白子と鎌倉殿
「おいおい菖蒲、聞いたぞ、お前京に行くんだってな」
いつもと変わらぬ天気の良い日、日が照り暖かな町の一角で菖蒲がいつもの通り琵琶の手入れをしていると蔓草丸が絡んできた。
「旅行よ」
「傀儡の連中とか」
「何か?」
「いや…京に上るなんて正気じゃねぇ」
「また京の悪口?」
「悪い事は言わねぇ、あそこには行かない方がいい」
「あなたの言う事が正しいかどうか、直接行って確かめてくる」
「かぁー、言っても聞かねぇな、お前は」
「頑固ですから」
「あーたく、なら気をつけていってこい」
「どうも」
「あのなぁ…言っとくけど…って誰か来た、サムライだ、俺は逃げる」
そそくさと菖蒲の側から離れる蔓草丸。
替わりに大人のサムライが2人。
「君が琵琶弾きの菖蒲という子かね?」
「はい、そうですが何か?」
「殿がお呼びだ、一緒に屋敷に来てもらう」
「……」
鎌倉殿に呼ばれた菖蒲は部下らしき2人のお侍と共に屋敷に行った。
板敷の部屋に通された菖蒲。
部屋には何人かの気配がある。
「菖蒲ちゃん」
声をかけられその1人が大姫様である事が分かった。
「この子が?」
「はいお父様」
大人の男の人の声と三幡様に声。
「久しぶりだね」
「頼家様ですね、お久しぶりです」
「私を覚えていますか?」
「御台所様ですね、お久しぶりです」
年配の女性の声、これは政子様や三幡様、頼家様のお母上である北条政子様だ。
「そこにお座りなさい」
「菖蒲ちゃん、ここに座って」
政子様の声と共に大姫様に手を取られ何か柔らかい敷物らしきモノに座った。
「これは何ですか?」
今まで座った事のない感触に菖蒲はそれが何か知りたくてつい言ってしまった。
「畳よ、菖蒲ちゃん」
「畳…」
名前だけなら聞いた事がある。
確かイ草を編んで作られた物だ。
物語の中でも出てくる。
しかし実際に座ったのは初めてだ。
敷物としては菖蒲の持つ筵は藁で編まれたもので最初は座り心地が良かったが今ではボロボロで座れれば良いだけのモノに変わっている。
「さて、もういいかな?」
「はい、お父様」
そう言って大姫様は菖蒲から離れた。
「君が菖蒲か、私は…」
「将軍様ですね」
「ん?、んん…そうだ」
頼朝は少し言い淀んだ。
征夷大将軍とは今年頼朝が朝廷から受けた官職だ。
現在は鎌倉殿または御所様と呼ばれている。
将軍様とは呼ばれた事はない。
「そなたはまだ幼いながら色々と物語を歌うそうだな」
「はい、とはいえ言うほど知っている訳ではありません」
「子供達や妻が素晴らしいと声を揃えていうので今日呼んだのだ」
「はい」
「聴かせてくれぬか?、そなたの琵琶と歌を」
「えーと…何をお聴きになりたいのかよく分かりません」
「そうだな…ならば国についての…例えば政の事とか、何か国についての話がいいな」
「国についての…話ですか…」
実に悩む要望だ。
特に世を治める云々の話は難しい。
何より現在日本を事実上支配している権力者に対して聴かせられる話となると…。
「難しいか?」
何か勝ち誇ったような感じの声だ。
そこでようやく菖蒲は鎌倉殿から試されているという事が分かった。
どこまで知っているのか…という知識のやり取り。
あれこれと頭を回す菖蒲。
しかし頭を捻ってもこれぐらいしか出てこない。
「御期待に添えるものではないと思いますが…」
「構わぬ、何でもよい」
その言い方は頼家様と同じだ。
血は争えぬものか。
「では…」
琵琶を手に歌いだす。
貞観十年
太宗侍臣に謂いて曰く
「帝王の業、草創と守成と孰れか難き」
尚書左僕射房玄齢対えて曰く
「天地草昧、群雄競起、攻め破り乃ち降す、戦いに勝ちて乃ち尅つ。
此由りて此言えば草創を難しと難す」
魏徴曰く
「帝王之の起り必ず衰亂承け彼の昏狡覆し百姓推すを楽しみ四海命に歸す。
天授けて人与う、乃ち難し爲さず。
然れども既に得たる後、志趣驕逸す。
百姓静かならんと欲す、而れど徭役は休まず。
百姓凋残、而れど侈務息まず。
国の衰弊、恒に此に由りて起こる。
斯を以て而して言う、守成は則ち難し」
太宗曰く
「玄齢は昔、我に従い天下を定め、備さに艱苦を舐め、万死出でて一生に遇う。
草創の難きを見た所以なり。
魏徴は我と与に天下を安んじ、驕逸の端生ずれば必ず危亡の地を踐まんと慮る。
守成の難きを見る所以也。
今、草創の難既己に往けり。
守成の難き、当に公等と之を思い慎まん」
歌い終わり琵琶を下げる菖蒲。
「……」
何か静まり返った周りの空気。
どうにも失敗のようだと菖蒲は観念した。
しかしやるだけはやった。
そんな静まった中、口を開いたのは鎌倉殿だった。
「驚いたな、創草と守成とは、ここでそれを聞くことになるとは思わなかった」
「父上、これは?」
鎌倉殿の何か上擦った声に頼家が聞く。
「唐の第二代皇帝、太宗世民と臣下との会話だ、太宗は貞観の治…太平の世を築いた事で知られている」
「その話ですか?」
「そうだ、戦乱を収める事と新たに始めた国を統治していく事、どちらが難しいかという問答だ」
「へぇー、それは…」
「そなたはどこでそれを?」
「師から聞きました」
「その師は…一体…」
「もう亡くなりました」
「そうか、立派な法師だったのだな」
「はい」
何か色々と聞きたそうな感じを殿から受けたが控えたようだ。
「それにしても面白い子だな」
殿が言った。
その声に菖蒲はホッとする。
どうやら鎌倉殿との勝負に勝ったようだ。
こうして鎌倉殿や大姫様達や御台所様に挨拶して屋敷を出た。
褒美も貰ってほくほく顔だ。
さぁ、いよいよ念願の京の都へ向けて出発。
【草創と守成』
中国の古典『貞観政要』に載っている話。
貞観政要は帝王学の最高傑作と言われているらしい。