125.今更ながらに婚約を意識した
宿で一泊する。何度も経験したし、アディソン王国へ嫁ぐ際も利用した宿よ。エリーゼを連れて宛がわれた部屋で寛ぐ。ノックの音に入室許可を出した。最上階となる三階のフロアは、完全な貸し切りだった。そこへ入れる人間で、護衛がノックを許した人物。
「トリア様、お食事はどうなさいますか?」
「そうね、あなたと一緒に食べるわ」
深く考えた言葉ではなかった。王族やそれに準ずる貴族が同行していれば、旅の宿で一緒に食事をすることがある。だから口から出た、ごく当たり前の言葉なのに。クラウスが真っ赤な顔になるから……釣られて私の顔も赤くなった。耳や首筋を手で覆う。
「っ、承知しました」
「……こ、言葉遣いが硬いと思うの。普段の話し方でいいのよ?」
「いいえ。これはケジメですので」
落ち着きを取り戻したのか、普段と変わらぬ所作と口調で彼は部屋を出る。でもやっぱり顔は赤いままだった。食事を一緒に取る……何か特殊な意味があったかしら? 首を傾げたけれど、思い当たらない。
「ローヴァイン侯爵閣下は、姫様に心から惚れておられるのですね。あの男とは違っていて、安心いたしました」
エリーゼが笑顔で私のドレスを用意し始める。宿で婚約者と食事をする、出先だしドレスでなくてもいいのよ。わかっているのに、彼女は肩の出るドレスを選んだ。気合いが入りすぎに見えないかしら?
「レースの上着を用意しておりますので、問題ございません」
逆にそこまで着飾ると、意識しすぎと取られそう。懸念を口にするたび、エリーゼは笑顔で次の案を提示してくる。根負けして、任せることにした。場に合わない服装は滑稽になるけれど、公務での旅だから……侍女に任せれば大丈夫なはず。
肩の出るドレスは、かろうじて細いリボンが肩に乗っている。胸元はさほど際どくないし、足元のスリットも控えめだった。色は紺色、金の装飾品を纏うけれど宝石はなし。正式な晩餐ではないけれど、家族の食事会より少し豪華な感じね。
「お綺麗です」
「ありがとう、エリーゼ」
「婚約式が楽しみです」
どきりとした。そうだったわ。この騒動が一段落すれば、すぐにでも婚約式に取り掛かる。そのためにもフォルト兄様のお相手を見つけないと。ガブリエラ様のところに滞在していると助かるわ。砦から入った情報では、ガブリエラ様が大暴れの一報が記されていた。
嫁姑戦争と呼ぶには早すぎる。義息子の嫁になれる器か、確認したといった状況かしら?
「姫様、侯爵閣下がお見えです」
慌てて考えから抜け出す。軍服に似てかっちりした紺を着こなすクラウスに、絶句する。まるでお揃いみたいだわ。振り返ってエリーゼを睨むが、彼女は笑顔でゆっくり一礼した。顔を上げて「お似合いです」と声に出さず伝えてくる。
これはやられたわ。どうやら侍従と打ち合わせて、衣装の色や雰囲気を合わせてきたのね。気恥ずかしさはあるけれど、嫌ではない。息を吐いて、すっと右手を差し伸べた。
「エスコートしてくださる?」
「光栄です。輝かしきヴィクトーリア姫のお手に触れる栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」
大仰な言い回しに、くすっと笑う。緊張が解けたわ。クラウスのこういうところ、好きよ。恋心を自覚してから、彼の好きなところをいくつも見つけてきた。これもその中に加えましょう。
隣の部屋に用意されたテーブルまで、ゆっくり移動する。踵の高い靴で踏み出せば、柔らかく上質な絨毯が音を呑み込んだ。椅子を引く執事に頷き、すっと腰掛ける。クラウスも着席すると、前菜が運ばれてきた。今日はお酒はやめておきましょう。食前酒はグラスを伏せて断り、煮込み料理を堪能した。