冒険にでかけよう
壁ぎわにあるベッドの上が、あたしの読書タイムの指定席。
ふわふわクッションを壁に立てかけ、それにもたれて足を投げ出しながらすわる。
右どなりには枕。左どなりにはうさぎちゃんのぬいぐるみ。膝の上には一冊の本。
うん。これくらいの厚さの本なら、おやつの時間までには読みおわるよね。なわとびの練習は、おやつを食べたあとにしっかりやろう。
あざやかな黄緑色の表紙をひらきながら、あたしはひとりうなずいた。
どうしてなわとびかといえば、今朝ママと約束したからだ。今日の午後は本を読むけど、なわとびも必ずやるって。
だから午後一番に読書して、そのあと約束を果たそうというのが、あたしの計画だった。
正直言って、なわとびするのはちょっと苦手。でも、決めたのはあたし自身なんだから、約束は絶対守ろうって思ってる。
じゃあ、読書より先になわとびすればいいんじゃないかって?
それは無理。だって、いますぐ読みたいんだもん。午前中は宿題に時間がかかっちゃったから、本を読むひまがなかったんだ。
きのうママの実家に遊びに行ったとき、おじいちゃんがくれたのは、図書館で見かけてからずっと気になっていた本だった。
タイトルは『エルマーのぼうけん』。だから、帰りぎわにおじいちゃんが手渡してくれたときは、思わず声をあげちゃった。
そんなあたしに、おじいちゃんもうれしそうだった。
おじいちゃんは、あたしが本好きなことをよくほめてくれるの。読書タイムっていう言い方を教えてくれたのも、おじいちゃんなんだよ。
それとは逆に、ママはあんまりいい顔をしない。前はよく図書館に連れて行ってくれたけど、最近は、本ばかり読んでないでもっと外で遊びなさいって言う。
「ほのかちゃん、八歳はからだが大きくなる大事な時期だから、外で遊んでたくさん運動したほうがいいんだよ」
と、ママ。
「そうすれば自然にからだがきたえられて丈夫になるし、体育の授業も運動会も、もっと楽しくなる。それに」
それに、お友達はみんな公園で遊んでるから、いっしょに遊んでなかよくなってほしい。ママはあたしをみつめると、まじめな顔でそう言った。
公園で遊ばなくても、お友達とはなかよしだよ。ななちゃんやみさきちゃんとは毎日いっしょに登校してるし、学校でだっておしゃべりしてる。
あたしが読書好きなのは、ふたりともわかってくれているから、公園に行かなくたって仲間はずれになんかしないもん。
そう思ったけど、口に出すのはやめておいた。
ふだんのママは、やさしい声であたしを「ほのちゃん」と呼んでくれる。
でも、ちょっと楽しくないときに出るのが「ほのかちゃん」。おこってるわけじゃないけど、この呼びかたはママの不機嫌注意報なんだ。
警報はもちろん呼び捨ての「ほのか」。これが出ないように気をつけないとね。
おっと、こんなことしてられない。早く読まなきゃ。
あたしはいそいで表紙をひらき、まず出てきた見開きの絵にうっとりした。わあ、地図だよ。どうぶつ島だって。面白そう!
わくわくしながらページをめくる。そして本文を読みはじめたけど、最初のほうでちょっと悲しい気分になってしまった。
エルマーのお母さんが、エルマーとその友だちののら猫に、とても失礼なことをするのだ。
これはちょっとひどいなあ。うちのママなら、こんなことはしない。ママはいつもやさしいもん。
そりゃあおこるときはこわいけど、たいていちゃんとした理由があるし。もしあたしが猫を飼いたいって頼んだら、きっとママは許してくれると思う。
つい、よそごとを考えてしまったけど、その先を読み出したあたしはすぐに胸をときめかせた。
エルマーは家を抜け出し、りゅうの子をさがすための旅に出る。必要なものをそろえて、リュックいっぱいにつめこんで。
ひとつひとつ書かれたリュックの中身が面白く、荷造りしている様子が楽しそうでドキドキする。
あたしはたちまち物語の中に引き込まれていった。
この瞬間が、あたしはいつも大好きだ。
せまい子ども部屋を飛び出して、現実世界からすっかりはなれて、あたしは物語の主人公といっしょになる。 主人公の姿が見えて、声が聞こえる。
あたしを呼んでる、エルマーの声。
冒険しようよ、いっしょに行こう。
さあ、早く!
