白子と湯治場
たなは姉さんとその一座と共に伊豆国伊東の温泉に来た
京に行く行かないとは別に一座の旅の疲れを癒すためにたなは姉さんが菖蒲を誘ってくれたのだ
それで一緒に伊豆国に来た
伊東の湯は有名で菖蒲も聞いた事があるが自分が来ることになるとは思っていなかった
それにしても湯で髪を洗い浸かるのは久しぶりだ
いつもは川などで髪を洗い湯着を着て水浴する
夏場でも水は冷たく、それで冬場なら凍えそうになる
しかし洗えばさっぱりするので渋々している
温かいお湯は実に良い
「菖蒲、あれ聞かせて」
一緒に温泉に入っていたたなは姉さんがそう言ってきた
「あれですか?」
「そうあれ、あれあれ」
「あ、和泉式部日記ですね」
「そう、それの石山寺の話」
たなは姉さんは和泉式部日記の話が好きだ
特に石山寺のトコロの話
話としては和泉式部と師宮との恋愛話で手紙等のやりとりの下りだがなぜかたなは姉さんはその中でも石山寺の話が好きだ
「では…」
そういうと菖蒲は琵琶無しで詠う
「かかるほどに八月にもなりぬれば、つれづれもなぐさめむとて、石山にまうでて、七日ばかりもあらむとてまうでぬ。
宮、久しうもなりぬるかな、とおぼして、御文つかはすに、童「ひと日まかりてさぶらひしかば、石山になむ、このごろおはしますなる」と申さすれば、「さは、今日は暮れぬ。つとめて、まかれ」とて、御文書かせ給ひて、たまはせて、石山に行きたれば、仏の御前にはあらで、古里のみ恋しくて、かかる歩きもひきかへたる身のありさまと思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高欄の下の方に、人のけはひのすれば、あやしくて、見下ろしたれば、この童なり。
あはれに、思ひかけぬ所に来たれば、「なにぞ」と問はすれば、御文さし出でたるも、つねよりもふとひき開けて見れば、「いと心深う入り給ひにけるをなむ。など、かくなむとものたまはせざりけむ。ほだしまでこそおぼさざらめ、おくらかし給ふ、心憂く」とて、「関越えて今日ぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひをいつか、出でさせ給ふ」とあり。
近うてだに、いとおぼつかなくなし給ふに、かくわざとたづね給へる、をかしうて、「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
いつか、とのたまはせたるは、おぼろけに思ひたまへ入りにしかも山ながら憂きはたつとも都へはいつか打出の浜は見るべき」
と聞えたれば、「苦しくとも行け」とて、「問ふ人とか。あさましの御もの言ひや。
たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
まことや、憂きによりひたやごもりと思ふともあふみの海は打ち出てを見よ
『憂きたびごとに』とこそ言ふなれ」とのたまはせたれば、ただかく、
関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめとて、端に、
こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
思ひもかけぬに、行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。
かかるほどに、出でにけり。「さそひみよ、とありしを、いそぎ出で給ひにければなむ。
あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ」
御返し、ただかくなむ。
山を出でて冥き道にぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
つごもり方に、風いたく吹きて、野分立ちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の、折知りがほにのたまはせたるに、日ごろの罪も許しきこえぬべし。
嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
御返し、秋風は気色吹くだに悲しきにかき曇る日は言ふ方ぞなき
げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほど経ぬ」
「おおー」
たなは姉さんは拍手した
本来は日記の最初から最後までを琵琶を手に詠い上げるのだが要望に応じて部分部分を詠う場合もある
それにしてもお湯に浸かってほっこりした
日頃の疲れが抜け落ちて今日は良く眠れそうだ
【和泉式部日記】
歌人である和泉式部によって執筆された日記
長保五年[1003年]〜寛弘元年[1004年]の間の敦道親王とのやり取りを綴る
執筆されたのは寛弘五年[1008年]頃、その前年には敦道親王が亡くなっており喪と追憶の中で書かれたようだ
【伊東温泉】
温泉の発見は平安時代以前とも言われている
私は伊豆に行った事もなければ当然入った事もない