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婚約破棄された弔い令嬢は、亡き王妃様の棺に白百合を置いただけでした――王家の罪が咲くとも知らずに

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/06/09

 

「その白百合、まさか本当に置くつもりですか?」


 ミレーナ様の声は、いつも通り優しかった。


 優しい声で、逃げ道を塞ぐ人なのだと思う。


 私は手の中の白百合を見下ろした。


 指先が冷たい。茎を握る力が強すぎたのか、花がかすかに震えている。


 違う。


 震えているのは花じゃない。


 私の手だ。


「ええ。オフィーリア王妃様への献花ですから」


「でも、エルシア様はつい先ほど、カイルロッド殿下から婚約を解かれたばかりでしょう? そんなお気持ちで王妃様の棺に近づくなんて……王妃様も、きっとお心を痛められますわ」


 周りの令嬢たちが、小さく息をのむのが分かった。


 違う。


 王妃様を利用しているのは私じゃない。


 そう言いたかった。


 でも、ここで声を荒らげたら、きっと私は「やっぱり不吉な女だった」と言われる。


 死者に触れる女。


 葬儀ばかりを任されるノクタリス家の娘。


 王太子に捨てられて当然の、暗くて冷たい女。


 私は何度も、そういう目で見られてきた。


 慣れている、と思っていた。


 でも、婚約者だった人の隣に別の女性が立って、その女性にまで優しく踏みつけられるのは、思っていたよりずっと痛い。


「私の気持ちで、王妃様への弔意が汚れるとは思いません」


 声が震えなくてよかった。


 それだけで、今夜の私はかなり頑張っている。


「まあ……」


 ミレーナ様は困ったように眉を下げた。


 その顔がとても綺麗で、私は少しだけ嫌になった。


 ミレーナ・ルクスフェリア様は、誰が見ても聖女らしい人だった。


 淡い蜂蜜色の髪を白いリボンでゆるく結い、葡萄石のような薄緑の瞳で、いつも人を安心させるように微笑む。


 光に愛されている人。


 誰もがそう言う。


 けれど私は、その柔らかさが少し苦手だった。


 触れたら包んでくれそうなのに、実際にはどこにも体温がない気がするから。


「エルシア、もういいだろう」


 カイルロッド殿下がため息をついた。


 そのため息を、私はよく知っている。


 私が何かを言うたびに、殿下はいつもそうやって、私の言葉を終わったものにしてきた。


「君のそういうところが、私は苦手だった。何を言われても平気な顔をして、正しさだけを選ぶ。可愛げがないんだ」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 可愛げ。


 その言葉ひとつで、今まで私が我慢してきたものが全部、つまらないものに変えられてしまう気がした。


 泣かなかったこと。


 怒鳴らなかったこと。


 オフィーリア王妃の追悼式を壊さないように、必死に息を整えていること。


 それは全部「()()()()()()」で終わるのか。


「殿下」


 私は顔を上げた。


 カイルロッド殿下は、少し驚いたように私を見た。


 きっと、私がまだ何か言うとは思っていなかったのだろう。


「私は今、あなたに可愛いと思われるために立っているのではありません」


 広間が静かになった。


 自分でも、少しだけ驚いた。


 でも一度出てしまった言葉は、もう戻らない。


「亡き王妃の前で、せめて恥ずかしくない人間でいたいだけです」


 カイルロッド殿下の顔が赤くなった。


 ミレーナ様の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


 しまった、と思った。


 言い返せたことが嬉しいのに、同じくらい怖い。


 この場には、私の味方なんていない。


 そう思った時だった。


「その通りだ」


 低い声が、広間の空気を変えた。


 振り向くより先に、誰かが私の隣に立った。


 黒い礼服の袖。


 銀のカフス。


 そして、私の手元に落ちる静かな視線。


 エルネスト・アステルレイン公爵。


 亡きオフィーリア王妃の弟君で、カイルロッド殿下の叔父にあたる方。


 この方だけは、いつも目が合うと困る。


 私が隠しているものまで、見えている気がするから。


「エルシア嬢は、今夜この広間で最も礼を尽くしている。婚約者を棺の前で辱めた男より、よほどな」


「叔父上、それは言い過ぎです。これは私とエルシアの問題であって、叔父上が口を挟まれることではありません」


「婚約者を亡き母の追悼式で捨て、別の女を隣に立たせ、さらにその女に元婚約者を責めさせた。そこまでしておいて、まだ二人だけの問題だと言えるのなら、お前は王太子である前に、一人の男として恥を知った方がいい」


 エルネスト様の声は荒くなかった。


 なのに、カイルロッド殿下は一歩も動けなくなった。


 私は白百合を持つ手に力を込めた。


 助けられた。


 そう思った瞬間に、涙が出そうになったから。


 やめてほしい。


 優しくされるなら、せめて二人きりの時にしてほしい。


 こんなに人がいる場所で優しくされたら、我慢していたものが壊れてしまう。


「公爵閣下」


 私は小さく息を吸った。


「ありがとうございます。でも、これは私がいただいた役目です。王妃様にお花を捧げたら、私はすぐに下がります」


「下がって、そのあとどうする」


「どう、とは……」


「一人で泣くのか?」


 言葉に詰まった。


 そんなことを、ここで聞かないでほしい。


 私が泣くと思っているのなら。


 泣く場所が必要だと、分かっているのなら。


 どうしてそんな声で言うの。


「……泣きません」


「では、泣けない場所に戻るつもりか」


 胸の奥が熱くなった。


 返事ができなかった。


 エルネスト様は、私の沈黙を責めなかった。


 ただ、私の手元に視線を落とした。


「その白百合を、私にも持たせてくれ」


「え?」


「姉上の棺に花を捧げるのだろう。ならば、弟である私が隣にいてもおかしくはない」


「ですが、私と一緒に歩けば、公爵閣下まで変な噂をされます」


「もうされている」


 あまりにも平然と言うので、思わず顔を上げてしまった。


 エルネスト様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「私は長年、冷血公爵だの、王宮の影だの、亡霊の弟だのと呼ばれてきた。今さら君と歩いたくらいで傷つく名声など持っていない」


