誰かのヒーローになる日
第一章 魔法が消えた日
自分が物語の主人公じゃないと気づいたのはいつだったのだろう。
幼稚園の頃は自分にも魔法が使えると信じていた。かわいい美少女戦士に変身して悪者をやっつける格好良くてかわいいヒロイン。空だって自由自在に飛べると思った。テレビの中の彼女たちと自分の間に、何の違いもないと信じて疑わなかった。
小学校低学年までは、某アニメのように笛を吹けばいつでもどこでも駆けつけてくれる相棒のような動物がいると信じていた。ランドセルに忍ばせた小さな笛を、誰にも見られないように何度も吹いた。来ないはずがない。私は選ばれた子どもなのだから。
自分が世界の中心だと信じていた。
いつから気づいたのだろう。私もただの世界の一部だということに。
そして気づいた時、私はどう思ったのだろう。
落胆?諦念?
分からない。まったく記憶にない。まるで脳が自己防衛のために、その瞬間の痛みを記憶から消去してしまったかのように。
誰しも、そうだと思っていた。幼い頃、どこかの段階で気づく。自分が世界の中心でないことに。それは誰もが通る通過儀礼のようなもので、大人になるということは、そういう幻想を手放すということだと。
だが、私は気づいた。大人になってからも自分が世界の中心だと信じている人間が一定数いることに。
そして彼らの多くが、不思議なことに、権力を持っている。
第二章 豚の変身
「葉山ァァァ!!」
今日も尾山部長の怒声が響く。
オフィスの空気が一瞬凍りつく。キーボードを叩いていた手が止まり、電話中の声がわずかにトーンを落とす。皆が、自分に火の粉が降りかからないよう、息を殺す。
尾山部長もその一人だ──自分が世界の中心だと信じている人間の。
彼にとって、世界は自分のものであり、その他の人間はモブだと思っている節がある。主人公である自分のストーリーを彩るための、名前もないキャラクター。
いつものことなので彼の怒声を私は軽くかわす。立ち上がり、無表情のまま彼のデスクへ向かう。この距離感、このタイミング、もう完璧に体が覚えている。
「……はい、なんでしょう」
「俺のコーヒーがぬるくなってんぞ!淹れ直してこい!」
部長のデスクには、十五分前に私が淹れたコーヒーカップがある。湯気も立っていないそれを、彼は今初めて口をつけたのだろう。自分が放置していたくせに。
「……承知しました」
私はカップを手に取り、給湯室へ向かう。背中に視線を感じる。野見山さんだ。申し訳なさそうな、それでいて安堵したような複雑な表情。ああ、今日も私が標的になってくれて良かった、という顔。
責めはしない。私だって、少し前まではそうだったから。
給湯室への廊下を歩きながら、ふと考える。
尾山部長は未だに自分に魔法が使えると思っているのだろうか。
「──変身!!」
そう叫んだら、戦隊ヒーローに変身できると、そう思っているのだろうか。
──自分は世界を救う英雄。
尾山部長はきっと自分のことをそう思っているに違いない。会議で部下を怒鳴りつけるのも、無理難題を押し付けるのも、全ては会社という世界を救うため。自分は厳しいが正しいリーダーで、部下たちはいつか自分に感謝するはずだと。
尾山部長が変身した姿を思い浮かべ、給湯室で一人ニヤけてしまう。
さぞや豚みたいな不恰好な戦隊ヒーローになるに違いない。ピチピチのスーツに収まりきらない腹。「正義のために!」と叫びながらポーズを決める姿。想像しただけで笑いが込み上げてくる。
「な〜にニヤニヤしてんのよ、那月」
別の部署の真弓が声をかけてきた。給湯室のドアに寄りかかって、いつもの意地悪そうな、でも親しみのある笑顔でこちらを見ている。
「いや、べつに〜」
私は変な妄想をしていたことを、いったん頭から振り払う。コーヒーメーカーに新しい豆をセットしながら、平静を装う。
「なんか怪しいんだけどー?」
真弓が給湯室に入ってくる。自分のマグカップを取り出しながら、探るような視線を向けてくる。
「なんでもないですぅー」
