117.試すなんて二度目は許さない
軍馬を奪えば、一番最初に必要なのが水よ。なぜなら、そう訓練されているから。戻れない状況になれば、水場を目指そうとする。昏倒させて運ぶのでなければ、川か井戸のある場所にいるでしょう。馬の生存を確保する意味で、水場を探すよう教え込まれていた。
侍従が運び込まれた民家のある位置を地図で確認し、一番近い水場を探した。少し離れるけれど、川があるわね。本流から分かれた支流は、農業用に引き込まれていた。真っすぐに水を目指すなら、このくらいかしら? 手にしたペンで印をつけた。
「フォルト兄様がいたらよかったけれど」
こういう荒事はフォルト兄様が得意なのに、今は離れていて呼びつけるわけにもいかない。首都防衛に残った帝国軍の中から選びましょうか。
「エーデルシュタイン大公閣下ほどではありませんが、よい騎士がおります。ティム・リールではいかがですか?」
クラウスが口にした名は、聞き覚えがあった。フォルト兄様が褒めていたので、記憶に残ったの。確か直属の部下にならないかと誘って、断られたのよ。目の不自由な妹君がいて、首都から離れたくないと聞いたわ。
「彼は家族のために首都を離れないはずよ」
「ご存じでしたね。日帰りなら行かせられます」
自信ありげに請け合うので、理由を尋ねた。返ってきたのは意外な答えで「彼は私の幼馴染みでして、泊りがけの任務の時は我が家で妹を預かるのです」
家族とぼかしたのに、妹と言い当てた。どうやら本当に知り合いみたいね。でも、未婚の令嬢を屋敷で預かっていたの? 騎士階級で貴族ではないけれど、結婚できないわけではない。もやっとして深呼吸した。個人的な感情は後回しにしなくては……。
「ちなみに、ティムの妹はドーリスと言いまして……私の弟の婚約者です」
「……え?」
驚きで目を見開く。だが、すぐに表情を取り繕った。遅かったけれど……。
「ご心配なく、私がトリア様以外の女性に興味を持つことはありません」
っ、この男! 私を試したのね!?
腹が立つと同時に、羞恥で赤くなりそうな顔を必死で誤魔化す。深呼吸し、感情を落ち着けて何もなかった振りをしようとして……やっぱり無理だった。
「どういう、つもり?」
「申し訳ございません、トリア様のお気持ちを知りたくて……無礼をいたしました」
素直に謝罪する男の言い訳に、可愛いと思うなんて。私もたいがい壊れているわね。ガブリエラ様がお父様を可愛いと表現したときは、あの狸が? と思ったけれど。確かに自分だけに懐く男は可愛いわ。それが何らかの実力を持っているなら、なおさら。
お兄様達に抱く感情とは、全く違う。不思議な感覚だった。支配する満足とも違うし、騙された怒りや悔しさでもない。
「二度目は許さないわ」
「はい」
平然と返すクラウスは、二度目もやりそう。でも怒ったとしても、私は次も許すでしょうね。嫌な予感が生まれ、口角を持ち上げた。
「それで、ティムは使えるのね?」
「はい。準備させます」
命令を出して、ふと気づいた。エック兄様が静かだわ。一言も口を挟まなかった。顔を上げれば、エック兄様は淡々と書類に署名をしている。私達の会話が終わったタイミングで手を止めた。
「決まりましたか? ならば、お任せします」
エック兄様らしくないわ。そう思ったけれど、顔も首も耳も……真っ赤じゃないの。もしかして、私達の会話を「痴話喧嘩」か「いちゃつき」と思っている? 慌てて違うと否定するのも変だわ。誤解を解くのも難しそうなので、私は溜め息一つで諦めた。
「馬の確保はクラウスに任せます。指揮官をティム、十名の騎士をつけてあげて。私はジルヴィアと部屋に戻りますわ」
承諾の声を聞きながら、書棚の前にあるベビーベッドに近づく。移動式のベッドは、カートのように押して歩けるよう工夫されていた。エリーゼと並んで廊下に出ると、彼女に指摘される。
「お嬢様、顔が赤いようですが」
「自覚はあるわ。熱はないから安心してね」
察して黙るエリーゼの代わりに、ジルヴィアが「あぶぅ」と声を上げた。しばらく部屋に閉じ籠りたい気分よ。無理だけれど。