「……それは、自慢することではないと思います」


「君が少しでも笑うなら、自慢した甲斐がある」


 そんなことを言われたら、困る。


 本当に困る。


 こんな場所で、こんな夜に、少しだけ笑ってしまいそうになる自分が嫌になる。


 カイルロッド殿下に婚約破棄されたばかりなのに。


 皆に見られているのに。


 王妃様の棺の前なのに。


 それでも、エルネスト様の隣は、息がしやすかった。


「公爵閣下は、ずるいです」


「そうかもしれない。君が一人で歩くと言うのなら、私はどんな理由でも並べるつもりだった」


「どうしてそこまで……」


 聞いてから、後悔した。


 エルネスト様の目が、ひどく真剣だったから。


「君を一人で歩かせたら、私は今夜の自分を一生許せなくなる」


「大げさです」


「大げさならよかった」


 その言い方が、少しだけ苦しそうに聞こえた。


 私は何も言えなくなった。


 白百合を持つ私の手に、エルネスト様の手が重なった。


 奪うような触れ方ではなかった。


 逃がさない、というより、崩れた時に支えるための手だった。


 それが分かったから、余計に胸が苦しくなった。


「行こう、エルシア嬢」


 彼は私を急かさなかった。


 でも、私が歩き出せるまで、ずっと隣にいてくれた。


 だから私は、棺へ向かった。


 亡きオフィーリア王妃様のために。


 そして、私を不吉な女として終わらせようとした人たちの前で、最後まで私のままでいるために。


 大広間の中央には、白い布で覆われた棺が置かれていた。


 オフィーリア王妃が亡くなられてから、もう十年になる。


 今日の式は、本来なら静かな追悼の場になるはずだった。


 亡き王妃を慕った人たちが花を捧げ、王家が悲しみを新たにし、そして次代へ進む。


 そんな夜になるはずだった。


 なのに、私はその棺の前で婚約を破棄された。


 王太子殿下は言った。


 自分は真実の愛を見つけたのだと。


 私のような死者に関わる女ではなく、命を祝福する聖女こそが隣にふさわしいのだと。


 その言葉を聞いた時、私は怒るより先に、少しだけ安心してしまった。


 ああ、もう終わるのだ。


 この人の隣で、息を殺して笑わなくてもいいのだ。


 そう思ってしまった自分がいて、そのことが一番悲しかった。


 棺の四隅には、王家の真実印が刻まれている。


 王族の葬儀でだけ用いられる古い封印で、死者の眠りを乱す偽りの魔法を退けるものだと聞いていた。


 今夜、この棺の前で嘘をつく者などいない。


 そう信じられていた。


 少なくとも、私はそう思っていた。


「エルシア嬢」


 隣から、エルネスト様の声がした。


「無理をするな。花を置くのがつらいなら、私が代わる」


「いいえ。これは、私が置きます」


 私は白百合を両手で持ち直した。


「王妃様は、生前、私に一度だけ声をかけてくださったんです」


 エルネスト様が、少しだけ目を細めた。


「姉上が?」


「はい。私がまだ幼くて、ノクタリス家の力を怖がっていた頃です。王妃様は、私の手を見ておっしゃいました。冷たい手ね、でもそれはきっと、誰かの痛みに触れすぎた手なのね、と」


