02.娘の存在だけは感謝している
足が伸ばせるどころか、寝たまま移動ができる。野営も可能な寝台馬車は、居心地がよかった。硬い地面の揺れも、寝台のマットが受け止めてくれる。左右に揺れるのは仕方ないけれど、上下の揺れが軽減されるだけで楽だった。
転がって頭を打たないよう、我が子を抱き締める。目を覚まして指を動かす姿が、本当に愛おしかった。隣国との和平のため、彼と結婚したの。モーリスへの愛情や未練はないけれど、この子を与えてくれたことは手放しで喜べるわ。馬車の揺れに身を任せ、可愛いイングリットに微笑みかけた。
赤子がいると伝えたので、野営はしない。その代わり、街道をかなり急いだ。万が一にも、追いつかれる事態は避けたい。騎士団長であるモーリスに気づかれたら、国境を封鎖される危険性もあった。彼はスチュアート公爵で、庶子だけれど王族の一員だもの。
皇帝となった一番上のルヴィ兄様も、それを懸念してフォルト兄様を派遣したのね。リヒター帝国の軍を統括する元帥を、ほいほいとお遣いに出すなんて。後で叱って差し上げなくちゃ。ふふっと頬を緩めた。
「休憩するぞ、トリア」
愛称で呼ぶフォルト兄様に頷き、止まった馬車を降りる。駆けつけた乳母にイングリットを預けた。乳母のアンナはリヒター帝国出身なので、このまま実家に帰ると聞いている。侍女や侍従も、希望を聞いて紹介状を出した。私が嫁ぐ際に同行した使用人は、全員が帰国を希望している。
「お嬢様、元帥閣下。お席をご用意しました」
木陰にパラソルとテーブルセット、まるで屋敷の庭でお茶を飲むように、完璧に準備されていた。旅の途中でも手抜きはない。侍女エリーゼは、皇宮でも私の専属だった。気が利くし、とても愛らしいの。お礼を言って、席に着く。
「大まかな事情は聞いたが……アディソン王国もバカなことをしたもんだ」
「フォルト兄様、そのお話は帰ってからにいたしましょう」
「それもそうだな、兄上達も同じ話をしたがるだろうし」
フォルト兄様は肩を竦めて笑った。派手な赤毛がきらきら光を弾く。私達は全員、母親が違う。そのため髪色や肌の色も少しずつ違った。ただ、瞳の色だけは父親譲りで、全員同じ青だ。幸いにも、娘イングリットにも引き継がれた。
私にそっくりのイングリットは、銀髪や褐色肌も受け継いだ。夫の要素がほぼないから、余計に可愛いわ。結婚してから結っていた髪も、今は解いている。風に揺れる銀髪を手で押さえた。
「今夜は、二つ先の街で宿を取る。帝国に入るのは、明後日の昼頃の予定だ」
軽食を兼ねたスコーンを手で二つに割り、片方を差し出す兄に苦笑いする。マナー違反だと叱られても、まったく気にしないのよ。「兄上の毒見をする」と、口を付けていた名残りかしら。
文句を言わずに受け取り、ジャムを載せて口に入れた。ふわりとオレンジの香りが広がる。懐かしい味はとても美味しかった。
「お嬢様の好きなオレンジをご用意しました」
「ありがとう、エリーゼ」
見上げた空は青く、雲がいくつか白を添える。天気にも恵まれて、最高の旅になりそうね。