1話 Anomaly
日本のとある公園で野宿をしていた 16歳の青年【野上 透真】
彼が目を覚ますとそこは……
甘い匂いがした。
砂糖か、蜜か。
そんな呑気な匂いが最初に届いて、透真の意識を引っ張り上げた。
さっきまで公園で寝ていたベンチとは違う寝心地がする。
形状がアーチ状から平らな物に変わっているように感じる。
次いで人の声。賑わいが重なり合って聞こえてくる。
陽光が瞼を透かす。暖かく眩しかった。
透真はゆっくりと目を開けた。
(……っ)
視界が揺れた。
頭を動かした拍子に、頭の奥がずきりと鳴る。
眩しい。空が青い。
(ここは……どこだ)
身体を起こそうとした。あちこちで痛みが弾けた。
脇腹、肩、膝。
動くたびに叩きつけるような痛みが走って、思わず歯を食いしばった。
(なんで……こんなことに……)
腕を見た。布が巻いてある。
見た目的に軽い応急処置だろう。
だが、自分でやった記憶はない。
(コレは……?)
上半身を起こして、周囲を見渡す。
石畳の道が続いていた。 木造の建物が並んでいる。
色とりどりの布を広げた建物と、行き交う人々。
賑やかな市場のような場所だった。
白い漆喰の壁に、橙色の煉瓦。
軒先には布の日除けが下がり、風に揺れている。
屋台からは甘い匂いだけでなく、焼いた肉の香ばしい匂いも漂ってきていた。
看板が見えたが、読めなかった。
貼り紙も同様に読めなかった。
何かを売っているというのは理解できたが、それが何かまではわからなかった。
(日本じゃない……?)
西洋の観光地のようだ。
イタリアやスペイン、そんな雰囲気がある。
だが、どこと聞かれても答えられなかった。
アスファルトもない。電柱すらない。
何もかも、見たことがない。
なのに。 行き交う人々の声が、全部わかった。
何一つ聞き取れない言葉がない。
文字は一文字も読めないのに、なぜか声は全部日本語に聞こえる。
(……どういうことだ)
背中がゾゾッと冷えた。
混乱が、じわりと頭の中に広がっていく。
とても気持ちの悪い感覚がする。
なぜ日本語が聞こえるのだろう。
なぜ日本語にしか聞こえないのだろう。
日本……俺は故郷で何をしていたのだろう。
何かをしていたという感覚はあるのに、何をしていたか思い出せない。
一昨日も。先週も。
どこまで遡っても、霧がかかったように何も出てこない。
一番最新で覚えているのは、近所の公園で野宿をしていた事だけ。
(なんで俺は、ここにいる)
「あっ……!」
声がした。
振り向くと、生成り色の髪をした女性がいた。
膝をついて、こちらを覗き込んでいた。
淡い色の服を着ていて、耳に黒い房飾りをつけている。
手には小さなポーチを持っていた。
目が合った瞬間、安堵したような顔をした。
「良かった……意識が戻ったんですね」
知らない顔だった。
「……あなたは?」
女性は少し慌てたように姿勢を正した。
「えっと、その……街を歩いてたら、人が倒れてるのが見えて……」
「怪我をしてたので……」
言いながら、抱えていたポーチを落としかける。
「あっ」
慌てて抱え直した。
(……手当をしてくれた、という事か)
腕の包帯を見る。丁寧に巻かれていた。
「ありがとうございます」
礼を言いながら、透真は必死に頭を回そうとした。
(なぜ俺はここにいるんだ……?)
(誘拐……?)
(いや、人身売買などの類だろうか)
(色々可能性として挙げられるが、街中で倒れていたのが引っかかる……)
だが頭がまとまらない。
痛みと混乱が邪魔をして、考えがすぐに霧散する。
その時、不意に腹が鳴った。
ぐぅ、と間抜けな音が響く。
女性がきょとんとした後、小さく笑った。
「あ、あはは……」
「何か食べますか?」
透真は少し迷った。
街中で倒れているというのに、この人以外は助けてくれなかったのか?
もしかしたら、誘拐犯か何かのグルかもしれない。
しかし、ならなぜ俺を狙うのか?