真弓とは大学時代からの親友で、たまたま同じ会社に入社したが、配属先は別だった。彼女が総務部、私が経理部。就活の時、「一緒の会社受けよう」と言い出したのは真弓の方だった。「那月一人だと絶対ブラック企業つかまされる」という理由で。
こうしてたまに給湯室や食堂で顔を合わせるくらいだ。でも、それがちょうどいい距離感だと思っている。
「まぁいいや。昼休み、問い詰めてやる」
「だから、なんでもないんだって!」
私は必死に弁解する。
尾山部長が豚の戦隊ヒーローに変身する妄想をしていたなんて知られたら、頭がおかしいと思われかねない。いや、むしろストレスで病んでると心配されるかもしれない。
いや、案外、真弓なら笑ってくれるかも。あとで話してみるか。真弓だって総務部で理不尽な上司に悩まされてるし、きっと共感してくれる。
「じゃあ、またあとでね」
「うん」
真弓が去り、私は一人残される。コーヒーメーカーから立ち上る湯気を眺めながら、深呼吸する。
第三章 録音された証拠
うちは規模でいえば中程度の印刷会社で、いろんなものを刷っている。
パンフレット、ポスター、パッケージ、名刺。時には書籍の装丁も手がける。創業五十年の老舗で、取引先も安定している。倒産の心配はない代わりに、古い体質も残っている。
私は経理部、真弓は総務部。
だから私たちは印刷物に直接関わる機会は少ない。数字と書類に囲まれた、地味だけど安定した仕事。
至って平和である。
毎朝、豚……じゃなかった、尾山部長に怒鳴られる以外は。
デスクに戻ると、尾山部長は電話中だった。取引先との会話らしく、さっきまでの横柄な態度とは打って変わって、へりくだった声色で話している。
「いえいえ、そんなことはございません。こちらこそ、いつもお世話になっております」
電話を切った瞬間、またあの尊大な表情に戻る。まるでスイッチを切り替えるように。
私は静かにコーヒーカップを彼のデスクに置く。
「遅いんだよ」
ありがとうの一言もない。もちろん期待もしていないが。
「申し訳ございません」
私は棒読みで謝罪し、自分の席に戻る。
ちなみに私のペンは、探偵道具の如くそれとは分からないよう録音機能がついており、先ほどの尾山部長のパワハラ怒声も録音済だ。
胸ポケットに入れたペンに、そっと触れる。この小さな武器。ネットで見つけた時、これだと思った。レビューには「浮気調査に使えます」「会議の記録に便利」などと書かれていたが、私の目的は別だ。
私は尾山部長をパワハラ対策本部に訴えるつもりだ。
この会社には二年前、パワハラ対策本部が設置された。表向きは「働きやすい職場環境のため」だが、実際は過労で倒れた社員が労基に駆け込んだことがきっかけだと、真弓から聞いた。
奴が干される日も近いであろう。
証拠は十分に集まっている。二ヶ月分、四十三件の録音データ。日時、状況、証人の有無も記録してある。完璧だ。
そして奴の天下も終わり。奴の築いた城は崩れ去り、奴は自分が世界の中心ではなかったことにようやく気づくだろう。
……というか気づけ。
私は奴の天下に終止符を打ちに来た、いわば救世主。ヒーローである。
あれ?夢見がちなのはまさか私の方だったりして。
まあ、いい。奴が去ってくれさえすれば、私の役目も終わりだ。
尾山ブータロー(心の中でそう呼んでいる)の矛先は私だけではない。隣の席の野見山さんだ。
野見山さんは入社三年目の真面目な男性で、黒縁眼鏡の奥の瞳はいつも怯えている。尾山部長が近づくだけで、肩が小刻みに震える。
野見山さんはブータローにすっかり萎縮してしまっている。先月は、些細なミスで一時間近く立たされて説教された。周りの誰もが見て見ぬふりをする中、野見山さんは直立不動で耐え続けた。
野見山さんのためにも私は戦わねばならぬのだ。
自分が主人公じゃないと気づいた私だけど、誰かのヒーローにはなれるかもしれない。それくらいの魔法なら、まだ使えるかもしれない。
第四章 昼休みの密談
昼休み、社員食堂で真弓と向かい合って座る。