 今でも覚えている。


 あの時、私は泣かなかった。


 でも、王妃様が去ったあと、隠れて少しだけ泣いた。


 死者に触れる私の手を、気味悪がらなかった人は少なかったから。


「だから、私が置きたいんです。最後まで」


 エルネスト様は何も言わなかった。


 代わりに、私の手からそっと手を離した。


 支えを失ったはずなのに、不思議と怖くなかった。


 私は棺の前に膝をつき、白百合を置いた。


「オフィーリア王妃様。遅くなってしまい、申し訳ありません」


 白百合の花びらが、棺の上に触れた。


 その瞬間。


 白かった花が、ゆっくりと色を変えた。


 花びらの端から黒が滲み、茎を伝い、花全体を染めていく。


 まるで夜が咲いたようだった。


 広間の誰かが悲鳴を上げた。


「な、何だ、これは……!」


 カイルロッド殿下の声が裏返った。


 ミレーナ様が口元を押さえる。


 その仕草は綺麗だったけれど、目だけは笑っていなかった。


「エルシア様、これは何ですの? 王妃様の棺に、こんな不吉な花を咲かせるなんて……」


「私が咲かせたのではありません」


 声が、思ったより静かに出た。


 怖くないわけじゃない。


 でも、今度は震えなかった。


「白百合に触れたのは、王妃様の未練です」


 広間がざわめいた。


 ノクタリス家の力を、皆が知らないわけではない。


 けれど、王宮の真ん中でそれを目にするのは初めての者がほとんどだった。


 ノクタリス家は、死者を送る家だ。


 葬儀の作法を整え、遺品を清め、残された者が前に進むための儀式を行う。


 そして私だけは、死者が最後に抱いた未練を、花として見ることができる。


 前世、と呼ぶにはぼんやりしすぎた記憶がある。


 はっきり覚えているわけではない。


 でも、白い部屋の静けさや、骨を拾う人たちの震える手だけは覚えている。


 死んだ人の前で、誰も声を荒げず、最後まで丁寧に見送る場所。


 前の世界の私は、たぶん、死者を送る場所の近くにいた。


 だからだろうか。


 この世界に生まれて、死者の未練が花になると知った時、私はずっと思っていた。


 死者を、生きている人間の怒りを満たす道具にしてはいけない。


 だから私は、この力をむやみに使わなかった。


 使いたくなかった。


 でも今、王妃様の棺の上で咲いた黒い花を見て、分かってしまった。


 これは、悲しみだけの花ではない。


 これは、毒の花だ。


「エルシア」


 カイルロッド殿下が、ひどく不機嫌そうに私を見た。


「母上の追悼式を、これ以上穢すつもりか。君が私に捨てられて悔しいのは分かる。だが、亡き母まで巻き込むのは見苦しい」


 胸がずきりとした。


 さっきまで婚約者だった人は、私を一度も信じようとしない。


 もう傷つかないと思っていたのに、やっぱり少し痛かった。


 けれど私が言葉を返すより先に、エルネスト様が一歩前へ出た。


「カイルロッド。今の言葉を、もう一度言ってみろ」


「叔父上?」


「死者を穢しているのは誰だ。姉上の棺の前で婚約者を辱めたお前か。花を捧げた彼女か。大広間にいる全員の前で、もう一度よく考えてから口を開け」


 カイルロッド殿下は唇を噛んだ。


 私は黒く染まった白百合を見つめた。


 この花が何を意味するのか、本当は言いたくなかった。


 王妃様の死を、人前で暴くことになる。


 でも。


 王妃様は、十年もこの黒い花を抱えて眠っていたのだ。


 それをまた、見なかったことにしていいのだろうか。


「公爵閣下」


 私はエルネスト様を見上げた。


「この花は、毒の未練です。王妃様は病で亡くなられたのではありません。誰かが、王妃様の命を奪いました」


 広間が一気に揺れた。


 叫ぶ者、息をのむ者、椅子を倒す者。


 カイルロッド殿下は、血の気の引いた顔で棺を見た。


「馬鹿な……母上は、長い病で亡くなったと……」


「そう聞かされていたのだろうな」


 エルネスト様の声は、静かすぎるほど静かだった。


「私もそう聞かされた。だが、病にしては不自然なことが多すぎた。姉上の侍女たちは次々に遠ざけられ、侍医は急に領地へ戻り、最期の夜だけ、私も面会を禁じられた」


「なら、なぜ今まで黙っていたのです!」


 カイルロッド殿下が叫んだ。


「証拠がなかったからだ!」


 初めて、エルネスト様の声が荒くなった。


 その一言に、広間の空気が凍った。


 エルネスト様はすぐに息を整えたが、握った拳だけは震えていた。


「姉上の死を疑っていた。だが、疑いだけで王家を割るわけにはいかなかった。私が軽率に動けば、姉上の名を政争に使うことになる。だから十年、探し続けた」


 エルネスト様は私を見た。


 その目に、怒りと悔しさと、言葉にできない痛みがあった。


「君が今夜、この花を咲かせてくれなければ、私はまだ何年も、姉上の棺の前で何もできなかった」


 やめて。


 そんな顔をしないでほしい。


 私が泣きたくなる。


「エルネスト様、私は……」


「君は姉上を晒したのではない。十年閉じ込められていた声を、外に出してくれた」


 その言葉で、私は少しだけ息ができた。


 ミレーナ様が、柔らかく手を合わせた。


「皆様、どうか落ち着いてくださいませ。エルシア様のお力が珍しいことは存じております。でも、それが本当に王妃様の未練なのか、誰に分かるのでしょう? 傷ついた心は、時に見たいものを見せると言いますわ。エルシア様は今、殿下に婚約を解かれ、とてもおつらい状態ですもの」


 上手い。


 本当に上手い。


 私を責めているのに、私を心配しているように聞こえる。


 周囲の人たちも、少しずつ迷い始めているのが分かった。


 私は悔しくて、白百合を見つめた。


 私の言葉だけでは足りない。


 死者の未練は本物でも、生きている人たちは都合のいい方を信じたがる。


「ミレーナ嬢」


 エルネスト様が、ゆっくりと彼女を見た。


「君は命を祝福する聖女なのだったな」


「はい。まだ未熟ではございますが、神殿からも癒やしの加護を認めていただいております」


「ならば、姉上の棺の前で祈ってみろ」


 ミレーナ様の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。


「私が、ですか?」


「ああ。君が真に命を祝福する者なら、死者の無念に祈りを捧げることを嫌がる理由はないだろう」


「もちろん、嫌がることなどございません。ただ、今はエルシア様のお力が強く出ているようですし、私が不用意に近づけば、かえって儀式を乱してしまうかもしれませんわ」


「乱れるかどうかは、こちらで見る」


 エルネスト様は視線を横へ向けた。


 白髪の宮廷魔導師長が、硬い顔で頷いた。


「オフィーリア王妃の棺には、王家の真実印が施されております。虚偽の魔法、偽装、変質は本来なら弾かれるはずです。聖女殿の祈りが本物の癒やしであれば、何も問題は起こりません」


 ミレーナ様の瞳が、一瞬だけ暗くなった。


 葡萄石のような薄緑の奥に、冷たいものが沈む。


 ああ、と思った。


 この人は今、困っているのではない。


 計算している。


 ミレーナ様は、一瞬だけ私ではなく黒い白百合を見た。


 その目に浮かんだのは恐れではなく、冷たい自信だった。


 きっと、消せると思ったのだ。


 今までそうしてきたように。


「分かりました」


 ミレーナ様は、ふわりと微笑んだ。


「王妃様の魂が少しでも安らぐのなら、私も祈らせていただきます」


 彼女が棺に近づく。


 白いドレスの裾が、広間の灯りを受けて淡く光る。


 誰かが「やはり聖女様はお優しい」と呟いた。


 カイルロッド殿下は、すがるようにミレーナ様を見ていた。


 ミレーナ様が棺の前で膝をつく。


 細い指が組まれ、唇が祈りの形に動いた。


 淡い光が、彼女の手のひらから溢れる。


 白い光。


 清らかで、柔らかくて、見る者を安心させる光。


 その光が、黒い白百合に触れた。


 次の瞬間。


 黒い花が、白くなった。


 広間に安堵の声が広がった。


「ほら、見たことか!」


 カイルロッド殿下が勢いづいた。


「ミレーナの祈りで、不吉な花が清められた。やはりエルシアの力が、母上の棺を汚していただけではないか!」


 私は唇を噛んだ。


 違う。


 今のは清めたのではない。


 私は見てしまった。


 白い光が黒い花を癒やしたのではなく、上から塗りつぶしただけだ。


 綺麗な布で、腐ったものを覆うように。


「違います」


 私が言うと、カイルロッド殿下は苛立ったように眉を寄せた。


「まだ言うのか。君はどこまでミレーナを貶めれば気が済む」


「貶めたいわけではありません。今の光は、癒やしではありませんでした」


「君がそう言っているだけだろう」


「そうです。だから、皆様にも見えるようにします」


 私は白百合に手を伸ばした。


 エルネスト様が、低く私の名を呼ぶ。


「エルシア、無理をするな」


「無理はします」


 私は振り返らずに答えた。


「でも、倒れる時は支えてくださるのでしょう?」


 言ってから、こんな時に何を言っているのだろうと思った。


 けれどエルネスト様は、少しだけ息をのんで、それから低く笑った。


「ああ。何度でも」


 その返事だけで、怖さが半分になった。


 私は棺の上の白百合に触れた。


 冷たい花びらの下で、黒い毒花がまだ生きている。


「王妃様」


 私は目を閉じた。


「あなたの眠りを、もう一度騒がせてしまいます。でも、今夜だけはお許しください。あなたの死を隠したものを、あなたの名で暴くのではありません。あなたを、もう一度きちんと弔うために」


