なっちゃんはお嫁さん
夜中に喉が渇いて目が覚めた。
お母さんがいない、お便所かな?
寝ているなっちゃんの手をそっと離して、台所に水を飲みに行った。
その帰り道、茶の間でお父さんとお母さんが話し込んでいるのが聞こえた。
ちゃぶ台の上には、なっちゃんの服とリボンと、靴が置いてある。
「しかし、いなくなった方にしたら、神隠しにあったも同然だ。今頃必死に探してるだろう」
「いいえ、あの子間違いなく捨て子よ。きっと誰か、私が女の子を欲しがっているのを聞いた人が置いていったんだわ。
パパとママはお墓、おばあちゃんに『ひまわり畑の向こうに行って幸せになりなさい』と言われてここにきたって言うんですよ」
「しかし、あの子の服装はどう見ても都会の子だ。こんな狭い島に、子連れの旅行者が来たと言う話があれば必ず耳に入る。駐在さんが聞いて回ってくれたがそんな事実は無かった」
「海から船できたとしたら? ここは海に近いもの。
あなたには黙っていたけど、私が沖縄を出る時母が言ったの。
『お前は、男の子しか授からん運だ。だから、家の血族の中から、必ず一人女の子を送ってやる。どうかノロの伝統を絶やさないでおくれ』って。
あの子私に似てる、どう考えても私の家の血筋の子としか思えない。あの服だって、アメリカの服ならあり得るわ。だからパパとママなのよ」
「しかし、しばらく預かるならともかく、養子縁組となると……」
そんな話になってたのか……
聞き耳を立てる僕の左手に、触れるものがあった。
振り向くとなっちゃんがいた。
「おしっこ」
「あ、お便所ね。連れてったげる」
お母さん達に気づかれないように、そーっと廊下をもどる。
繋いだ手があったかい。
でも、なっちゃんはおばあちゃんに捨てられたんだ、かわいそうに。
「あのね、おばあちゃんが言ったの。
『このひまわりを通っていくと、ひまわりの中に、優しいお兄ちゃんがいるから手をつなぐの。その人は、なっちゃんの未来のオムコサンなの。
その手を絶対に離しちゃダメ』って。
お兄ちゃん、なっちゃんのオムコサンなの?」
僕がお婿さん――顔に火がついた。
なっちゃんが僕の運命の相手?
つないだ手が汗でベトベトで滑りそうになり、慌てて手を離してシャツで拭いた。
そうしたら、なっちゃんは両手で僕の肘にすがりついて、上目遣いに僕を見た。
今度は全身に火がついた。
この可愛い子が、僕の未来のお嫁さん? うわぁ!
「トイレ……」
「あ、ゴメン」
僕は、我に帰ると慌ててなっちゃんの手を引いて廊下を急いだ。
その夜は手を離さないなっちゃんの寝顔に見とれて、寝るどころではなかった。
ザクザクと鎌を使う音で、目が覚めた。
もう朝だ、隣になっちゃんがいない。すっかり寝坊して九時に近い。
日曜日でよかった。
「なっちゃんどこ?」
探しながら音のする方に向かうと、お父さんがひまわりを刈り取っているところだった。なっちゃんはお母さんと手をつないで、お父さんがひまわりを刈り取るのをみていた。そうだった。本当ならきのう刈るはずだったんだ。でも……。
「やっぱり刈り取っちゃうの?」
「だって、誰かがまたお願い事に来たら困るでしょう」
ちがう。僕は本当の理由が分かってた。
お母さんはなっちゃんを取り返されないよう、ひまわりの通路を通って誰も来れないように壊しているんだ。
その証拠に決して離すまいと、母さんの右手はなっちゃんの左手をぎゅっと握ってる。僕のお下がりのパジャマを着たなっちゃんは、困ったような顔をしてお母さんを見ている。
なっちゃんの右手が、何かを探すように空を泳ぐ。
僕の左手がその手を握る。闇の中、ひまわり迷路で初めて会った時と反対だった。 なっちゃんの顔が僕の方を向き、安心したように笑った。
お母さんにはなっちゃんが、なっちゃんには僕が必要なんだ。
「なっちゃんは僕が守ります、絶対にこの手を離しません。きっと幸せにします、だからなっちゃんを僕たちにください」
あの日、刈り取られてゆくひまわり畑に向かって、僕は心の中で誓ったんだ。
◇
一九七○年、春。なっちゃん――今は奈津子の、高校卒業と同時に僕達は結婚した。
あの日、僕が「なっちゃんをお嫁さんにする」と宣言して、父が養子縁組をせず、里子として預かるように手配してくれたおかげだ。
当時の駐在さんや、みんなの証言を証拠として保管してくれてもいた。
そうでなくては、DNA鑑定などない時代、奈津子が母の娘ではないと証明するのは難しかったろう。
二人は呆れるほど似ていたのだから。
「感謝しろよ」と、父は僕を小突き、
ウェディングドレスを着た奈津子を見て、母は、
「やっとなっちゃんが私の娘になってくれた」
と言って大泣きした。普通は、息子の方を見て泣くもんだろうに。
その翌年、一九七一年(昭和四十六年)六月十七日、日米間で「沖縄返還協定」が署名され、沖縄の施政権が日本に変換されることが決まった。
そして、一年後の五月十五日の本土復帰とともに、仕事を抜けられなかった父を除いて、僕達は沖縄に飛んだ。
母は、最後までしぶっていた。身元が分かって、奈津子を取られるのではないかと恐れていたのだ。
でも僕と奈津子は、どうしてもその人達にあってお礼が言いたかった。米軍の占領下で、国境をこえる危険を冒してまで、奈津子を連れてきてくれたノロ達に。
ところが……。母の親族達は一人残らず既に亡くなっていた。母の故郷は沖縄戦でも特に激戦区だったのだ。では奈津子は、いったいどこから来たのか?。
その時、奈津子が言った。
「これでいいの。奈津子の故郷はお母さんと優さんなの」
奈津子の右手が母を、左手が僕の手を強く握る。
あのひまわりの日のように。
この手を決して離すまい。僕はもう一度、母の親族の墓に誓った。