ひまわり迷宮
あれから五十年以上の時間が流れた。
“僕”と言っていた子供が、いつのまにか“俺”なんて言う、おっさんに――いや、おじいちゃんになってしまった。
奈津子は白髪を染めてるし、俺は親父に似て見事に禿げた。
アルバムの中の、あの日父が撮った白黒写真――ひまわり畑で僕となっちゃんが手をつないでいる。あの日から、俺達夫婦の全てが始まったのだ。
父が心筋梗塞で亡くなった後も、母は一人、島で暮らした。
娘の春香が結婚し、お腹に千夏がいると分かった頃、癌で入院して
「きっと女の子よ」と言って亡くなった。
ウチの家系はどうも、男が肩身が狭い。
転勤の多い仕事で、奈津子には苦労ばかりかけた。
ずっと社宅住まいだったが、来年六十五歳で定年を迎えるのを機に、二世帯住宅を建て娘夫婦と孫と一緒に暮らすつもりでいる。
今日もその相談で娘夫婦が孫の千夏を連れて来ていた。
“ちなつ”とうまく言えなくて、いつのまにか自分のことを“なっちゃん”と言うようになっていた。
昔の奈津子のように。
千夏は奈津子に似ている。隔世遺伝と言うやつだ。
だから千夏が、「パパ、ママ」と言うたび、どきりとする。
あの日蝕のひまわり畑を思い出すからだ。
パパとママはお墓。……縁起でもない。
奈津子は「大きくなったら、お父さんお母さんになりますよ」と笑っている。
家は、土地選びが難しい。娘婿の明くんの通勤もある。
「八丈島に建てると言うわけにはいかんものな」
俺は父とおんなじ禿げた頭を掻く。
歳のせいだろうか、無性にあの島が懐かしい。ガジュマルの木、潮風、父さんと母さんのいた家。
おねしょの隆くんは、今では島でハイヤーの運転手をしている。
他の三人はどうしてるだろう。歌手になったとか、小説家になったとかは聞かないが。
「そういえば、今年の五月にまた日蝕があるんです。ちょうど三サロスめだから、八丈島でも見れますよ。みんなで見に行きましょうか」
娘婿の明くんが言った。
「三サロスめ? どういうことだ」
「サロスというのは、日蝕の周期の単位なんです。紀元前七世紀頃のバビロニアの占星術師の名前で、サロスの周期と呼ばれています。
六五八五日と約三分の一日(十八年十日八時間)サロスの周期ごとに太陽と地球と月が相対的にほぼ同じ位置に来るため、日蝕または月食は、一サロス後にはほぼ同じ条件で起こります。
ただし、三分の一日という端数のため、地球上で三分の一日の時差(経度にして百二十度)の地点に移ります。
そして三サロス(五十四年一ケ月)後には、ほぼ同じ地点でみられるんですよ。
千三百年も前に、空を見上げてこんな計算をしてたなんて、凄いと思いませんか。
お義父さん、どうしました? 顔色が悪いですよ」
「ああ、なんだろう、頭痛がするんだ。耳鳴りも」
日蝕が戻ってくる――? 頭の中で、アルバムの中の写真がぐるぐる回る。
その時、外から春香と千夏が帰って来た。春香の美容院のついでに、千夏の習い初めたばかりのピアノの発表会で履く靴と服を買いに行ったのだ。
「おい、千夏のその髪どうしたんだ?」
「私の見て、千夏もやりたがったから、ついでにしてもらったの。フィッシュボーンと言って今こう言う髪の編み込みが、流行ってるのよ。かわいいでしょ」
「そ……うなのか?」頭痛が酷くなる。
「ねえ、みてみて。お母さんの子供の時着てたワンピースと、同じの見つけたの。ピアノの発表会にぴったりでしょ、靴もお揃いなのよ」
奈津子の顔が凍りつく。
あの日の靴、あの日のワンピース、あの日の髪型、なっちゃんという呼び方!