俺は何も持っていない、それどころか一文無しだ。
色々と考えを巡らせるが、空腹感は思っていた以上に強かった。
敵意も無いように見えた。
「……いただきます」
女性はほっとしたように笑い、近くの屋台へ駆けていった。
その背を見送りながら、透真は周囲を観察する。
やがて、女性が戻ってきた。
「どうぞ!」
小さい果物の盛り合わせのようだ。
紙の器の中で、ベビーカステラのように積み上がっている。
黄色いベビーキウイの様な見た目で、蜂蜜のようなドロリとした物がふんだんにかかっている。
だが、見たことの無い種類の果実だった。
「……ありがとうございます」
透真は一応受け取った。
ありえないほどの甘い匂いがする。
一口で歯を一本持ってかれそうな気がする。
「あの……コレは?」
「わかりませんけど、美味しそうだったので買ってきました!」
「疲れたときには甘い物と、オルキスちゃんが言ってたので」
「えぇ……」
普通わからないものを、無闇に人に勧めるだろうか……?
女性はニコニコとこちらを見つめている。
オルキスちゃんが誰かは知らないが、この人をしっかり叱ってほしいものだ。
……受け取ってしまったからには、食べるしかないだろう。
透真は、一つ頬張った。
レモンの様な酸味を感じ、意外にも甘過ぎない程よい甘さも感じる。
だが、何とも言えない味だ。美味しい、かもしれない?
「お……美味しいです」
「あ、良かったぁ……」
「あの……顔色、すごく悪いですけど」
女性が心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですよ」
「それで、ここはどこですか」
「中央通りですよ」
「あ〜……そうじゃなくて」
「この街って、どこなのですか?」
「北東区域ですけど……」
話が上手く噛み合わない。
こちらの聞き方が悪すぎる。どう説明したらいいものか。
「質問の仕方が悪かったです。ここの国って、どこですか?」
「あ〜! クロフィア王国です!」
(所属国家を聞いたつもりだったが……)
(クロフィア王国……聞いたこと無いが……)
「それと、この国の所属国家は世界地図で言うと、どの国ですか」
女性は混乱しながら透真を見ている。
「……この国はクロフィア王国ですよ?」
「アメリカとかヨーロッパとか、そういうのです」
「ええっと……すみませんわかりません……」
透真は小さく眉を寄せた。
まさか国名すら知らないとは思わなかった。
世界地図の枠組みを学校で習わなかったのか?
「その……遠い所から来たんですか?」
逆に質問される。
「ええ恐らく」
日本へ簡単には帰れないだろう。
恐らく何千キロも離れている。
この意味不明な状況と場所では、尚更どのくらい離れているのかわからない。
透真は更に記憶を探る。
だが、何も出てこない。
状況が状況だからか疲労感が凄く、余計に記憶が曖昧になっていく。
「そういえば、名前……」
女性は果物をつまみながら、遠慮がちに口を開く。
「透真、です」
「透真さんは何で倒れていたんですか?」
「……わかりません。気づいたらここにいました」
「もう何が何やら……」
「ん? よお!」
声が割り込んだ。
振り返ると、淡黄色の髪にサングラスを載せた男が立っていた。
少し嬉しそうな顔で、何かを食べながらこちらに向かって歩いてくる。
「オリザ。久しぶりだなァ」
「ジュノス!」
女性が声を上げた。
「なんでここに?」
「たまたま」
(何だこの柄の悪い奴は)
男――ジュノスは、透真に視線を移した。
じっと見て、少し目を細める。
「君は?」
「透真です。説明が難しいんですけど、迷子で……」
「……へぇ、家は?」
「日本という国に……」
「あの、ここの国っていったいどこですか?」
ジュノスはしばらく黙った。
視線を宙に向け、何かを考えている。
その顔からは何も読み取れなかった。
(……なぜ返答が来ない)
(何か心当たりがあるのか……?)
