ぐちゃぐちゃになっている顔なんて見れたものじゃない。


ただ、彼女の魂はとても綺麗だ。


私があこがれたあのときと全く変わらない。


素直に尊敬できたあの時と何一つとして変わらない。


「いや、俺こそ、言わせてくれ。こうして、俺の事を受け入れてくれてありがとう、って」


ひとしきり泣いた後、彼女はグラスに残った物をいっきに飲み干した。


気付けにはちょうどいいだろう。


そして、飲み干した後の彼女はいつもどおりだった。


いつもと変わらないしっかり物のお姉さんと言った感じだ。


「んじゃ、そろそろ帰ろうか?」


俺は、そんな彼女の姿を確認すると、立ち上がり、伝票を持つ。


なんだか、居心地が悪い。


周りからかなり注目を浴びている。


これでは、おちおちと飲んではいられない。


彼女が立ち上がるのを確認すると、清算をして、彼女を送る。


もう話す事は全部話した。


ならば、今日はもうこれ以上一緒にいる必要はない。


というか、一緒にいないほうがいいと思う。


お互いの状況を確認した。


一日それを考える時間を置きさえすれば、翌日はまた元通りになる。


やはり、話した当日からは無理だろう。


お互い変な感じになりそうだ。


闇夜をぽつりぽつりとついている街灯を頼りに歩く。


かなりの量を飲んだ彼女は、足元あやしく、ふらふらとしている。


私はそんな彼女の手を取り、つなぐ。


そうしないと、車道に突っ込んで行きそうで怖かった。


彼女の手はほっそりと細く、冷たかった。


私の手とは全く違う。


沙希さんの手とも違う。


千鶴だけの手。


そして、その手こそ千鶴の手に相応しいと思った。


理由なんてない。


だけど、なんとなく、千鶴にはそれがぴったりだと思った。


彼女の手をぎゅっと握り締め、空を眺める。


滲んだ空に、星がかすかに光る。


実家にいる頃はいつも見ていた。


一人の夜はそうすることぐらいしか出来なかった。


自然はいつも私に優しかった。


私の事をそっと優しく包み込んでくれていた。


だから、私は素直に彼らに心を開けた。


千鶴もきっとそんな人。


自然のように優しく包み込んでくれる。


私は、上を向いていた視線を落とす。


ちょうどそこには千鶴がいる。


どこにでもいるような、普通の女の子。


沙希さんとは違う。


沙希さんは本当に可愛らしい姿をした女の子。


だけど、沙希さんと千鶴のどちらがいい女か。


そういう問いになったら、私は間違いなく、千鶴だと言うだろう。


本当に千鶴はいい女だと思う。


それは彼女が彼女たらしめている根底の部分がそう思わせる。


彼女はいい女だと。


それこそ、一所懸命になって探しても見つからないぐらいほどの、と。


私は歩みを止める。


彼女の部屋に着いたからだ。


私は、彼女の手を離す。


もう、大丈夫だろう。


私は、彼女へと向き直る。


「おやすみ」


そして、そういうと、その場を離れる。


だけど、そんな私と同時に彼女は、私の肩を掴むと……


そっと、私にキスをした。


唇と唇がかすかに触れる程度の子供染みたキス。


だけど、彼女にとってはきっと一所懸命な気持ち。


「おどろかないんだな」


彼女は、そっと笑うと、問いかける。


だけど、そんな事は愚問。


「千鶴の気持ちはずっと前から知っていたさ。それこそ、中学の時からさ」


私は、ずっと前から知っていた。


千鶴が私の事をどう思っていたのか。


だけど、私はそれに対してなんの反応も見せなかった。


それは、彼女にとって、残酷だったと思う。


けれど、それでも、どんな反応も取る事は許されなかった。


私は、伊緒の事が好きだったから。


そして、伊緒は私の友達が好きだったから。


どの恋愛ベクトルも向き合う事はなかった。


だから、どうしてもバランスを取るためには、誰もが気付いても気付かないふりをするしか出来なかった。


関係を壊すには、誰もが近すぎた。


親密すぎたのだ。


「そうか。まぁ、勘の鋭いお前の事だ。当然と言えば、当然か」


彼女は、少し悲しそうな笑みを浮かべる。


だけど、それは私も同じ。


あの、どうしようもなかった関係の事を思い出すと、どうしてもそんな表情しか出来ない。


あの歯がゆかった日々を思うと。


「なら、私が何を望んでいるかも、分かるか?」


そして、彼女は、さらに悲しそうに笑みを浮かべるとそういう。


本当にどこまでも悲しそうな笑み。


そんな事を考えている自分自身を嘲笑っているような笑み。


「分かる、さ。他の誰でもない千鶴の思いだ。分からないはずがない」


そして、その想いの意味を、私は知っている。


彼女が浮かべる、その悲しそうな表情の意味を。


彼女が求めている物を。


「なら、お前はどうする?私の望みを叶えるのか?」


そんな私の答えに彼女はさらに問いかける。


仮定だらけの会話。


だけど、その会話は完全に成り立っている。


彼女は私の性格を熟知している。


変わってしまったとしても、彼女には私の事は全てばれてしまう。


そして、私もまた彼女の性格を熟知している。


彼女がどんなふうに考え、どんなふうに感じ、どんなふうに決断するかを。


どんな考えをした時に、そんな表情をするのかさえも。


「それだって、分かっているんだろう?俺がどんな答えを出すのかぐらい」


本当にお互いの距離は近い。


きっと、私と千鶴は似たもの同士なんだ。


以前の私と千鶴の表の表情は全く異なったものだったかもしれない。


だけど、根っこにある深い部分ではそっくりだったんだと思う。


きっと、私たちはお互い、お互いの鏡に映った自分を見ていたんだと思う。


だから、お互いの考えている事が手に取るように分かる。


そして、今は、以前よりももっと似ている。


あの時よりももっと私たちは似ている。


「そうだな。本当に嫌になるぐらいの同調率だな」


そんな私たちを皮肉りながら、彼女はそう言って笑う。


同じく私もそう思う。


本当に嫌になるぐらいの同調率だ。


彼女は、腕から手を離すと、踵を返すと、部屋に向かう。


そして、私はその後へと続く。


一度だけ入った事のある彼女の部屋。


だけど、あの時とは状況が全く違う。


そして、部屋に入った後に起こる事も。


あの時は、こんなふうになるとは、思わなかった。


あの時の私は何も考えていなかったから。


何も考えられないようにしていたから。


彼女が部屋の鍵をあけ、中に入る。


私もそれに続くようにして、入る。


相変わらずファンシーグッズに埋め尽くされる部屋。


彼女は、部屋に着くと、ベッドに腰掛ける。


それと同時にいったん目を瞑ると深呼吸する。


こういうときの覚悟はきっと男よりも女の方が大きいと思う。


男になんて、覚悟はさほど必要にならない。


それはきっと男よりも女の方が精神的に強いから。


いろんな辛い事にも耐えられるようにできているから。


私は彼女の隣そっと腰掛けると、手を握る。


それが私からの合図。


そして、彼女は、私にキスをした。

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