「やめろ、今すぐ捨てるんだ!」
俺は娘の持っている服をつかんだ。その時、突然頭がなぐられたように痛み、俺は意識を失った。
気がつくと病院の集中治療室のベッドの上だった。くも膜下出血だった。左半身に麻痺が残るといわれた。娘夫婦は、病院で一晩中付き添っていたと言う。
「春香達は?」
「さっき帰ったわ。明さん、どうしても出席しなくちゃいけない会議があるからって」
その帰り道に、事故が起きた。居眠り運転だった。
娘夫婦は即死。後部座席にいた千夏は奇跡的にきずひとつおわなかった。
パパとママはお墓――その通りになったのだ。
◇
「あなた、島に帰りましょう。千夏と一緒に」
こんな体になってしまって、会社は一年早く退職する事になった。
今いるところは社宅だから出るしかない。
財産と言えるものは、実家のあの建物だけだ。
懐かしい島、帰りたかった故郷――だがなんだろうこの不安は。
「もう決めたの」奈津子がきっぱりと言った。
奈津子は千夏を連れて先に島に帰った。
病院で携帯は使えないから、公衆電話で毎日電話をしている。
リフォームして、家の中の段差を無くしたり、手すりをつけたりしなくてはならない。
町役場に相談して介護保険の範囲でなんとかやりくりしてるとの事だ。
私は、リハビリを続けて杖があれば、一人でなんとかなるようになってきた。
島に帰る日は、日蝕の次の日の五月二十二日にした。
もう日蝕は、見たくなかった。奈津子も、承知してくれた。
二十日の朝、久しぶりに隆に電話した。フェリーの乗り場まで迎えに来てもらうためだ。
「だけど、なんで、もう一日早く来ないのさ、日蝕一緒に見ないんか?
なっちゃん――奈津子さん、おばさんみたいにひまわり植えて、お前が良くなるようにって願掛けしてるぞ」
「なんだって! 奈津子がひまわり畑を作ったのか」
また、頭痛がした。奈津子がやろうとしている事が分かったからだ。
「隆たのむ、今すぐ俺を迎えに来てくれ。日蝕に間に合うように!」
隆はすぐ来てくれた。日蝕見物の観光客向けにフェリーが増便されていて、それをうまく捕まえてくれたのだ。 奈津子を止めないと――。
◇
二〇一二年五月二十一日、六時二十分。太陽が欠け出した。
三サロスと一ヶ月、五十四年と一ヶ月後に日蝕は同じ場所に戻ってくる。
もし、奈津子が千夏なら……俺は血を分けた孫と結婚してしまうのだ!
俺は、杖と隆に支えられて、よろける足で、ひまわり迷路へと走る。
奈津子が千夏と迷路の入り口に立っていた。
あの日の靴、あの日の服、あの日の髪。あの日のなっちゃんがそこにいた。
「さあ行きなさい」
奈津子が千夏の背中を押す。
「だめだ、行くなー!」
私の声になっちゃんが振り向く。
「行きなさい! なっちゃんの幸せは、ひまわりの向こうにあるの。
振り向いちゃだめ」
奈津子の声に、なっちゃんは走り出す。ひまわりの中へ――時間の迷宮へと。
後を追おうとする俺の背中に奈津子がすがりつく。
「行かせてあげて。あの子の生きる場所はここじゃない、向こう側なんです」
「ダメだ! 二人を会わせちゃいけない。あの子は俺の孫なんだぞ」
「それでもです。
あたしはあの日あなたに出会ってから、一度も不幸だと思った事はありません。
あたしは――あの子は、幸せになりに行くんです」
奈津子のすすり泣きで、シャツの背中が濡れていく。
俺はがっくりと膝をついた。
幸せだった五十四年と一ヶ月。それは、願ってはいけない幸せだったのだ。
木漏れ日が細い三日月にかわり、空気が夜のように冷えていく。世界を闇が包む。
七時三十二分、金環日蝕が始まる。
了