「で、朝の話だけど」
真弓が箸を止めて、にやりと笑う。
私は観念して、尾山部長の変身妄想の話をした。期待通り、真弓は吹き出した。
「豚の戦隊ヒーローって!最高じゃん!」
「でしょ?」
「必殺技は『ブヒブヒビーム』とか?」
「『パワハラキック』の方がリアルじゃない?」
二人で笑い転げる。周りの視線が気になったが、もう知らない。
笑いが収まると、真弓が真面目な顔になった。
「那月、まだあれ続けてるの?」
「うん。もうすぐ」
「気をつけなよ。尾山みたいなやつ、逆恨みしそうじゃん」
真弓の心配ももっともだ。でも、もう引き返せない。
「大丈夫。ちゃんと準備してる」
私がそう言うと、真弓は少し寂しそうな顔をした。
「那月、変わったよね」
「え?」
「昔はもっと、おとなしかったのに。こんな戦う感じじゃなかった」
確かに、大学時代の私は今とは違った。サークルにも入らず、バイトと勉強だけの地味な学生。真弓がいなければ、友達もほとんどできなかっただろう。
「人は変わるものだよ」
「それもそうだけど……まあ、今の那月も嫌いじゃないけど」
真弓がそう言って微笑む。
「でもさ、那月。本当に自分がヒーローだと思ってる?」
その質問に、私は答えられなかった。
第五章 ヒーローの条件
「本当に自分がヒーローだと思ってる?」
真弓の問いかけが、胸に刺さる。
私は味噌汁を一口すすって、時間を稼ぐ。食堂の喧騒が妙に遠く感じられる。
「……思ってないよ」
正直に答えた。
「ただ、誰かがやらなきゃいけないことだから」
「それってヒーローの台詞じゃん」
真弓が苦笑する。
「違うよ。ヒーローは選ばれた人。私はただ、たまたまそこにいた人」
幼い頃に信じていた魔法使いや美少女戦士は、皆「選ばれし者」だった。特別な力を持ち、特別な使命を背負い、特別な運命に導かれる。
でも現実は違う。現実のヒーローは、選ばれるんじゃない。自分で選ぶんだ。戦うか、逃げるか。声を上げるか、黙るか。
「那月は優しいよね」
「優しくなんかないよ。むしろ、私怨だし」
本当のことを言えば、私だって尾山部長が嫌いだ。毎朝あの怒声を聞くたびに、胃が痛くなる。コーヒーを淹れ直す度に、このカップに毒でも盛ってやろうかと思う。
それでも、野見山さんのためだけじゃない。自分のためでもある。
「私怨で動けるなら、それでいいんじゃない?」
真弓が立ち上がる。昼休みももう終わりだ。
「結果的に誰かが救われるなら、動機なんてどうでもいい。那月、応援してるから」
「ありがと」
トレイを返却口に持っていきながら、私は考える。
ヒーローの条件って何だろう。
強さ?正義感?自己犠牲の精神?
それとも──ただ、立ち上がる勇気だけ?
第六章 モブキャラの反乱
午後三時、私はついに行動を起こした。
人事部のパワハラ対策本部の窓口に、内部通報のメールを送信する。添付ファイルには、二ヶ月分の録音データと詳細な記録。送信ボタンをクリックする指が、わずかに震えた。
送信完了。
もう後戻りはできない。
デスクに戻ると、尾山部長が私を睨んでいた。まさか、もうバレた?心臓が跳ね上がる。
「葉山、四時から会議室な。例の件の説明しろ」
違った。ただの業務連絡だ。
「承知しました」
例の件とは、先月の経費処理のミスについてだ。実際にミスをしたのは前任者だが、私が引き継いだ以上、説明責任がある。
四時、会議室。
尾山部長の他に、部長代理の桐谷さんもいた。桐谷さんは四十代の女性で、いつも尾山部長の理不尽さに眉をひそめているが、決して口には出さない。
「で、どうなってんだ、この数字は」
尾山部長が資料を指で叩く。
「前期からの引き継ぎミスで、こちらの項目が──」
「言い訳はいい。お前が確認しなかったのが悪いんだろ」
確認したし、すでに修正も完了している。それも説明しようとしたが、尾山部長は聞く耳を持たない。
「だいたいお前は、いつもヘラヘラして緊張感がないんだよ。もっと真剣にやれ」
ヘラヘラ?私がいつヘラヘラした?