それからあたしは、もちろんエルマーといっしょにみかん島に行って、どうぶつ島に行って、いろいろな冒険をして過ごした。
トラに会ったりサイに会ったり、ライオンに会ったり。
海を見たり川を見たり、森の中を歩いたり。
青と黄色のしましまがきれいな、りゅうの子に会うと、エルマーたちといっしょになって大よろこび。
ああ面白かった、と、にこにこしながら読みおわった。
そして。
読んだいきおいのままベッドからおりると、学習机の上においていたもう一冊の本を手に取り、ふたたびベッドに引き返した。
そう、おじいちゃんがくれた本は一冊じゃない。エルマーの冒険には続きがあったのだ。
時計を見たら、午後の三時になったところ。思ったとおりの時間に読みおわったわけだけど……でも、おやつを食べてなわとびする前に、ちょっとだけ。
もうちょっとだけ、読もうかな。
あたしは、続きを知りたい気持ちをおさえることができなかった。
一冊目はたしかにハッピーエンドだったけど、エルマーは自分の家には帰っていない。そのことに気づいてしまったのだ。
エルマーってちゃんとおうちに帰れたかな。勝手に飛び出していったんだもの、帰ったらママやパパにうんと叱られちゃうかもしれない。
大丈夫かどうかがすごく気になるよ。続きにはきっと、そのことが書いてあるんだ。
そこであたしは、ちょっとだけと思いながら、二冊目のページをそっとひらいた。
今度の地図はカナリヤ島というところだ。前の本ではあんまり出てこなかった、りゅうの子が、はじめから出てきてたくさんおしゃべりしている。
りゅうに乗って空を飛べるなんて、うらやましいなあ……。
そう思ったとたん、あたしのからだはもう宙に浮いて、エルマーといっしょに空を飛んでいた。りゅうの背中は安全で、金色の翼がはばたくたびにキラキラ光る。
たくさんの冒険が、今度もあたしを待っている──。
二冊目ともなると、さすがに途中で疲れてきたから、あたしはときどきベッドの上で寝ころんだり手足を動かしたりして、姿勢を変えながら読み進んだ。
読むスピードが遅くなってきちゃったけど、頭の中は物語でいっぱいだったから、やめようとは思わなかった。
だんだん部屋が暗くなり、字が見づらくなってくる。それで一度立ち上がり、電気をつけてからまた読んだ。
とうとう最後まで読み切ったときは、大満足だった。
よかった、エルマーはちゃんとおうちに帰ったし、叱られてもいないよ。最高のハッピーエンドだ!
なんだか、自分まで長旅をおえて、家に帰ってきたような気がする。
あたしは床におりると、思い切り伸びをしながら、ふっと窓の外に目をやった。
そして、そこでようやく気づいたのだった。外がまっくらになっていることに。
時計を見ると、いつのまにか六時半を過ぎている。晩ごはんを食べる時間だ。
どうしよう! やっちゃった。あたしったらやっちゃった。
楽しかったエルマーの世界が、急激に色をなくして遠ざかる。
あたしは泣きそうだった。あたしがいるのはどうぶつ島でもカナリヤ島でもなくて、ただのせまい子ども部屋。あたしがしなきゃいけなかったのは、りゅうに乗ることじゃなくて、なわとびの練習。
自分で言い出したのに、すっかり忘れてしまってた。
でも……。
家の前は街灯がついていて、とても明るい。いますぐなわとびをやれば、まだ大丈夫かもしれない。
あたしは勇気をふるいおこすと、二冊の本を胸に抱きしめたまま部屋を出た。
階段をおりて、おそるおそるダイニングキッチンのドアをあける。
キッチンでは、エプロン姿のママが、ドアに背中を向けてまな板を洗っていた。
照り焼きお肉のいい匂い。お味噌汁のおなべからは湯気が上がっている。
テーブルの上にはお茶碗やおはしが並べられ、大きめの丸いお皿には、つやつや茶色に焼けたお肉とつけあわせの野菜がのせられていた。
どう見ても、いますぐ食べるばかりになった食卓だ。なわとびをする時間なんてない。
あたしのからだが、緊張のためにかたくなる。
これは絶対、警報くる。ていうか振り向いてくれないことが、もう警報だ。
あたしは立ちすくんでいたが、意外にも聞こえてきたママの声は静かだった。こちらに背中を向けたまま、感情のつかめない声でこうたずねた。
「読みおわったの?」
「うん……」
するとママは、洗い物を続けながら、ひとりごとのようにしゃべりはじめた。
「その本、面白いよね。読んでると、エルマーといっしょに冒険にでかけたみたいな気持ちになる。二冊目のおわりでちゃんとおうちに帰ってきたときは、なんだか自分までうちに帰ったみたいな気がしたわ」
え……ママも読んだことあるの?