(いや、あの反応は……知っているというより——)
「用事を思い出した〜」
「え、ちょっと——」
オリザの声を置いて、ジュノスは申し訳なさそうな顔で背を向けた。
人混みの中へ、するりと消えていく。
あっという間だった。
『知っている』ではなく、関わりたくないように見えた。
ああいうタイプの人間では、良くある反応だ。
「……あの人なんなんですか」
透真が聞くと、オリザは困ったように笑った。
「悪い人じゃないんですけど……」
「なんというか、その……昔からあんなというか……」
言葉を選びながら答えている辺り、本当に振り回されているのだろう。
透真は小さく息を吐いた。
拉致などの犯罪に巻き込まれた可能性がある以上、無駄に聞き込みをすれば再度巻き込まれる危険がある。
どうにかしてこの国がどこかと、帰り道を知りたいが……
近くにいる大人が、コレだもんなぁ……
市場の喧騒が耳に入る。
商品を売る声。
値切り交渉をする声。
子供の笑い声。
平和のように見える。平和のように見えているだけかもしれない。
そのどれもが自然で、不自然極まりなかった。
透真は果物へ目を向ける。
甘い香りが立っている。
(……まあ、今考えても仕方ないか)
情報が少なすぎる。
警察などを探して頼った方が何倍もマシだと思った。
その時だった。
「おーい」
さっき聞いた声だ。
振り向くと、ジュノスが割とすぐ戻ってきていた。
軽い足取りで歩いてくる。
ジュノスは透真を見て、軽い調子で口を開く。
「ついて来てもらおうかぁ」
「え?」
透真が聞き返すと、ジュノスは親指で後ろを指した。
言ってるそばから警察などの助けを借りられる、と思った。
だが違った。
「女王様のとこ」
「詮議を受けてもらわないと」
(詮議……)
透真の思考が止まる。
(詮議!?)
意味はわかる。
わかるが、理解はできない。
犯罪などを犯しただろうか。
どちらかと言えば巻き込まれた被害者だろう。
なぜ事情聴取とかではなく、詮議なのか。
「なんで俺が?」
思わず聞き返す。
「まぁいいからいいから」
「何が!」
軽い口調だった。
だが、その部分だけ妙に有無を言わせない響きがあった。
オリザが慌てて口を挟む。
「ジュノス、この人まだ怪我してて——」
「知ってる」
ジュノスは短く返した。
「でも会わせない訳にもいかねぇんだよ」
オリザは不安そうに透真を見る。
透真は少し考えた。
さっきから訳のわからない事しか起こっていない。
考えうる可能性としては、もう明晰夢ぐらいしかない。
理由も無く詮議を受ける事も、普通に生きていたら経験するわけがない。
夢……というのが妥当だろう。
そう夢だ、明晰夢なのだろう。
そして混乱と不安の中で、自分でも頭がおかしくなったのではと思った。
仮に夢で無いとして、警察を探そうにも身分証も何も無い。
文字すら読めない今の状況では、権力者の世話になる他安全策はない……か。
詮議にも、少し興味がある。受けてみよう。
「……わかりました」
そう答えると、ジュノスはニヤリと笑った。
「話が早くて助かるわ」
透真はゆっくり立ち上がる。
途端に全身へ鈍い痛みが走った。
「っ……」
膝が少し揺れる。
オリザが慌てて支えようとした。
「だ、大丈夫ですか!?」
「平気です」
嘘だった。こんな状況で大丈夫な訳が無い。
けれど癖で言ってしまった。
ジュノスはそんな透真を見て、少しだけ目を細めた。
「無理して倒れんなよ〜?」
冗談っぽく笑う。
透真は小さく眉を寄せた。
(コイツ……)
「し……心配なので私もついて行きます!」
三人は歩き出した。
石畳を踏むたびに、靴裏が固く乾いた音を返す。
大通りは多くの人で賑わい、一気に声が押し寄せてきた。
甘い香りや香ばしい香り、ジュージューと食欲をそそる芳醇な香りが鼻を刺してくる。
遠くでは高くそびえる時計塔が、陽光を指し示している。
街全体は暖かい色合いで統一されていて、白い壁が日差しを反射し目を照らす。
透真は歩きながら周囲を観察し続ける。
整備され、人も多く、活気がある。
人々は普通に暮らしている。
笑って、働いて、買い物をしている。
その光景は、自分の知る人間社会と何も変わらなかった。
「見えてきたぞ」
前方に巨大な門が現れた。
石造りの柱に、精緻な装飾。
その向こうに、威圧的な建物の輪郭が覗いている。
そこには山をそのままくり抜いたかのような、巨大な城があった。
見上げていると首を痛めそうだ。
透真は思わず足を止める。
「……デカ」
率直な感想が漏れる。
ジュノスが吹き出した。
「田舎者みてぇな反応だなぁ」
「いや普通に驚くだろう……」
オリザが少し誇らしそうに微笑む。
大阪城がまるごと収納出来そうな程の、巨大な城を前に改めて思う。
暇さえあれば調べ物をするのが好きだった俺が、この国を知らない訳がない。
夢……なのだろう。
そう信じざるを得なかった。
その方が今の彼にとってストレスが少なかった。
(詮議って……何をされるんだ)
わからない。
だが扉の向こうに、答えがある。
それだけは、なんとなく理解できた。
透真は小さく息を吐き、城門を見上げた。
続く




