8.きょうだい
「うん。お母さんのお腹の中にいた頃の、たぶんあの人が入ってきた時からのことなら全部覚えてる」
「それって……」
胎児の頃の記憶まであるってこと……?
意識があったということは記憶もあるとは思っていたけど、それは普通の人と同じように3、4歳の頃からのものだと思ってた。精神が成熟していた黒邪─清光さんの存在があったから、美緒の脳が未発達だった時の記憶が残っているのかな?
──それも気になるけど、嬉しい誤算だ。
美緒がお兄ちゃんのことを覚えていたなんて……!
早くお兄ちゃんに報告したい。
「美緒、お兄ちゃんなんだけど探さなくて大丈夫だよ」
「えっ……? ど、どういうこと?」
「ふふっ、お兄ちゃんね、陰陽師になって自分で呪いの一つを解呪したの」
「お兄ちゃんが、陰陽師になったの?」
「うん。今このお屋敷にいるよ」
「うそっ……」
「本当だよ。……お兄ちゃん、美緒のことをずっと心配してたよ」
美緒の驚いて丸くなった目から涙が零れる。
……ずっと、自分の責任だと思っていたのかもしれない。
私のこともお兄ちゃんのことも、美緒は何一つ悪くなかったのに……
「会いに行く? それともここに呼んでこようか?」
「呼んできてもらってもいい……? 実は身体があんまり動かなくて……」
「だ、大丈夫!? 痛くはない?」
「うん、大丈夫。……ごめんね」
「謝らないで。長い間眠っていたから身体が固まっちゃってるんだろうね」
私に気を遣っているだけで本当は身体中が痛いかもしれないし、怠さもあると思う。
「すぐにお兄ちゃんを呼んでくるね」
「うん、ありがとう」
* * *
「咲空……! 美緒はどうだった!?」
少し駆け足になりながらみんなが待機している部屋に行くと、私が入るなりお兄ちゃんが立ち上がって美緒の安否を尋ねてきた。
「起きたばかりで混乱してたけど、落ち着いたみたい」
「そうか……」
「お兄ちゃんすぐに来て」
「え?」
「いいから早く」
「さ、咲空? いったい何が……」
みんなを混乱させてしまったとは思うけど、私の口から言うよりも美緒から伝えた方がいいと思うから、説明せずにお兄ちゃんを部屋から連れ出す。
麗叶さんは目が合った時に優しい笑みを浮かべながら頷いてくれたから、たぶん美緒の状況を察してくれたんだと思う。
「慌ただしくしてしまってすみません。失礼します」
同じ部屋にいたお師匠様と日和さんに軽く挨拶をして部屋を出る。
……急いでいるとはいえ失礼な態度になってしまった。
美緒と話が終わったらすぐに謝らないと……
「──咲空、本当にどうした? 美緒に何かあったのか?」
「ううん。あっ、起きたばかりだから身体が動かしにくいみたいだけど……」
「えっ!? それは大丈夫なのか?」
「本人は大丈夫って言ってるけど本当は辛いと思う……明日から無理のない範囲でリハビリが必要かも」
「そっか……いや、そうだよな」
なんて話しているうちに美緒がいる部屋に戻ってきた。
「──美緒、入ってもいい?」
「う、うん」
「っ、咲空。知らない男が急に部屋に入ったら驚かせちゃうだろ?」
美緒の返事を聞いて部屋に入る。
なかなか足を踏み出そうとしないお兄ちゃんの手を引きながら。
「美緒、連れてきたよ」
「お、おい!」
「あっ──」
美緒は部屋に入ったお兄ちゃんの顔を見て、私がいなかった間に泣き止んでいた目に再び涙が溜まっていく。
きっと、子どもの頃のお兄ちゃんの面影を見取ってお兄ちゃんの無事が確認できたから安心したんだと思うけど、お兄ちゃんはそんな美緒の様子から美緒を怖がらせてしまったと思ったみたい。
「きゅ、急にごめんね。君のお姉さんの姫野咲空さんの学校で日本史を教えている賀茂です。僕はこの家に居候していたから様子を見に来て…いや、僕はすぐ出てくから安心してね」
「っ! 大丈夫だからっ……私は大丈夫だから、いなくならないで」
「!?」
部屋を出ていこうとするお兄ちゃんに美緒はついに泣き出してしまった。
私と話している時にも泣いてはいたけど声をあげることはなく耐えるようにして泣いていたのに、今は子どものように。
……ずっと泣くことのできなかった美緒が、やっと泣けたんだと思う。
私もあまり泣かない子だったけど、小さい頃にはお兄ちゃんがいて、泣いている私の心を受け止めてくれていた。
美緒は、一人で耐えていた。思うように動かない身体の中で。
もう部屋から出ていこうとはしないお兄ちゃんから離れて美緒を抱きしめる。
美緒が布団から出てきてくれた時よりも強く……もう一人じゃないんだよって伝えられるように。
「──お兄ちゃん……ごめんなさい」
「……え?」
「ごめんなさいっ……!」
涙に混じって聞こえた美緒の突然の謝罪に私のすぐ後ろで固まっているお兄ちゃんからも声が漏れる。
お兄ちゃんは美緒が自分ことを覚えてるなんて思っていない。面識もなく、あったとしても別の学校に通う姉の副担任という、関わることのない存在。
「私が、止められなかったから、お兄ちゃんはっ……!」
しゃくりあげながら謝り続ける美緒。
もう一度お兄ちゃんの手を引いて私たちの傍に腰を下ろさせる。
「美緒、私から少し話してもいい?」
目をこすりながら何度も頷いている美緒から隣に腰を下ろしたお兄ちゃんに視線を移す。
「……美緒ね、赤ちゃんの頃の記憶もあるんだって。黒邪がいたからだと思うんだけど……」
「は……?」
「黒邪と一体化していた美緒は呪いの影響も受けなかったみたい」
「え、俺のことを、覚えてる……?」
お兄ちゃんの思わず漏れたといった疑問に美緒は何度も首を振っている。
確認するように私に向けられた視線に対して、もちろん私も頷く。
「俺のことを……」
私と美緒がそろって頷いたから、お兄ちゃんはじわじわと、美緒が自分のことを覚えているということを実感してきたみたい。
「そっか……美緒も俺のことを覚えてくれてたのか」
嬉しそうなお兄ちゃんの声。
お兄ちゃんはそっと美緒の頭に手を伸ばして優しく撫でる。
「俺、あの頃は美緒が父さんや母さんに何かしてるって思ってて……美緒に冷たい態度とってた。美緒は何も悪くなかったのに……」
……どこか辛そうにも見えるお兄ちゃんは、美緒に負い目を感じていたんだと思う。
「……っ、私が悪かったの。私がみんなを苦しめてた。お兄ちゃんは私のせいでっ……」
「美緒じゃないだろ? ……それに俺は美緒が俺のことを覚えてくれたってことが嬉しい」
「っ……」
「……今まで助けてやれなくてごめんな」
「お兄ちゃん……」
「さ、起きたばかりでこんなに泣いたら疲れちゃうだろ? もう一度寝た方がいい……もう闇に怯える必要はない」
「で、でも……」
美緒は気が済んでいない様子だったけど、身体は限界だったみたい。
疲れを自覚したのか、ゆっくりと瞼が閉じていく。
「「おやすみ美緒、良い夢を」」