113.ジルヴィアが無事でよかった
「怒っているの?」
「そう、ですね。腹が立ちます」
誤魔化すかと思ったのに、正直に返ってきた答え。クラウスの顔を見るために足を止めた。眉根を寄せて機嫌が悪そう。苦虫を嚙み潰したよう、と表現するほどではない。私のほうが冷静になってしまい、再び前を向いて足を踏み出した。
「何に対してか、聞いてもいいかしら?」
「二つあります。トリア様に心痛をかけたこと、まだ庇護が必要な皇女殿下を連れ出したことです」
「……勝手に砦から帰ってきたことは問題ない?」
ちょっと意地悪な質問をした。見取り図で示されたのは、表宮から中の宮へ向かう途中、応接用の客間が並ぶ一角だった。見えている角を左に曲がれば、もうすぐそこだ。
「そちらに関しては、皇太后陛下が許可を出されたのかと愚考いたしました」
満足できる推察に、大きく頷いた。ガブリエラ様が許可していなければ、お父様は砦を出られない。単独で乗馬できないお父様が、ここまで戻る時間を考えても……二日近く前に許可したはずよ。何か用事があったのか、来客の予定があって追い払ったか。
フォルト兄様の婚約者候補が向かっている話を聞いて、お父様を追い出した可能性が高いわ。護衛をつけて、きちんとした形で馬車で見送った。問題があるとしたら、どうしてお父様の到着が伝わらなかったのか。勝手に入り込んで悪さをしたお父様の行動も含めて。
「何かありそうね」
「ああ、なるほど。先代陛下の行動が不可思議という意味でしょうか」
にっこり笑って足を止める。ノックしたクラウスが扉を開けた途端、聞こえなかった音が押し寄せた。大泣きするジルヴィアをルヴィ兄様が必死であやし、お父様を叱りつける叔父様の声が重なる。お父様が言い訳しようとするたびに、叔父様が「黙って聞け!」と遮った。
阿鼻叫喚の現場に、怒りが薄れてしまう。大急ぎで駆け寄る私は、クラウスの腕を離した。空になった手を伸ばし、可愛い娘を受け取る。ジルヴィアは顔を真っ赤にして、全力で抗議の泣き声を上げていた。両手両足を縮ませて、力んでいるわ。
「大丈夫よ、ジルヴィア。私の可愛い娘……落ち着いて、ほら、お母様よ」
泣き疲れたのか、声が聞こえて落ち着いたのか。ジルヴィアの泣き声が小さくなる。綺麗な帝国の青の瞳も、涙で台無しね。赤くなった目の縁を撫でて、抱いたまま体を揺らす。ゆっくりと目が閉じたのに、しゃくりあげるような呼吸でまた機嫌が悪くなった。
根気よく落ち着かせ、専属侍女のエリーゼを呼ぶ。扉から漏れる音に気付いた侍従が数人、壁際に控えていた。彼らの手配で隣の部屋へジルヴィアを逃がす。だって、叔父様がまだ叱りつけている最中だもの。ジルヴィアが眠れないわ。
駆け付けたエリーゼに任せて戻りたいけれど、ルヴィ兄様もいるし……任せましょう。クラウスは私に付き添い、客間の椅子に腰を下ろした。並んで座るクラウスが、優しい手つきでジルヴィアの顔にタオルを当てる。
「無事でよかったわ」
お父様の仕業と気づいて、命の心配は消えた。でも違う意味で不安になったの。お父様って、赤子の扱いを知らないはずなのよ。ルヴィ兄様が生まれた頃は忙しくて触れていないし、年の離れた私達三人が生まれた際もある程度育つまで顔を合わせなかった。
孫が可愛いのはわかってあげたい。でも親から引き離すのはダメ。お父様は仕事に関してはきちんと思考するのに、家族のことだけは感情で動くわ。きちんと言い聞かせないとね。
「トリア、少しいいかい?」
ルヴィ兄様が顔を見せ、私は少しだけ迷った。
「お任せください、お嬢様。お休みになった皇女殿下を見守ることはできます」
乳母ではないから専門家ではない。でも泣いたら連れていくことはできる。エリーゼの頼もしい発言に頷き、複数の護衛を付けた。従者三人と騎士二人、最低限このくらいは必要ね。