 花びらの奥で、何かがほどける感覚がした。


 白く塗られていた花が、音もなくひび割れた。


 そこから黒い花びらが覗く。


 一枚。


 また一枚。


 そして黒い花は、今度は棺の上だけでなく、床へ、階段へ、広間の中央へと蔓を伸ばしていった。


 悲鳴が上がる。


 黒い蔓は誰にも触れない。


 けれど、まっすぐに伸びていく。


 ミレーナ様の足元へ。


 彼女の白い靴の前で、黒い花が咲いた。


「ひっ……!」


 ミレーナ様が後ずさる。


 すると今度は、彼女の手首につけられた銀の腕輪から、白い光が漏れた。


 それはさっきの祈りと同じ光だった。


 黒い花を白く塗りつぶそうとする光。


 けれど今度は、花の方が強かった。


 黒い花びらが白い光をはじき、薄い緑の火花が散る。


 宮廷魔導師長が目を見開いた。


「これは……癒やしの聖光ではない。隠蔽術式だ。しかも死の痕跡に反応して発動するよう組まれている」


 広間が凍りついた。


 ミレーナ様の顔から、初めて笑顔が消えた。


「ち、違います。これは、私を守るための護符ですわ。神殿から授かったもので、私自身にも詳しいことは……」


「神殿の術式ではない」


 魔導師長が厳しい声で言った。


「これはルクスフェリア侯爵家の旧式紋だ。医療魔法ではなく、証拠隠滅に近い。死臭、毒、血痕、呪痕を白く覆い隠すためのものだ」


「やめてください!」


 ミレーナ様の声が鋭くなった。


 その瞬間、周囲の貴族たちが一歩引いた。


 たぶん、初めて聞いたのだ。


 聖女の声ではない、ミレーナ様自身の声を。


「私は何も知りません! 王妃様のことだって、私はまだ子供でしたわ。そんな昔のことを、私に押しつけないでください!」


「君が子供だったことは、王妃の死に直接関わっていない証明にはなるかもしれない」


 エルネスト様が静かに言った。


「だが、今ここで死の痕跡を隠そうとしたことの説明にはならない」


「私は殿下を守りたかっただけです!」


 ミレーナ様はカイルロッド殿下に縋るように振り向いた。


「殿下、信じてくださいませ。私は、殿下がまたお母様の死で苦しまないようにしたかっただけです。エルシア様は殿下を傷つけようとしているのです。だって、婚約を解かれたばかりで、悔しくないはずがありませんもの!」


 カイルロッド殿下は揺れていた。


 ミレーナ様を信じたいのだと思う。


 信じなければ、自分が何をしてきたのか、見なくてはいけなくなるから。


 私は、もう怒っていいのか、悲しんでいいのか分からなかった。


「殿下」


 私はカイルロッド殿下を見た。


「私は、悔しいです」


 彼は驚いたように私を見た。


「殿下に選ばれなかったことではありません。王妃様の棺の前で、私が悲しむことすら許されなかったことが悔しいです。あなたは私を好きではなかったかもしれません。でも、私は何年も、あなたの婚約者として恥ずかしくないように努力してきました。それを、こんなふうに扱われて、平気なわけがありません」


 言いながら、胸が痛かった。


 好きだったのかもしれない。


 恋ではなかったとしても、少なくとも私は、この人とちゃんと家族になる努力をしていた。


 それを全部、可愛げがないと言われた。


「エルシア……」


 カイルロッド殿下が私の名を呼んだ。


 さっきまでとは違う声だった。


 でも、遅い。


 私は彼の隣に戻りたいわけではない。


 彼に選び直されたいわけでもない。


 ただ、私が傷ついたことを、なかったことにされたくなかった。


 その時、棺から伸びた黒い蔓が、カイルロッド殿下の足元にも届いた。


 黒ではない。


 金色の蔓だった。


 彼の胸元で、小さな花が咲く。


 金色の花びらに、薄い白い膜がかかっている。


 まるで、誰かが本当の色を隠しているようだった。


「これは……?」


 カイルロッド殿下が自分の胸を押さえた。


 魔導師長が近づき、青ざめる。


「精神干渉の痕跡です。かなり長期間にわたり、感情の誘導を受けておられる」


「そんな……」


 カイルロッド殿下の声が震えた。


 ミレーナ様が唇を噛む。


 その顔を見て、広間の人々は一斉に悟った。


 カイルロッド殿下は、ミレーナ様を愛するように仕向けられていた。


 そして私を疎むように。


「ミレーナ……君が、私に……?」


「違います、違うんです!」


 ミレーナ様は首を振った。


 蜂蜜色の髪が乱れ、白いリボンがほどける。


「最初は少しだけでした! 殿下が私を見てくださらなかったから、ほんの少し、私の方を向いていただきたかっただけです。それに、殿下は苦しんでいらしたんです。エルシア様のような冷たい方と婚約して、いつも息苦しそうで……私は殿下を救いたかっただけですわ!」