あたしがとまどっていると、水道を止めたママが急に振り向いた。それから、じっとあたしをみつめて続けた。
「それね、ママの本なんだよ。昔、おじいちゃんに買ってもらったの。裏表紙を見てごらん」
「えっ?」
あたしはあわてて、持っていた本を裏にひっくり返す。全然気づいてなかったけど、下のほうにマジックで字が書いてあり、消えかけていてもちゃんと読めた。
なかはら しおり。
ママの名前だ!
びっくりして視線をあげると、ママは流し台をはなれて、いつのまにかそばに来ていた。
あたしをのぞきこんでくるママの顔が、いたずらっぽく笑っている。そして明るくこう言った。
「ほのちゃん、おかえり!」
☆ ☆ ☆
一月の夕暮れは早い。私は野菜をきざんでいた手を止めると、窓の外に目をやった。
それから包丁をおき、二階に続く階段のほうを見に行った。
ほのかがおりてくる気配は、いっこうにない。
やっぱり本に夢中なんだわ。物音ひとつしない二階を見上げて、私はため息をついた。
きのう実家に遊びに行ったとき、お父さんがあの子に本を渡したのにはびっくりした。
色あざやかな表紙。実家の本棚におきっぱなしにしていた、子ども時代の私の本だと、ひとめで気づく。
お父さんったらもう、勝手に。しかも二冊も!
よろこんでいるふたりに割り込むこともできなくて、私はひどく複雑な気分になった。
そんな私を、お母さんが苦笑いしながら見ている。知っているなら教えてくれればいいのにな。
私だって、本を読むなと言いたいわけじゃない。そもそも私自身、子どものころから読書するのが好きだった。
だから、ほのかには幼稚園に入る前から絵本をたくさん買ってあげたし、読み聞かせにも精を出した。
ほのかが自分と同じように本好きな子であることが、素直にうれしかった。
でも、最近のあの子を見ていると、つい心配になってしまうのだ。だって、あまりにものめりこみすぎているように見えるから。
世間では、我が子が読書しないことで悩んでいるお母さんたちのほうがずっと多いのかもしれない。
だけど読みすぎるのだって、ちょっと問題ありだと思う。
「ゲームばかりしているより、ずっといいじゃないか」
と、これはのんきなパパの意見。 たしかに同感ではあるけど、二年生のいまはまだ、まわりの子たちもそんなにゲームしてないし。
それにゲームって相手といっしょにやったりすることもできるでしょ。読書というのは、完全に自分一人だけの世界だ。
私は、つけあわせにするじゃがいもの皮をピーラーでむきながら、買い物帰りに見た光景を思い出す。
今日はお天気のいい日曜日。公園では小学生たちが何人も集まって遊んでいた。
寒いけど、みんな走り回って元気いっぱいだ。子どもは風の子だものね。その風の子たちの中に、ななちゃんとみさきちゃんの姿をみつけて、私は思わず立ち止まってしまった。
ほのかはそのうち、ななちゃんたちについていけなくなるんじゃないかしら。それとも向こうが、ほのかから離れていってしまうかも……。
まあ、それは考えすぎだとしても、成長期の子どもには絶対に運動が必要だ。
だから今朝ほのかと話したとき、あの子が自分からなわとびすると言い出してくれたことが、とてもうれしかった。
うれしかったんだけど。
じゃがいもを切る私の手に、つい力がこもってしまう。
実は四時を過ぎたころ、ほのかの様子を一度こっそり見に行った。
日が落ちると一気に冷え込んでくるから、明るいうちになわとびをしてもらいたかったのだ。
でも、半端にひらいた子ども部屋のドアから中をのぞいてみると、想像通りというべきか、あの子はベッドにすわって楽しげに読書中だった。
少しくすんだ緑の表紙は、二冊目のエルマー。
あれを全部読んだら夜になってしまうのでは……。そう思いつつ声をかけなかったのは、ほのか自身に気がついてもらいたかったから。
せっかく自分で言い出したんだもの、きちんと自分で守ってほしい。
そういうわけで、私はしばらくの間子どものことを棚上げにして、夕食作りに集中した。
今日のメニューは豚肉の照り焼き、じゃがいもとブロッコリーのソテー、にんじんグラッセ。それにサニーレタスのサラダ。
一口大にしたつけあわせの野菜を、レンジでやわらかくしてからソテーで仕上げる。
暗くなっていく窓の外には目を向けず、レンジとフライパンの作業をもくもくと進めていく。
そして、にんじんグラッセを作り終えたところで唐突に思った。
これ以上、待てない。もう呼びに行く!
