08.国を跨ぐ神殿から動かすの
リヒター帝国の宮殿に戻った翌日、私は早速動いた。兄様達は一日休んで明日にしろと止めたが、早ければ早い方がいいでしょう。可愛い我が子の守り袋ですもの。リヒテンシュタインの家名で受け取れば、あの子の所属がリヒター帝国だと公的に記録できるわ。
すぐに伝令が出され、神殿側の返事を待たずに出発する。皇族の乗る馬車は、広すぎる庭で遠回りしてから到着した。早く着き過ぎると、準備が間に合わないでしょう。こういう配慮は貴族社会で大切なのよ。
出迎えの準備も出来ており、気持ちよく神殿へ迎え入れられた。九柱の神々にいつも通り拝礼し、普段と同じように女神像に花束を捧げる。愛と豊穣を司る女神は、私の守護神でもあった。
リヒター帝国では、すべての子が神々の判定を受ける。三歳になると、神々の像の前に座らせるのだ。九柱の神々の足元へ向かい、守護神を決めた。これは人が選ぶのではなく、神々が選んで引き寄せると言われている。
聖なる判定と呼ばれる儀式までの間、幼い子供を守るのが神殿で用意する守り袋だった。貧富の差なく、全員に配布される。その守り袋を受け取る際に署名することで、神殿が人の管理を行ってきた。
大切な儀式なので、急な来訪でも神殿は拒まない。アディソン王国の思惑がはっきりしない状況で、先手を打たれるわけにいかなかった。婚姻の決め手となった情報が操作された可能性がある以上、イングリットの申請を早く確定させたい。
「守り袋でございます。署名をお願いいたします」
「ありがとう。寄進もさせて下さいね」
今回の騒動は、二つの国の問題で済まない。なぜなら、神殿が絡んでいるからよ。人の管理を行う神殿は、生き死にはもちろん婚姻や離縁も支配下に置く。その神殿を騙そうとしたんだもの。
国を跨いで存在する神殿を敵に回せば……アディソン王国の土台が揺らぐ。民の信仰心を甘く見積もったツケは、彼ら自身で払えばいいわ。
「イングリット・クリスティアーネ・リヒテンシュタイン姫……皇帝陛下の姪で養女として登録させていただきます」
神殿の神官達は賢い。きちんとした教育をうけ、礼儀作法を身につける。明らかに夫の存在を無視した私の署名に、何も言わなかった。
「お久しぶりにございます、ヴィクトーリア姫様」
リヒター帝国の神殿で、私を姫様と呼ぶのは大神官ウルリヒのみ。ゆったり裾を捌いて振り返り、微笑んで会釈した。
「久しぶりですね、ウルリヒ大神官様。少しばかり話がしたいわ。お時間を頂けるかしら?」
「姫様のご希望とあらば、このウルリヒが断ることはございませぬ」
穏やかに年を重ねた彼が差し出す手は、皺と血管が目立つ。その手を取り、神殿の奥庭へ向かった。かつて一緒に過ごした東屋は、今も昔と変わらぬ美しさを保っていた。神殿の敷地でしか育たない青薔薇が、咲き誇る庭は人払いされる。
「ここは変わらないわね」
「姫様は多少、お変わりになられましたか」
「ええ。色々あったのよ」
用意されるのは、必ず花茶だ。私が好きだからではない。神官は花茶を日常的に飲む。ウルリヒに頻繁に会いに来た私は、ここで飲んだ花茶を好きになったの。慣れた味に口をつけ、本題を切り出した。