「私を救うために、私の心を触ったのか」


 カイルロッド殿下の声は、今にも崩れそうだった。


「君を愛していると思っていた。この気持ちは、私のものだと思っていた。それさえ、君が作ったものだったのか」


「作っただなんて、そんな言い方……! 私は殿下に幸せになってほしかったんです!」


「幸せ?」


 カイルロッド殿下は、乾いた声で笑った。


「私は、母上の棺の前で、自分の婚約者を辱めた。母上の死の真実から目を背け、叔父上を疑い、エルシアを傷つけた。それを幸せと呼ぶのか」


 彼は膝をついた。


 王太子が、人前で崩れ落ちる。


 ざわめきが広がった。


 けれど、エルネスト様は容赦しなかった。


「カイルロッド。操られていたことは、調べる必要がある。お前が被害者である部分もあるだろう」


 カイルロッド殿下が、すがるように顔を上げる。


 でもエルネスト様の声は冷たかった。


「だが、彼女を傷つける言葉を選んだのはお前だ。魔法で誘導されていたとしても、あの場で彼女の尊厳を踏みにじることを許したのは、お前自身だ」


 カイルロッド殿下は、何も言えなかった。


 私も何も言えなかった。


 その言葉を、私はずっと聞きたかったのかもしれない。


 操られていたから仕方ない。


 騙されていたから悪くない。


 そう片づけられたら、私はどこに傷を置けばよかったのだろう。


 エルネスト様は、それを分かってくれた。


 それだけで、胸の奥がほどけていく。


「衛兵」


 エルネスト様が声を上げた。


「ミレーナ・ルクスフェリアを拘束しろ。腕輪を外すな。術式の証拠として封印する」


「嫌……」


 ミレーナ様は、一歩後ずさった。


 その顔からは、もう聖女の微笑みが消えていた。


 けれど、泣き崩れたわけではなかった。


 葡萄石のような瞳の奥で、まだ何かが動いている。


 この人は、諦めていない。


 そう気づいた時には、ミレーナ様が腕輪を強く握りしめていた。


「どうして、私だけが裁かれるのですか」


 震える声だった。


 でも、それは怯えではなかった。


「死者の言葉なんて、生きている者が好きなように飾れるでしょう? だったら、私も飾ってあげますわ。エルシア様。あなたに一番似合う花を」


 銀の腕輪が、嫌な音を立てた。


 白い光が一気に溢れ、床に広がっていた黒い蔓を飲み込んでいく。


 清らかに見える光だった。


 けれど今の私には分かった。


 あれは癒やしではない。


 死を隠す光。


 罪の形を、別の誰かへ塗り替える光だ。


「エルシア、下がれ!」


 エルネスト様の声が飛んだ。


 けれど、光の方が早かった。


 黒い毒花の蔓が、白く塗り替えられながら私の足元へ伸びてくる。


 まるで、王妃様の未練そのものが私を責めているように見せるために。


「見てくださいませ!」


 ミレーナ様が叫んだ。


「毒花はエルシア様のもとへ戻っていますわ! やはり、王妃様の棺を穢したのはこの方です! 死者の声などと偽って、王家を乱そうとしたのです!」


 広間が揺れた。


 違う。


 そう言おうとしたのに、喉が詰まった。


 白い光が足首に絡みつく。


 冷たい。


 まるで、濡れた布で口を塞がれるような感覚だった。


 私の言葉まで、塗りつぶされていく。


「エルシア!」


 エルネスト様がこちらへ踏み出す。


 だが、その前に別の人影が動いた。


 カイルロッド殿下だった。


 彼は床に膝をついたまま、私の前へ手を伸ばした。


 王太子としてではない。


 傷つけた相手の前に、ようやく自分の意思で立とうとする一人の男として。


「やめろ、ミレーナ……!」


 その声は、震えていた。


 それでも、逃げなかった。


「これ以上、彼女に罪を着せるな!」


「殿下、どうして……!」


「私はもう、君の言葉を信じることで自分を守りたくない」


 カイルロッド殿下は、私の足元へ伸びていた白い蔓を掴んだ。


 その瞬間、彼の胸元に咲いていた金色の花が強く光った。


 薄い白い膜が、音を立てて裂ける。


 ミレーナ様の術式が、はじけた。


「ひっ……!? いやあああっ!!」


 白い光が砕け、黒い毒花が本来の行き先を思い出したように向きを変える。


 今度は迷わず、ミレーナ様の腕輪へ絡みついた。


 銀の腕輪に、黒い花が咲く。


 清らかな白の下に隠されていたものが、広間中の前で剥がれていく。


 毒。


 血痕。


 呪痕。


 十年分の隠蔽の跡。


 花びらの一枚一枚に、ミレーナ様とルクスフェリア家が覆い隠してきた罪が浮かび上がった。


「違う、違うの! 私はただ、選ばれたかっただけなのに!」


「選ばれたいから、誰かの死を隠したのですか」


 私は、絡みついていた冷たさが消えた足元を見下ろし、それからミレーナ様を見た。


 声は震えなかった。


「選ばれたいから、人の心を塗り替えたのですか。選ばれたいから、王妃様の最後の声まで、私の罪にしようとしたのですか」


 ミレーナ様の唇が震えた。


 今度こそ、言葉が出てこないようだった。


 エルネスト様が私の隣に立つ。


 彼の手が、私の背中にそっと触れた。


 支えるための手だった。


 でも今度は、私が倒れないことを信じてくれている手でもあった。


「ミレーナ・ルクスフェリア」


 エルネスト様の声が、広間を貫いた。


「君は今、王妃の棺の前で、王妃の未練を偽造し、エルシア・ノクタリスに罪を着せようとした。これ以上の証拠はない」


 ミレーナ様の腕から、黒い花に覆われた腕輪が外れる。


 床に落ちた瞬間、銀は真っ黒に変色した。


 衛兵たちが彼女を取り押さえる。


 ミレーナ様は、もう叫ばなかった。


 ただ、光を失った瞳で私を見ていた。


「……どうして」


 かすれた声だった。


「どうして、あなたばかり」


「私ばかりではありません」


 私は静かに答えた。


「私は今夜、婚約も、名誉も、信じていたものも失いました。でも、それでも誰かの痛みを別の誰かに押しつける人にはなりたくない。それだけです」


 ミレーナ様は何か言おうとした。


 けれど、衛兵たちはもう彼女の腕を離さなかった。


 彼女に「聖女様」と囁いていた令嬢たちは、誰一人として手を伸ばさなかった。


 ミレーナ様はそこで初めて、自分が愛されていたのではなく、光って見える場所に置かれていただけなのだと気づいたようだった。


 それでも彼女は、最後まで綺麗だった。


 だからこそ、怖かった。


 綺麗なものが、優しいとは限らない。


 美しいものが、正しいとは限らない。


 そのことを、私は今夜はっきり知った。


 その時、広間の奥に控えていたルクスフェリア侯爵が動いた。


 彼は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。


「待て! 娘は何も知らん! これはノクタリス家の陰謀だ。死者の名を騙り、王家を乱そうとしているのだ!」


 彼の声に合わせるように、数人の貴族がざわめいた。


 おそらく、ルクスフェリア家と繋がりのある者たちだ。


 しかし、黒い蔓はすでに広間を進んでいた。


 ルクスフェリア侯爵の足元に、黒い花が咲く。


 さらにその隣、グランヴェル宰相の靴先にも。


 宰相は、顔色ひとつ変えなかった。


 けれど、額に汗が浮いている。


 魔導師長が息をのんだ。


「毒の花が、二人の足元に……」


 エルネスト様の目が鋭くなる。


「十年前、姉上の侍医を領地へ戻したのは誰だった」


 宰相は答えない。


 エルネスト様は続けた。


「姉上の侍女たちを別宮へ移したのは誰だった。カイルロッドの教育係をルクスフェリア家の推薦に替えたのは誰だった。神殿にミレーナ嬢を聖女候補として押し込んだのは誰だった」