先ほどとちがい、今度は足音を高く鳴らして階段を上った。もちろん、気づかせるためにわざとそうしたのだ。
子ども部屋をふたたびのぞくと、ほのかはベッドで腹ばいになった姿勢で、相変わらず読書に没頭していた。
私は息を吸い込みながら、部屋に入っていこうとした。吸い込んだのはもちろん強い声を出すためだし、かなり怒気も発散していたと思う。
けれど見上げたことに、読書中の子には足音も怒気も通じなかった。
それどころか、ページをめくりながら、ときどき楽しそうに笑っている。
ほのかの心はここにない。二冊目だから、きっとあの島──そう、カナリヤ島にいるんだ。
なんともいえない気分になった私は、しばらくして、声をかけず足音もたてずに階段をおりるとキッチンに戻った。
冷蔵庫からサニーレタスを出して洗い、それをちぎってボウルに入れながら考えた。
あんなに夢中になって……。私自身が、あんなふうに本を読んでいたのはいつのことだっただろう。結婚してからというもの、家事と子育てに追われて、読書なんかずいぶん長いことしていない。
図書館に行っても、絵本のコーナーや料理本のコーナーにしか寄っていなかった。
でも、それにしてもエルマーってそんなに面白いお話だったかしら? おやつも食べないで読み続けてしまうほど?
ストーリーを思い出せなくて、私はちょっと考え込んだ。けれど、カナリヤ島の名前がすぐに浮かんできたように、大好きだった楽しいシーンがふいにひらめき、私は思わずまばたきをした。
そうだ、表紙のあのライオン。みつあみにリボンをつけたあのシーンがすごく面白くて、けらけら笑った覚えがある。
そばにいたお父さんも笑っていた。おとなも子どもも、みんながすごく楽しかった──。
結局、私はほのかを呼びにいかなかった。
頭の中には、もういいかな、と思っている私がいる。
あの子はいま、エルマーと冒険にでかけている最中なんだ。海をわたり空を飛び、緑の中ではねまわってるところなんだわ。なわとびなんて、できっこない。
けれど、そう思うそばから、もうひとりの私が強めの声で訴えてくる。
いやいや、あんまり甘やかしちゃだめ。なわとびすると約束したのはあの子自身よ。春には三年生になるんだから、少しは責任感も持たせないと。
態度を決めかねたまま、夕飯の時間を迎えてしまった。全部用意をしおわって、調理器具も洗って、あとは本人を呼ぶばかり。
さあ、どうしよう。
迷っていると、階段の明かりがつき、小さな足音が聞こえてきた。振り向かなくても、ドアを開いてほのかが入ってくるのがわかる。
ママにしかられると思って、さぞや緊張しているだろう。ところが肝心のママは、実はいまだに迷っているのだ。
とりあえず、読みおわったのかとたずねると、か細い声が「うん」と答えた。
私は半端な気持ちのまま、自分のことを語りはじめた。
「その本、面白いよね。読んでると、エルマーといっしょに冒険にでかけたみたいな気持ちになる。二冊目のおわりでちゃんとおうちに帰ってきたときは、なんだか自分までうちに帰ったみたいな気がしたわ」
しゃべっているうちに、迷っていた心がふいに定まった。振り向くと、視線の先にほのかの小さい姿があった。
上目づかいに私をみつめて、びくびくと不安そうだ。左手にはしっかりと二冊の本を抱えている。
右手にぶらさげているのは、なわとび。それを見たとき、かわいさと愛しさがこみあげてきて、胸がぎゅっと熱くなった。
本当は私だってわかっている。約束約束と言うけれど、あの約束はほのかの本心から出たものじゃない。
あれは私自身の気持ちだ。ほのかは、私がよろこぶことを言葉にしてくれただけなのだ。
声がふるえないように気をつけながら、私は言った。
「それね、ママの本なんだよ。昔、おじいちゃんに買ってもらったの。裏表紙を見てごらん」
「えっ?」
名前を確認しているほのかに、さっと近づく。びっくりしている幼い瞳をしっかりとらえて、声をかけた。
「ほのちゃん、おかえり!」
それを聞いたほのかの顔が、おひさまみたいにぱあっと輝いた。
そして直後に、はじける声が返ってきた。
「ただいま、ママ!」
おしまい
(バナーは、あき伽耶さまにいただきました)
お読みいただき、ありがとうございました。
『エルマーのぼうけん』『エルマーとりゅう』は、アメリカの児童文学です。
作者はルース・スタイルス・ガネット。
絵はルース・クリスマン・ガネット。
ほかに『エルマーと16ぴきのりゅう』という作品もあります。
絵を描いたルース・クリスマン・ガネットは高名なイラストレーターで、ルース・スタイルス・ガネットの義理の母(離婚した父の再婚相手)だとのこと。
文と絵と。どちらが欠けてもなりたたないエルマーシリーズは、本当に名作ですね。