前向き、後ろ向き
「良い文学作品は、「この感覚は自分だけにしかわからない」という感じを多くの人に与える」と生前の吉本隆明は言っていた。確かにその通りだと思う。
ここで重要なのは「自分だけにしかわからない」という点である。
人には、ある種のポイントがあって、そのポイントにおいては他者とは決してわかりあえず、自分にしかわからないという何ものかが存在する。
優れた文学作品はそうしたポイントを刺激する。それ故、その作品に感化された読者は、これを書いた作家はどれほど自分のような人間の心を知り抜いているのだろう、と考える。
この思考が更に進むと、「この作家は私の心を盗み見してこの作品を書いたんだ」という妄想へと繋がっていく。私自身、そうしたクレームを受けた事が一度ある。
しかし、私はクレームを受けてはじめてその人を知った。もちろん他人の心を盗み見るのは不可能だ。きっとその人にとっては、私が私に向けて書いた文章が、あたかもその人がその人自身に向けて書いた文章のように感じられたのだろう。
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文学のこの特性を「後ろ向き」という言葉で括ってみよう。文学は後ろ向きである。人は前向きだけではなく、後ろ向きに生きる方向性というのがある。
後ろを向く時、人は自分の孤独と実存に向き合わなければならないのだが、幸運(不幸)な事に、そうした瞬間に優れた文学作品を手に取ると「自分の理解者が他にいた!」という心情を得るに至る。
ところで、この読者が感激して、自分の心を、内面をこれほどまでに理解して、作品に結晶化してくれた作者に実際に会いに行くと、読者は失望する事となる。というのは、読者が直接会いに行って、初対面の人間として向かい合うその作家は、もうすでに心の特別な秘密を握っている他者ではなく、単に作家も世間的に生きなければならないという理由で、普段の隣人と変わらない態度で接してくる凡庸人でしかないからだ。
作家は作品に向かっている時だけ、心の秘密を打ち明ける。日常生活は違う。読者が全てを期待して作者に会いに行くと、そこには凡庸な個人しかいない。作家は自分の全てを作品の中に置いてきたので、その事を読者は転倒して考えていたのだ。
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文学作品を読む場合の心の動きを「後ろ向き」と名付けると、その反対は「前向き」という事になる。
例えばイーロン・マスクのような経営者は前向きな人だろう。
私は投資をしているのだが、投資をする上で自分のような後ろ向きの人間に投資するわけにはいかない。投資するなら前向きな人がいい。
前向きで、能力のある経営者やリーダーといった人は一体、どういう事を考えて、どういう能力があるのだろうか?
実際のところ、彼らにはどんな秘密もない。彼らはただ前進する。彼らは特別才能があるわけでも、人よりも秀でた直感があるわけでもない。ただ彼らは前進する。普通の人が一つ失敗したらへこたれてしまうところを、彼らは一つ、二つ、失敗しても次の策を打ち出して動いていく。
この時、彼らはその意味について考えない。
人生の意味、生きる意味、神の不在、宇宙の発生と終わり。そうした抽象的な事を考えるのは後ろ向きな人間に限られている。前向きに活動する人は考えない。
彼らはただ前進する。生きる意味について考える前に生きようとする。
それが正しい事なのかどうか、私にはわからない。ただ私が中年になって思うのは、前向きの人間と後ろ向きの人間の結論は究極的には一致するという事だ(こんな事を考えるの後ろ向きの人間に限られているが)。
というのは、後ろ向きな人間は、人生の意味や世界の価値について散々思考を巡らせたあげく、結局それらに自分の思うような意味も価値もないと認めざるを得ないからであり、これは前向きな人間からすれば、前進、前進、前進の果てについぞ、前進が不可能になり、自分のひたすら前進してきた人生がなんであったかを振り返れば、そこには何の意味も見いだせないからだ。
両者は最後の答えにおいて一致する。一方は生きる意味についてひたすら考え、一方は全く考えなかった。後ろ向きな人間が「無意味な思考は中途でやめればよかった、もっと具体的に生きればよかった」とか、前向きな人間が「がむしゃらに前進するだけの人生ではなく、もっと生について熟考し、その価値を知る事ができればよかった」と反省したとしても、それは隣の芝生が青いという以上の意味はない。
…そういうわけで別に何か意味があり、何かが素晴らしいという事もないのだが、人間のタイプとしては前向きと後ろ向きでは随分違うだろうと思う。
私などは後ろ向きな人間なので文学を愛好していたが、それにもうんざりしつつある。自分の心を作品の中の他者と分かち合う事。しかしそれをしてどうなるというのか。
しかしそんな事を考えるというのも後ろ向きの人間ならでは、だ。
こうした思考をやめて、書を捨てて街に出よ、という風に進めてくるのが前向きな人間の特徴だが、それは前向きな人間もまた自分と同じような人間がいて欲しいという願望の発露でしかない。
前向きな人間にとっては場当たり的な、目の前の壁を突き破る事が普段の目的であり、その壁を破る事が究極的に何であるかはわからないし、考えもしない。が、前向きな人間は全ての壁を破った果てに一体何もなく、ただ宇宙の真空があるだけかもしれないという、形而上的な虚無の結論に無意識的に怯えている。だからこそ自分と同じような前向きの人間を評価し、哲学書などをいじくり回している人間を軽蔑する。
もちろんそれら全てに何か意味があるわけではない。
ただふと思うのは、後ろ向きの極点とは結局、「死」ではないか、という事だ。ここで言うのは具体的な死ではなく、思想としての死であるが、この「死」というポイントが後ろ向きの人間にとって最後のポイントのような気がする。
この領域において、彼はその存在が消える…だが彼は彼が「死んだ」事は知っている。
あの世か、天国か、地獄かはわからないが、あらゆる他者から阻まれた自己を見ている他者の存在だけはありうる。それは「死」という最後の特異点ではないのか。
自分だけがいて、人は自分以外存在せず、それでも自分を見ている「誰か」は存在する。そんなスポット。
この死のポイントから生を見ると、生が実によく見えるだろう。ドストエフスキーの「罪と罰」以降の作品は明らかに全てが「裏側」から描かれている。燃えるような希望も、救済への跳躍も、全ては作者が一度死んだようなポイントから見られている。
それ故に、ドストエフスキーの作品においては、普通、我々が絶望と見るような、人間が欲にとらわれ破滅していく姿もあたかも、ドストエフスキーが生を肯定している、そんな思想に裏打ちされて描かれているように見える。
それというのは結局、ドストエフスキーが牢獄で一度死んだ存在だからではないか。彼にはそこから世界から反転して見えたのだろう。
それと比べた時、トルストイは生の世界から死の世界へ落ちていこうとする存在である。トルストイの足をついに彼岸を越えない。それはトルストイが最後まで貴族という立場を捨てられなかった事と一致しているように思える。
もちろん、これら優れた文学者の営為は、後ろ向きの人間にとって希望か絶望か、それはわからないし、おそらくはそのどっちでもないが、ただ、後ろ向きの人間にとってわずかに慰安となるのは、自分よりも後ろ向きに生きて、しかもその後ろ向きの姿勢を客体化して人類の宝とした人物が過去に存したという事実があるためだ。
こうした視点から見る時、現代の作家の多くは私にはあまりにも前向きすぎる気がしている。