「公爵閣下、それ以上は王国の秩序を乱す発言ですぞ」


 宰相は低い声で言った。


 けれど、もう遅かった。


 棺の上の黒い白百合が、大きく開いた。


 黒い花びらの内側に、白い文字が浮かぶ。


 王妃様の未練が、花の形を越えて、言葉になっていく。


 広間中が、その文字を見た。


 ――カイルを守って。


 ――あの子の心に、私を殺した者たちの手が伸びている。


 ――エルネスト、気づいて。


 その最後の文字を見た瞬間、エルネスト様の顔が歪んだ。


 ほんの一瞬だった。


 けれど私は、見てしまった。


 冷血公爵と呼ばれる人が、泣く寸前の顔をしたところを。


「姉上……」


 その声は、あまりにも小さかった。


 私だけが聞いたのかもしれない。


 胸が痛くて、たまらなかった。


 私は何も考えず、そっとエルネスト様の袖を掴んだ。


 彼が私を見る。


「すみません」


 私は小さく言った。


「今度は、私が支えたくなりました」


 エルネスト様は目を見開いた。


 それから、困ったように笑った。


「君は本当に、こういう時に逃げてくれないな」


「逃げたい時はあります。でも今ではありません」


「そうか」


 彼はほんの少しだけ、私の手に自分の手を重ねた。


 周りには、まだ人がいる。


 ミレーナ様は連れ出され、カイルロッド殿下は膝をついたまま動けず、宰相は逃げ道を探している。


 こんな状況で、何をしているのだろう。


 でも、その一瞬だけ、私たちの間には静かな場所があった。


 エルネスト様はすぐに顔を上げた。


「王妃オフィーリアの死には、毒殺の疑いがある。王家の真実印が反応し、ノクタリス家の弔花がその痕跡を示した。さらに王太子への精神干渉、聖女候補による死の痕跡の隠蔽術式、ルクスフェリア侯爵家およびグランヴェル宰相の関与が確認された」


