50.囚われた蝶のように ***SIDEオリーヴィア
宰相閣下より、婚約の打診があった。といっても、お相手は宰相閣下ではない。兄上の皇帝陛下だった。驚いて目を見開く。
「わたくし、ですか?」
「ああ、そうだ。父上は喜んでいるが、どうだろうか」
「プロイス王国の姫君と婚約なさっていたはずです」
わたくしは先日、婚約を解消されたばかり。政略結婚先のトラブルで戻られた皇妹殿下と違い、華やかさも地位もない。求められる要素がわからなかった。なぜ、わたくしなの?
「婚約は白紙に戻されたそうだ。原因はプロイス王女の側にあるらしい」
貴族の間で流布された噂は事実だけれど、公式には確定しない。そういう意味かしら。つい先日のお茶会で、噂を小耳に挟んだばかり。表と裏を想像するのは容易だった。噂が否定されず、火消しもせずに流れているなら……事実上の公式発表と同じ。
貴族家嫡男である兄は、公式通り「らしい」と表現するに留めた。困ったような顔をしながら、我が家の立場を話し始める。
「ザックス侯爵家としては、顔合わせだけでも頼みたい。皇族の頼みを断れる立場じゃないし、宰相閣下に睨まれるのも困る」
当然ですわね。頷いたが、まだ承諾したくない本音が強い。このまま小姑さながら、家に残ることも許されないと知っているけれど。すぐに気持ちの整理がつかなかった。
「長年の婚約が消えて、気落ちしているのは……本当に申し訳ない。ただ、婚約の解消については、オリーヴィアに過失はない」
ええ、わたくしに過失はなかった。お相手の家が消えてしまっただけのこと。貴族社会で没落は稀にあるけれど、主家に逆らって滅びる家はさらに珍しい。その稀有な例を、わたくしが引き当ててしまった。
ノイベルト公爵家は、皇族の暗殺未遂事件を起こした。嫁ぎ先が滅びたため、私の婚約は自動的に解消になる。婚姻間近だったため、神殿からも見舞いが届いたほどよ。大神官様のお心遣いに感謝しなくては。
ノイベルト公爵令息である婚約者には、婚前なのに恋人がいた。結婚後なら愛人や妾と称される存在よ。政略結婚だから、相手は公爵家だからと不満を呑み込んだ。その相手から解放されてすぐ、また窮屈な婚約だなんて。貴族令嬢は不自由な立場ね。
「皇族、それも皇帝陛下だなんて、畏れ多いことですわ」
「一度お会いして、どうしても無理なら辞退できないか掛け合う。だから……頼む」
仲良く過ごしてきた兄に頭を下げられ、わたくしは顔合わせを承諾しました。他に逃げ道はないのでしょう。頷いたわたくしに、兄はほっとした表情で膝から崩れ落ちた。
大丈夫よ、ノイベルト公爵家に嫁いだ後ならともかく、わたくしは何も知らない。問い詰めるためなら、出頭命令が出たでしょう。お見合いをして、皇帝陛下に断られるよう仕向ければいい。少しだけ無作法をして、叱られるくらいでいいの。
自分に言い聞かせて、覚悟を固めた。わたくしの言動で、ザックス侯爵家の未来が決まる。父母や兄に迷惑をかけないよう、与えられた役目を精一杯こなしてきます。
数日後、かつてないほど豪華なドレスに身を包み、静々と皇宮を歩く。廊下ですれ違う人達の視線が注がれているような気がして、自意識過剰なだけと心で繰り返した。案内に立つのは、宰相閣下と二人の侍女だ。
「こちらです、どうぞ」
誰にでも丁寧な口調の宰相閣下が示したのは、庭にある噴水近くの東屋だった。待っているのは一組の男女で、絵画のような美しさに足を止める。褐色の肌に銀髪の美女と、日に焼けていない白い肌に金髪の男性……皇帝陛下だった。
促されて先へ進み、視線を合わせないまま深く腰を折る。膨らんだオレンジ色のドレスの内側で、足を引いて一礼した。
「帝国の偉大なる太陽、皇帝陛下にご挨拶申し上げます。ザックス侯爵家長女オリーヴィアにございます」
「顔を上げてくれ、無理を言ってすまなかったな」
優しい声と言葉に、思っていたのと違う。そう思いながら、腰に力を入れて身を起こした。目の前に広がる青い瞳、隣の美女も同じ透き通る青の瞳を瞬く。その瞬間理解した。ああ、もう囚われてしまったのだ、と。