「申し訳ございません」
謝罪の言葉を口にしながら、私の中で何かが静かに音を立てる。
これが最後だ。
あと数日もすれば、人事が動く。そうすれば、この茶番も終わる。
「分かったら、さっさと修正報告書出せ。明日の朝一でな」
「承知しました」
会議室を出る時、桐谷さんが小声で「お疲れ様」と言った。その目には、申し訳なさが滲んでいた。
桐谷さんも知っているのだ。尾山部長が間違っていることを。でも、立場上、何も言えない。
私だって、少し前まではそうだった。
第七章 野見山さんの涙
翌日の朝、野見山さんが泣いていた。
給湯室で、こっそりと。
私が女子トイレから出ると、給湯室のシンクで顔を洗っている野見山さんがいた。眼鏡を外した素顔は、目が真っ赤に腫れている。
「野見山さん」
「あ、葉山さん……」
慌てて眼鏡をかけ直す野見山さん。でも、隠せていない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと、目にゴミが……」
嘘だと分かる。でも、追求はしない。
「そうですか。お大事に」
立ち去ろうとした私に、野見山さんが声をかけた。
「葉山さんは、強いですね」
「え?」
「尾山部長に、いつも堂々としてて。僕なんか、もう……限界で」
野見山さんの声が震える。
「強くなんかないですよ。ただ、慣れただけです」
「慣れる……慣れられるんですか、あんなの」
慣れられる。人間は、驚くほど理不尽に慣れることができる生き物だ。それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からないけれど。
「野見山さん、もうすぐ変わりますよ」
「え?」
言ってしまってから、しまったと思った。でも、野見山さんの絶望した顔を見ていられなくて。
「尾山部長、もうすぐいなくなるかもしれません」
「本当ですか?」
野見山さんの目に、かすかな光が灯る。
「まだ確定じゃないですけど。だから、もう少しだけ耐えてください」
「葉山さん……ありがとうございます」
野見山さんが深々と頭を下げる。
私は何も答えられず、ただトイレを後にした。
第八章 人事の動き
一週間後、人事部から連絡があった。
「パワハラ対策本部です。先日ご提供いただいた情報について、詳しくお話を伺いたいのですが」
ついに来た。
人事部の個室に呼ばれ、パワハラ対策本部の責任者である石井さんと面談した。石井さんは五十代の温厚そうな男性で、じっくりと私の話を聞いてくれた。
「録音データ、確認させていただきました。これは……かなり深刻ですね」
「はい」
「他にも被害者がいますか?」
「野見山という者が、特に」
「野見山さんからも話を聞きたいのですが、葉山さんから伝えていただけますか?」
「分かりました」
面談は一時間に及んだ。具体的な事例、頻度、他の社員の反応。全てを正直に話した。
「葉山さん、よく勇気を出してくれました」
石井さんが最後にそう言った。
「ただ、調査には時間がかかります。その間、尾山部長に接触されることもあるかもしれません。何かあったら、すぐに連絡してください」
「はい」
石井さんから名刺を受け取り、人事部を後にする。
廊下で、心臓の鼓動が激しく打っている。やった。ついにやったんだ。
でも同時に、不安も押し寄せる。本当にこれで良かったのか。尾山部長が逆恨みしてきたら?調査が進まなかったら?
エレベーターホールで待っていると、後ろから声がした。
「葉山さん」
振り返ると、桐谷部長代理が立っていた。
「あ、桐谷さん」
「今、人事にいましたね」
ドキリとする。見られていた?