 彼の声は、広間の隅まで届いた。


「この場にいる王国貴族全員が証人だ。異議がある者は、今ここで王妃の棺に手を置いて発言しろ。虚偽を述べれば、王家の真実印が反応する」


 誰も動かなかった。


 当然だった。


 今さら、王妃様の棺の前で嘘をつける者などいない。


 宰相が歯を食いしばる。


 ルクスフェリア侯爵は膝から崩れ落ちた。


 カイルロッド殿下が、私を見上げた。


「エルシア」


 彼はひどく疲れた顔をしていた。


「すまなかった」


 その謝罪を、私はずっと欲しかったのかもしれない。


 でも、いざ受け取ってみると、胸の中は思ったより静かだった。


「殿下」


 私は膝を折り、彼と目線を合わせた。


 周囲がざわめいたけれど、気にしなかった。


「私は、あなたを許す準備がまだできていません」


 カイルロッド殿下の目が揺れる。


「でも、謝ってくださったことは受け取ります。いつか、あなた自身の言葉で、王妃様にも謝ってください。私ではなく、まず王妃様に」


「……ああ」


 彼は両手で顔を覆った。


 王太子としての威厳も、華やかさも、そこにはなかった。


 ただ、自分が失ったものにようやく気づいた一人の男がいた。


 私は立ち上がった。


 エルネスト様が当然のように手を差し出してくれる。


 その手を取ると、広間の空気がまた揺れた。


 でも今度は、怖くなかった。


「疲れただろう」


 エルネスト様が低く言う。


「少しだけ」


「少しだけ、という顔ではないが?」


「公爵閣下こそ、先ほどからずっと怖い顔です」


「怖い顔にもなる。君が今にも倒れそうな顔で立ち続けるからだ」


「倒れません」


「そういうところだぞ」


 呆れたような声だった。


 けれど、優しかった。


「エルシア。君は強いが、強いことと一人で立つことは同じではない」


 その言葉に、胸が詰まった。


 私は強いと言われるのが苦手だ。


 強いと言われると、もう泣けなくなるから。


 でもエルネスト様の言い方は違った。


 強いから一人で大丈夫、ではなく。


 強い君でも、支えられていい、と言ってくれている気がした。


「……今、そういうことを言われると困ります」


「困らせるつもりで言っている」


「ひどい方ですね」


「君を一人で泣かせるよりは、ひどい男でいたい」


 どうしてこの人は、こんなにまっすぐ刺してくるのだろう。


 ミレーナ様の言葉は、柔らかい布に包まれた刃物だった。


 でもエルネスト様の言葉は違う。


 痛いところに触れるのに、そこを傷つけるためではなく、ちゃんと見つけるために触れてくる。


 私は目を伏せた。


「今夜だけは、少しだけ甘えてもいいですか?」


 言ってから、顔が熱くなった。


 自分で言っておいて、恥ずかしい。


 エルネスト様は黙った。


「申し訳ありません。こんな事を言って……はしたない女だとお思いなのでしょうね」


 不安になって見上げると、彼は手で口元を覆っていた。


「公爵閣下?」


「すまない」


「何がですか?」


「今、王家の断罪より優先したいことができた」


「ゆ、優先しないでください!」


「分かっている。分かっているが、君はもう少し、自分の言葉の威力を知った方がいい」


 さっきまで張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。


 私はとうとう、小さく笑ってしまった。


 それを見たエルネスト様の表情が、ほんのわずかにほどける。


 その顔を見て、胸がまたおかしくなった。


 ああ、駄目だ。


 この人の前にいると、私は強がりきれなくなる。


 それが怖いのに、嫌ではなかった。



 ◇◆◇



 その夜、追悼式は断罪の場に変わった。


 ルクスフェリア侯爵家とグランヴェル宰相の屋敷には即座に王宮騎士が向かい、関係書類と魔術具が押収された。


 ミレーナ様の腕輪からは、死の痕跡を覆い隠す術式だけでなく、精神干渉の補助紋も見つかった。


 神殿は彼女の聖女認定を取り消し、関与した神官たちは拘束された。


 カイルロッド殿下は王太子位を退くことになった。


 彼が受けた精神干渉については治療が必要とされたが、婚約破棄と私への侮辱、王妃様の追悼式を私情で壊した責任は別に問われることになった。


 すべてが一夜で終わったわけではない。


 でも、すべてが動き出した。


 そして夜明け前。


 私は王宮の中庭にいた。


 広間の熱気から離れたくて、少しだけ外へ出たのだ。


 空はまだ暗い。


 けれど東の端だけが、ほんの少し白んでいる。


 白百合の咲く中庭は、夜露でしっとりと濡れていた。


 私はベンチに座り、自分の手を見つめた。


 この手は、いつも冷たい。


 死者に触れる手だからだと、昔から言われてきた。


 でも今夜、エルネスト様はこの手を取った。


 不吉だと言わずに。


 汚れているとも言わずに。


 何度も。


「ここにいたのか」


 振り向くと、エルネスト様が立っていた。


 黒い礼服のままなのに、少しだけ疲れて見えた。


 当然だ。


 姉の死の真実を知った夜なのだから。


「すみません。勝手に出てきてしまって」


「謝ることではない。君がどこかで倒れていないか、私が勝手に心配しただけだ」


「倒れません」


「その言葉は、今夜だけで三度聞いた」


「では、四度目は言わないようにします」


「そうしてくれ。代わりに、疲れたと言ってくれると助かる」


 私は少し迷ってから、息を吐いた。


「……とても、疲れました」


「よく言えた」


 子供に言うみたいな声だった。


 なのに、嫌ではなかった。


 むしろその一言で、肩から力が抜けた。


 エルネスト様は私の隣に座った。


 近すぎない。


 でも、遠くもない。


 その距離が、この人らしかった。


「王妃様は、怒っていらっしゃるでしょうか」


「姉上が?」


「私は結局、王妃様の死を人前に晒してしまいました。弔うためだと言いながら、たくさんの人の前で、王妃様の最後の痛みを花にしてしまった」


 ずっと胸に引っかかっていた。


 間違っていなかったと思いたい。


 でも、正しかったと言い切るには、まだ苦しかった。


 エルネスト様は少し黙ったあと、静かに言った。


「姉上は怒っていないと思う」


「どうして分かるのですか?」


「姉上は、怒る時はもっと怖い」


 思わず顔を上げた。


 エルネスト様は真面目な顔で続ける。


「昔、私が王宮の池に落ちた時、姉上は泣くより先に私を叱った。助かったからよかったものの、あなたが死んだら私がどれほど怒ると思っているの、と。泣きながら怒るから、余計に怖かった」


「王妃様が……」


「そういう人だった。優しいだけの人ではなかった。大切な者が傷つけられることを、何より嫌う人だった」


 エルネスト様は、白み始めた空を見上げた。


「だから、君が自分を責める必要はない。君は姉上を晒したんじゃない。十年も閉じ込められていた声を、外に出してくれた。私は、感謝している」


 胸が熱くなった。


「感謝されるようなことでは……」


「君はすぐそう言うな」


「そうでしょうか」


「そうだ。君は自分が傷ついたことも、誰かのためなら小さく見積もる。だが今夜、君は婚約を失い、名誉を傷つけられ、死者の声まで背負った。つらかったと言っていい」


 私は膝の上で手を握った。


 つらかった。


 その一言を認めたら、泣いてしまいそうだった。


「私は、ちゃんと立てていましたか?」


「誰よりも」


「可愛げは……ありませんでしたか?」


 言ってから、情けない質問だと思った。


 でも、どうしても気になってしまった。


 エルネスト様は私を見た。


 その目があまりに真剣で、私は逃げたくなった。


「カイルロッドが言った意味なら、なくていい」


「そこまできっぱり言われると、それはそれで少し傷つきます」


「違う。君を、都合よく笑ってくれるだけの女に変えたいとは思わないという意味だ」


 心臓が、変な音を立てた。


「ただ、君が気を許した相手の前で、疲れたと寄りかかってくれるなら、私はきっと可愛いと思う」


「……そういうことを今言うのは、ずるいです」


「二度目だな」


「二度では足りないくらいです」


「なら、これから何度でも言われる覚悟をしておく」


「これから?」


 私が聞き返すと、エルネスト様はすぐには答えなかった。


 白み始めた空へ視線を向け、それから、私の手元へ目を落とす。


「見ているだけのつもりだった」


「え?」


「君はカイルロッドの婚約者で、私はその叔父だ。君に何かを望むことなど、許されるはずがない。だから私は、姉上が気にかけていた令嬢を見守っているだけだと、自分に言い聞かせていた」


 胸の奥が、静かに跳ねた。


 嬉しいと思うより先に、困ったと思った。


 今夜の私は、もういろいろなことが起こりすぎている。


 これ以上、心を揺らされたら、どこに立っていればいいのか分からなくなる。


「ですが、それは……」


「ああ。言い訳だったのだろうな」


 エルネスト様は、困ったように笑った。


「君が王宮でどれほど気を張っていたか、私は知っていた。カイルロッドの隣で笑っていても、君はいつも少しだけ息を詰めていた。死者に触れる令嬢だと遠巻きにされても、怒らず、泣かず、ただ礼を尽くしていた」


 私は何も返せなかった。


 そんなところまで見られていたなんて、知らなかった。


 知っていたら、もっと上手に隠したのに。


「でも、見ていただけだった。王太子の婚約者である君に近づくべきではないと、そう考えることで、何もしない自分を許していた」


「そんな言い方をしないでください。公爵閣下は、何も悪くありません」


「悪くないだけでは、足りない夜がある」


 その言葉に、胸が詰まった。


 エルネスト様は、ゆっくりと私を見る。


「今夜、君が白百合を握って棺の前に立った時、もう誤魔化せなかった。守りたいと思った。だが、それだけではなかった。君が傷ついているのに背筋を伸ばしているのを見て、私は腹が立って、苦しくなって、それからようやく気づいた」


「何に、ですか?」


「私は、君に惹かれていた。ずっと前から。ただ、それを認めないようにしていただけだ」


 息が止まりそうになった。


 好きだと言われたわけではない。


 なのに、その言葉は、もっと深い場所にストンと落ちてきた。


 ずっと前から。


 認めないようにしていた。


 それは、ただ甘いだけの告白ではなかった。


 立場も、罪悪感も、踏み込めなかった時間も、全部抱えた言葉だった。


「……そんなことを、今夜言うのはずるいです」


「分かっている」


「分かっていて言うのは、もっとずるいです!」


「それも分かっている」


 エルネスト様は少しだけ目を伏せた。


「だが、今夜言わなければ、私はまた都合のいい言い訳を探す。君が傷ついているから今ではない。君が混乱しているからまだ早い。君の未来を縛りたくないから黙っている。そうやって、いつまでも君の前でだけ正しい人間のふりをする」


