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日常とSF

朝の白衣

作者: くるみ
掲載日:2026/05/07

夜勤明けの病院には、朝の光が差し込んでいた。


けれど、病棟の空気は、まだ夜の続きのようだった。ナースコールの音、廊下を行き交う足音、電子カルテを打つキーボードの音。誰かの一日が始まる場所で、誰かの長い夜がまだ終わらずにいた。


内科医の水野は、休憩室の椅子に腰を下ろし、紙コップのコーヒーを見つめていた。

もう冷めている。

一口飲むと、苦味だけが舌に残った。

本当は、眠かった。目の奥は重く、肩は白衣の重さ以上に沈んでいた。それでも、あと五分で朝の回診が始まる。


水野は机の端に置かれた封筒に目を留めた。


「先生へ」

丸い字で、そう書かれていた。

さっき、看護師から渡されたものだった。


「昨日の患者さんのご家族からです」

そう言って、看護師は静かに差し出した。

水野は封筒を開いた。中には、便箋が一枚だけ入っていた。


「先生へ。昨日は、母に声をかけてくださってありがとうございました。短い時間でしたが、先生が目を見て話してくださったので、母は安心したようでした。私たち家族にとっても、とても大切な時間でした。」


水野は、便箋から目を離した。

昨日の夕方のことを思い出した。

病状説明のあと、母親はベッドの上で小さくうなずいていた。娘は隣で、必死に涙をこらえていた。


次の患者が待っていた。処置も、カルテの記載も、まだ残っていた。水野は長くそこにいることはできなかった。

だから、立ち去る前に、ベッドのそばで少しだけ姿勢を低くした。


「今日は、ここまで本当にお疲れさまでした。あとでまた様子を見に来ます」


それだけだった。

特別な言葉ではない。病気を治したわけでもない。不安を消せたわけでもない。

それでも、母親はかすかに笑った。娘は、何度も頭を下げた。

水野はそのあと、すぐに次の病室へ向かった。


廊下を早歩きしながら、胸の奥に小さな痛みが残っていた。

もっと時間があれば。

もう少し、そばにいられたら。

医師になってから、そう思うことは何度もあった。けれど、病棟では、ひとりの患者だけを見ているわけにはいかない。待っている患者がいる。呼んでいる家族がいる。判断を必要としている看護師がいる。


水野は、いつもその間を歩いていた。

できることと、できないことの間。

医師としての責任と、人間としての感情の間。


便箋を持つ指に、少し力が入った。

医師は、強い人間だと思われることがある。迷わず、疲れず、いつも正しい言葉を持っている人のように見えることがある。

けれど本当は、そんなことはない。

救えなかった患者の顔を、帰り道で思い出すことがある。家族の涙に、言葉が出なくなることもある。白衣を脱いだあとで、ようやく自分がひどく疲れていたことに気づく夜もある。

それでも、朝は来る。

水野は便箋を封筒に戻し、机の上にそっと置いた。


そのとき、ドアの向こうから看護師の声がした。

「水野先生、そろそろ回診のお時間です」

水野は立ち上がった。


「ありがとうございます。行きます」

鏡の前で、白衣の襟を直す。そこに映っていたのは、少し疲れた顔をした、ただの人間だった。

それでも、その人間を待っている人たちがいる。


廊下に出ると、朝の病棟は動き始めていた。検温のワゴンが通り、ナースコールが鳴り、患者たちの一日が始まっていく。

水野はいつものように、少し早歩きで病室へ向かった。


最初の病室の前で、ほんの一呼吸だけ置く。

長く立ち止まることはできない。

けれど、目を見ることはできる。

声の調子を少しやわらかくすることはできる。

不安そうな手元に、気づくことはできる。

水野はドアを軽くノックした。


「おはようございます。体調はいかがですか」


その声は、少しかすれていた。

けれど、確かに、そこにいる人へ向けられていた。

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