「実は、私も呼ばれてまして」
「え?」
「尾山部長の件で。私も証言を求められました」
桐谷さんが小さく笑う。
「葉山さんが動いてくれたんですね。ありがとうございます」
「桐谷さんも、知ってたんですか」
「ええ。でも、私には勇気がなくて。立場もありますし」
エレベーターが来る。二人で乗り込む。
「でも、葉山さんが動いてくれた。今度は私が支える番です」
「ありがとうございます」
エレベーターが降りていく。
私は、一人じゃなかったんだと気づく。
私たちモブキャラにも、皆それぞれに物語を持っている。それぞれに葛藤があり、それぞれに勇気がある。
ただ、タイミングが違っただけ。
第九章 豚の最期
二週間後、尾山部長が経理部からいなくなった。
正確には、「健康上の理由により休職」という建前だったが、実質的な左遷だった。復帰後は閑職に回されることが決まっているという噂が流れた。
その日、オフィスの空気が変わった。
重苦しい緊張が消え、代わりに柔らかな安堵が流れる。
野見山さんは、初めて笑顔を見せた。
「葉山さん、本当にありがとうございました」
「いえ、私は……」
「葉山さんがいなかったら、僕、もう辞めてました」
野見山さんの目に涙が浮かぶ。でも、それは悲しみの涙じゃない。
桐谷部長代理が、臨時で部長代行になった。彼女の最初の仕事は、部内ミーティングだった。
「これからは、皆が意見を言いやすい部署にしていきます。何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」
その言葉に、皆が頷く。
真弓からメールが来た。
「やったね!今日飲みに行こう!」
私は返信する。
「うん、行く」
第十章 主人公じゃないけれど
仕事帰り、真弓と居酒屋で乾杯する。
「お疲れ様!那月!」
「お疲れ様」
ビールが喉を通る。美味しい。
「で、ヒーローになった気分はどう?」
真弓が茶化すように聞く。
「ヒーローなんかじゃないよ」
「また謙遜して」
「本当に。私は何も特別なことしてない」
ただ、録音して、報告しただけ。それだけのこと。
「でもさ、那月。それができる人って、実は少ないんだよ」
真弓が真剣な顔になる。
「私だって、総務部でおかしなことたくさん見てるけど、見て見ぬふりしてる。那月みたいに動けない」
「真弓だって、いつか動くよ」
「そうかな」
「うん。タイミングが来たら」
私たちは、黙ってグラスを傾ける。
「ねえ、那月」
「ん?」
「私たちって、結局何者なんだろうね」
「何者って?」
「主人公でもなく、ヒーローでもなく。でも、モブキャラでもない」
真弓の問いかけに、私は少し考える。
「私たちは、私たちだよ」
「それ、答えになってる?」
「なってる」
私は微笑む。
「主人公じゃなくていい。特別じゃなくていい。ただ、自分の物語を生きればいい」
幼い頃、私は魔法が使えると信じていた。空を飛べると信じていた。自分が世界の中心だと信じていた。
でも、そんな魔法はなかった。
代わりに見つけたのは、もっと地味で、もっと小さな力。
声を上げる力。記録する力。証拠を集める力。
そして何より──誰かと繋がる力。
「那月、かっこいいこと言うじゃん」
「酔ってるからね」
二人で笑う。
窓の外では、街の明かりが輝いている。この街には何万人もの人が暮らしていて、皆それぞれの物語を持っている。
誰もが主人公で、誰もが脇役。
それでいいんだと思う。
エピローグ
三ヶ月後。
新しい部長が来た。山際さんという、五十代の穏やかな男性だ。
「皆さん、よろしくお願いします」
最初の挨拶で、山際部長は深々と頭を下げた。尾山部長では考えられない光景だった。
野見山さんは、最近生き生きと働いている。ミスも減り、自分から提案もするようになった。
桐谷さんは正式に部長代理として認められ、やりがいを持って仕事をしている。
そして私は──相変わらず、平凡な経理部員として働いている。
特別なことは何もない。
でも、それでいい。
昼休み、給湯室で真弓と会う。
「ねえ、那月。最近どう?」
「普通」
「普通って、いいよね」
「うん、いいね」
コーヒーを淹れながら、ふと窓の外を見る。
青空が広がっている。
幼い頃、あの空を自由に飛べると思っていた。
でも、飛べなくても大丈夫。
地に足をつけて、一歩ずつ歩いていける。
それが私の魔法。
ある日、後輩が入ってきた。
新卒の女の子で、目をキラキラさせながら「経理の仕事、頑張ります!」と言う。
その姿を見て、私は思う。
彼女は今、自分が物語の主人公だと思っているのだろうか。
それとも、もう気づいているのだろうか。
どちらでもいい。
いつか彼女が困った時、私が手を差し伸べられたらいい。
かつて誰かが私にしてくれたように。
「分からないことがあったら、いつでも聞いてね」
「はい!よろしくお願いします!」
後輩が笑顔で答える。
私も笑顔を返す。
世界は回り続ける。
誰が中心でもなく、誰もが等しく大切な存在として。
そんな世界で、私は今日も生きていく。
主人公じゃない私の、でも確かに私だけの物語を。
──完──