 その声は、静かだった。


 けれど、どこか必死だった。


「私は、正しいだけの男ではいたくない。君にだけは」


 胸の奥が熱くなった。


「……困ります」


「迷惑か」


「いいえ」


 私は首を振った。


「困るのは、私が今、その言葉を嬉しいと思ってしまっているからです」


 エルネスト様の目が揺れた。


 その反応を見て、私はまた困った。


 ああ、駄目だ。


 この人の前にいると、私は自分の気持ちまで隠しきれなくなる。


「私はまだ、婚約破棄されたばかりで、王妃様のことも、殿下のことも、整理できていなくて……なのに、エルネスト様の言葉だけが、その上から温かく残ってしまいます」


「それは、困るな」


「はい。とても」


「だが、嫌ではない?」


 私は少しだけ迷ってから、正直に答えた。


「……嫌ではありません」


 エルネスト様の手が、ほんのわずかに強くなった。


 それだけで、胸が苦しくなる。


「エルシア。急がなくていい。今すぐ答えなくていい。ただ、君がこれから先、誰かに不吉だと呼ばれた時、私の名を思い出してほしい」


 声が、夜明け前の空気に静かに溶ける。


「私はその言葉を聞くたびに、君の手を取りに行く」


 目の奥が熱くなった。


 今夜、泣かないと決めていた。


 でも、もう夜は終わりかけている。


 少しくらい、いいだろうか。


「やっぱり……ずるいです」


 声が震えた。


「そんなことを言われたら、思い出すに決まっています」


「なら、よかった」


「よくありません。思い出すだけでは、きっと足りなくなります」


 エルネスト様が、息を止めたのが分かった。


 私も、自分で言った言葉に驚いていた。


 でも、取り消したくはなかった。


「答えは、今すぐでなくていいとおっしゃいましたね」


「ああ」


「では、今すぐの答えではありません」


 私は彼の手を握り返した。


「でも、これから先、誰かに不吉だと言われた時、エルネスト様の名を思い出したいと思います。そしてできれば、思い出すだけではなく、ちゃんと会いに来てほしいです」


 エルネスト様は、一瞬、言葉を失ったようだった。


 それから、とても静かに笑った。


 今まで見たどの笑顔よりも、やわらかい笑顔だった。


「必ず行く」


「約束です」


「ああ。約束する」


 その時、中庭の白百合が朝の光を受けた。


 風が吹く。


 棺の上で黒く染まったはずの白百合が、私の記憶の中でゆっくりとほどけていく。


 黒い花びらが落ち、白い花が残る。


 王妃様の未練が、少しだけ軽くなったのだと分かった。


 涙が一粒、落ちた。


 エルネスト様は何も言わず、私の隣にいてくれた。


 泣きやめとも言わない。


 大丈夫だとも言わない。


 ただ、私の手を握っていてくれた。


 それが今は、何より嬉しかった。




 ◇◆◇




 数日後。


 王宮から正式な発表があった。


 カイルロッド殿下は王太子位を返上し、療養と再教育のため離宮へ移ること。


 ルクスフェリア侯爵家とグランヴェル宰相家は王妃毒殺および王太子への精神干渉に関わった疑いで取り潰しとなること。


 ミレーナ・ルクスフェリアは聖女候補の資格を剥奪され、神殿裁判にかけられること。


 そして、オフィーリア王妃の死について、改めて国葬に準じる追悼の儀を行うこと。


 私は、その儀式で再び白百合を捧げた。


 今度は一人ではなかった。


 隣には、エルネスト様がいた。


 広間に集まった人々の視線は、前の夜とは違っていた。


 好奇心もある。


 畏れもある。


 けれど、少なくとも私を嘲る目はなかった。


 私は棺の前に膝をつき、白百合を置いた。


 花は、白いままだった。


 ただ一枚だけ、花びらの奥に淡い金色が灯る。


 それは怒りでも、毒でもない。


 ありがとう、と言われた気がした。


 私は小さく息を吐いた。


「王妃様」


 声は震えなかった。


「どうか、安らかにお眠りください」


 儀式が終わると、エルネスト様が私に手を差し出した。


 今度は、広間の誰も驚かなかった。


 私はその手を取る。


「エルシア」


 彼が私の名を呼んだ。


 もう、エルシア嬢ではなかった。


 そのことに気づいて、胸が少し跳ねる。


「はい」


「このあと、少しだけ時間をもらえるか」


「また中庭ですか?」


「いや」


 エルネスト様は、ほんの少し真面目な顔をした。


「今日は、君の父上に正式に挨拶をしたい」


 私は瞬きをした。


「父に?」


「君に急がなくていいと言ったことは本当だ。だが、私が本気であることは、君にも、君の家にも、王国にも示しておきたい」


「そ、それは……」


 顔が熱くなる。


「求婚の、準備……ということでしょうか……?」


「できれば、準備ではなく本番にしたい」


「エルネスト様……」


「駄目なら待つ。半年でも一年でも待つ。だが、待っている間にまた誰かが君に縁談を持ち込んだら、私はきっと大人げなくなる」


 思わず笑ってしまった。


「冷血公爵ではなかったのですか?」


「君のことになると、あまり冷静ではいられないらしいな」


 そんなことを真顔で言わないでほしい。


 心臓がもたない。


「父は、驚くと思います」


「覚悟している」


「ノクタリス家は弔いの家です。これからも、私は死者の未練に触れることがあります」


「知っている」


「私の手は、冷たいです」


「なら、私が温める」


「私は、強がります」


「それも知っている。だから、私が見張る」


「たまに、可愛げがないかもしれません」


「それは困らない」


「……たまに、甘えるかもしれません」


 エルネスト様の目が、少しだけ揺れた。


「それは、非常に困る」


「……困るのですか?」


「嬉しすぎて、顔に出る」


 私はとうとう笑ってしまった。


 今度は、ちゃんと声を出して。


 エルネスト様も笑った。


 広間の向こうで、誰かが私たちを見ている。


 でももう、気にならなかった。


 死者にしか好かれない令嬢。


 不吉なノクタリス家の娘。


 王太子に捨てられた女。


 そう呼びたい人は、これからもどこかにいるのかもしれない。


 でも私はもう、その名前だけで終わらない。


 白百合を置いただけだった。


 本当に、ただそれだけのつもりだった。


 けれどその花は、王妃様の声を咲かせ、王家の罪を暴き、私の手を取ってくれる人のもとへ続く道になった。


 エルネスト様の手が、私の手を包む。


 冷たいはずの指先が、少しずつ温かくなっていく。


「行こう、エルシア」


「はい、エルネスト様」


 亡き王妃様の棺の上で、白百合が静かに揺れていた。


 もう黒く染まることはない。


 その白さが、今度こそ誰かの未練ではなく、祝福のように見えた。

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