たばこの煙
タバコを美味しそうに吸う人だった。
隣の家のベランダでゆっくりタバコを咥え、ゆっくり吸い込み、ゆっくり吐き出す。
吸い込む時に目を薄めて、なぜだかそんな表情に大人の色気を感じてしまった。
まだ自分は高校生だ。
もちろん吸う機会なんてないし、よさなんてわからない。けれど、吸ってみたいと思ってしまうほど美味しそうに吸うのだ。
「こんばんは」
抑揚もなく、感情もこもっていないような挨拶をする。
「・・・!」
驚いて、先ほどまで薄まっていた目を見開いてこちらに顔を向けた。
「あぁ、こんばんは。びっくりしたよ」
それもそうだろう。まさか自分がタバコを吸っているところを誰かに見られていたなんて思いもしないだろうし。
絶対的に一人の時間で、自分だけの空間のはずだ。少なくとも私はそう感じたし、彼もそう思っているに違いない。
「・・・タバコ、美味しいんですか?」
「いやぁ・・・美味しいかって聞かれるとわからないんだよね」
「・・・じゃあ、何で吸うんですか?」
「難しい質問だなぁ・・・何でかぁ・・・」
少し困った顔をして首の裏をぽりぽり掻いている。
そしてまた、タバコをゆっくり咥えて、ゆっくり真上に吐き出した。
口の形を変えて、真上に煙がいくように。その顔は少し間抜けというか変だ。
だけれど私に煙がかからないようにする行動だと思うとなんか嬉しい。
当たり前のことなのだろうけど。
「この時間は、必要のない時間だけれど、絶対に必要な時間だとも思っているんだ。なにも考えなくていい時間だし、逆に何かを考えることにも適している時間。矛盾しか言ってないね・・・」
「じゃあ、一人の方がいいですか?」
少し性格の悪い言い方をした。こんなことを言われたら、そんなことないというしかない。
「確かにそう思ってたよ、でも、今こうして話しながら吸うタバコも悪くないね」
予想外に嬉しいことを言われて、照れ隠しで少し目を伏せるように下を見る。
ここはマンションの10階。目の前には川が流れていて、それに面するように高速道路が通っている。早く走ることを許されているその道で、普段は温存して走っている車たちが、少し本気を出して嬉しそうに走っていた、ヘッドライトがキラキラ光っていて、その光の正体はわかっているのに、どこか幻想的な存在に見える。
「じゃあ・・・タバコの煙が見えたら、いつでも来ていい?」
「もちろん。というか、ここだけと言わず見かけたらいつでも声かけて」
それは嬉しいのだけれど、そういう事じゃない。
今の時間は、特別で、秘密で、誰にも見られたくない。
まるで煙に隠してもらっているように。
「ちょっとあなたぁ〜!手かしてぇ!」
隣の部屋から声が聞こえてくる。
あまり聞こえて欲しくない声だ。
私がもっと前に生まれていたら。
もっと前から出会っていたら。
会うきっかけがたばこじゃなければ。
もう少し違っていたのかな。
「あぁ、呼ばれちゃったよ。じゃあまたね、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
始まりと同じように、抑揚のない声で返事をする。
最初は照れ隠しで、最後は少し憤りを込めて。
隣の部屋の窓が閉まる音がする。
私は、意味もなく目の前を走り抜けるヘッドライトを目で追ってみる。なんてことのないただの光だ。
「はぁ、なにやってんだろ」
私の恋は、煙が連れてきて煙と一緒に消えていく。
ちょっと重いかな・・・