6.絆
「──お兄ちゃん」
「……!」
言葉を失い、驚いたように目を見張っているこの人は、受け入れる準備ができていたのかもしれない……私が、自分のことを忘れてしまったという可能性を。
「私、ちゃんと思い出したよ。小さな頃のことだから全部を覚えているわけではないけど、お兄ちゃんが私と遊んでくれたこと、一緒に泣いてくれたこと、私を護ってくれてたこと……ちゃんと、思い出したよ」
“お兄ちゃん”─目の前にいる人のかつての呼び名。
久しぶりに呼んだし、お互いにそう呼んでいた頃よりも成長して姿は少し変わってしまったけど、思っていた以上にしっくりきた。
目元が赤く染まっていく姿が強がっていたかつての姿と重なって懐かしい気持ちになる。
……でも、それと同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。今まで、どんな思いで過ごしてきたんだろう。自分に他人行儀で接する私を見て何を思っただろう。
「お兄ちゃん……今まで思い出せなくて、ごめんね」
「っ、咲空……!」
「うん」
「俺はっ……」
私は立ち上がって顔を手で覆ってしまった兄の傍に行き、かつて自分がしてもらったように優しく抱きしめる。
「おかえりなさい……」
ここはお兄ちゃんの家だし、お兄ちゃんからしたら帰ってきたのは私かもしれない……
それでも、無性に『おかえり』と言ってあげたくなった。
* * *
「──情けないところを見せちゃったな」
「情けなくなんてないですよ」
「……敬語じゃなくて大丈夫だよ」
「あっ……」
……私自身、まだ戸惑っているみたい。
昔はお兄ちゃんに敬語なんて使ってなかったし、目の前にいるのがそのお兄ちゃんだということは分かっているのに、今の私には“賀茂先生”の方が馴染んでしまっているから、普通に話そうとすると敬語になってしまう。
「……すぐには難しいかもしれないけど、昔みたいに砕けた話し方をしてくれたら嬉しい。学校ではそういうわけにもいかなくても二人の時くらいはね」
そう言って微笑むお兄ちゃんはもうすっかりいつもの……というよりもお兄ちゃんに戻っているように感じる。
「……お兄ちゃんは変わらないね」
「そうかな? 大分変ったと思うんだけど……背も伸びたし、筋肉もついたんだぞ?」
「ふふっ。見た目は変わったし大人になっているけど、優しいところは変わってないよ」
「……咲空にそう言ってもらえて嬉しいよ」
……もちろん、中身も変わっていないことばかりではないのだと思う。
一瞬だけど、お兄ちゃんの目に哀愁のような仄暗い何かが宿ったように見えた。
悲しいことに、私とお兄ちゃんはお互いが傍にいない状態で過ごした時の方がはるかに長い。
私の記憶が正しければ、私の四歳の誕生日にはすでにお兄ちゃんは私の家族のもとにいなかったから。
そんな短い時の中でお兄ちゃんが私─幼い“妹”という存在に見せていた姿は彼のほんの一側面だっただろうし、それが幼い私が見た幻影でないという保証すらない。
加えて、あれから十五年近い時が流れている。……人が変わるには十分すぎる時間だと思う。
「──俺は咲空が思っているような人間じゃないよ」
お兄ちゃんの目に巣食う仄暗い何か。
でも、私がお兄ちゃんと一緒に生活していた中で感じた優しさは偽りのないお兄ちゃんの本質だった。……その優しさを受けた時が短かったとしてもそれは変わらない事実。
分かれていた間にお兄ちゃんが味わってきた苦労は、歩んできた道は想像を絶するものだったのだろう。
それでも──
「私が知っているお兄ちゃんはいつでも優しい人だったよ。“賀茂先生”も“お兄ちゃん”も。……もちろん、私が知らないお兄ちゃんもいると思うけど、それはこれから知っていきたい」
過去は変えられないけど、過去に埋められなかった空白はこれから先の未来で埋めていくことができる。
「……まったく、優しいのはお前の方だよ……本当に変わってない。思いやりがあって、いつも真っすぐだ。報われないことばかりが起こる日々でも誰を憎むこともなく成長してくれた」
「……」
「でも、昔のお前は人に対して拭えない不信感を持っていた。いや、信じることを怖れていたのかな? 他者を気にする一方で自己を全くを省みない……真っすぐでありながらどこか歪な子だった」
「そう、だったかもしれないね……」
ただでさえ嫌われ者でそれ以上人に嫌われたくなかった私は、常に他人の目を気にしていたと思う。だけどそれも小さい頃の話で、いつのまにか自分が嫌われ者だという状況を受け入れるようになっていた。
「俺は、今のお前を見て安心したんだ。……お前は人と生きることの喜びを知ることができたんだな」
「……うん」
「ははっ、天代宮様に感謝しなきゃ」
「……今の私はお兄ちゃんがいなかったら存在してなかったよ」
「え?」
「私がお兄ちゃんのことを明確に思い出したのは今日なんだ」
「……うん」
「“賀茂先生”に会った頃から既視感みたいなものを感じることが度々あったし、不思議な夢を見るようになったんだけど、曖昧で……。でも、昨日のお兄ちゃんの姿を見たからか、今日ははっきりと“お兄ちゃん”を感じる夢を見たの」
確信がなくてあと一歩のところでその可能性を思い至れずにいた、忘れてしまっていても、消えることなく私を支えてくれていた大切な思い出。
「……そうだったんだな」
「うん……ごめんね……」
「謝ることじゃないさ。俺は思い出してもらえただけでこれ以上ないくらいに嬉しい」
本当に、心から嬉しいといった様子の朗らかな笑み。
「……思い出して思ったの。お兄ちゃんがいなかったら、私は麗叶さんに出会うことも出来なかったんだろうなって」
「?」
「ふふっ。今朝ね、お兄ちゃんのことを思い出したっていう話をしたら麗叶さんに言われたんだ。『過去を思い出したことで明るくなったな』って……。……お兄ちゃんが護ってくれた私は、ずっと私自身の心を護り続けてくれてたんだよ」
「……っ、俺はちゃんと咲空を護れていたか……?」
「──うんっ!」




