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小説

悪役令嬢になったとて

作者: ちりあくた

 三月の朝、私は自分が貴族令嬢であることを理解した。


 理解した、という表現は正確ではないかもしれない。目を覚ましたとき、天蓋つきの寝台と、刺繍の施されたカーテンと、過剰なまでに磨き上げられた床とが視界に入った。それらを「自分の置かれている状況」として受け取った、というだけだ。驚きはなかった。恐怖もなかった。胸の奥に生じたのは、前世で朝を迎えたときと同じ、説明のつかない倦怠感だった。


 使用人が私の名を呼んだ。長く、母音の多い名だった。返事をするまでに一拍の遅れが生じた。その遅れは、名前が馴染まないからではなく、誰かに呼ばれるという行為そのものに、慣れていなかったせいだと思う。


 鏡に映った自分の姿は、記憶にある代物とは大きく異なっていた。淡い銀色の髪、整いすぎた輪郭、意志の強そうな瞳。いわゆる「悪役令嬢」と呼ばれる条件を、過不足なく満たしているように見えた。だが、その瞳の奥にいるのが自分であるという感覚だけは、奇妙なほど確かだった。「転生した」という事実よりも、「私はまだここにいる」という認識の方が、先にあった。


 それからの日々は、驚くほど滑らかに過ぎていった。

 私は貴族令嬢としての教育を受け、形式的な挨拶を覚え、求められる振る舞いをなぞった。拒む理由も、積極的に選ぶ理由もなかった。そうして季節が進み、当然のように、私は学園へ通うことになった。


 学園に通い始めてから、いくつかの出来事が起こった。婚約者である王子が、別の少女に関心を示していること。周囲の令嬢たちが、私を遠巻きに観察し、時折、ひそひそと評価を下していること。物語として読めば、いずれも起伏に満ちた要素なのだろう。だが、それらは私の生活に、ほとんど影響を与えなかった。


 前世でも、似たようなことはあった。職場での人間関係、誰かの好意や反感、評価の上下。それらは常に私の周囲を流れていたが、中心にはならなかった。私はいつも、少し離れた場所からそれらを眺めていた。関わろうと思えば関われたのかもしれない。ただ、その「思おうとする力」が、私にはなかった。


 学園の食堂で、私はいつも同じ席に座った。誰かと約束をしたわけではない。気づけば、そこが空いていて、そこに座っているだけだ。周囲では、笑い声や囁きが絶えなかった。私はスープを口に運び、その温度を確かめる。熱すぎない。冷めてもいない。その事実だけが、はっきりとしていた。


 ある日、王子が私に話しかけてきた。記憶にないことへの形式的な謝罪と、曖昧な将来についての言葉だった。私は頷き、相槌を打ち、必要な言葉を返した。感情は動かなかった。怒りも、悲しみも、期待もなかった。ただ、彼が何かを期待しているらしい、ということだけは分かった。その期待に応えるべきかどうかを考える前に、私はその場を終わらせていた。


 そうして、断罪の場は当然のように訪れた。

 記憶にない罪だったが、そういうものなんだろう。


 そこは思っていたよりも静かだった。多くの視線が集まり、形式ばった非難が並べられたが、そこに劇的な高揚はなかった。私は立って話を聞き、自分に向けられた評価を受け取った。それらは、前世で受け取ってきた評価と、質的には変わらないように思えた。場所と衣装が違うだけで、構造は同じだった。


 処罰は軽いものだった。国外追放でも、幽閉でもない。むしろ、静かな生活が保証されたと言っていい。人々はそれを「救済」と呼ぶのかもしれない。私は馬車に揺られながら、窓の外を眺めていた。景色は美しく、空気は澄んでいた。だが、その美しさが、私の内側に入り込んでくることはなかった。


 新しい屋敷での生活は、わざとらしいくらい整っていた。必要なものは揃い、危険はなかった。使用人たちは丁寧で、距離を保ってくれた。その距離感が心地よかった。誰かと深く関わる必要はない。求められる役割もない。前世の休日と、驚くほど似ていた。


 夜、机に向かい、何も書かれていない紙を眺める。何かを始めようとする気持ちは、特に湧かなかった。「転生したのだから、何かが変わるはずだ」という考えが、ふと頭をよぎる。だが、その考えは、前世で何度も浮かんでは消えたものと同じ形をしていた。


「転生しようが、私は私だ」


 そう言葉にしてみると、慰めにも絶望にもならなかった。ただの確認だった。自分の中身が変わらない限り、生活もまた、同じ輪郭をなぞる。その事実を、私は淡々と受け取っている。


 窓の外で、夜風が木々を揺らす。その音を聞きながら、私は灯りを消した。明日もまた、特別ではない一日が来るだろう。それで十分だと、今は思えた。それしかないのだとも思えていた。

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