5.目覚め
──ガラッ!
家庭学習期間に入って4日目、いつもと同じように図書室の自習スペースで加奈ちゃんと勉強していると、勢いよく入り口のドアが開いた。
「──姫野さん! 姫野さんはいますか!?」
図書室には珍しい慌ただしい足音と一緒に聞こえてきたのは私を呼ぶお兄ちゃんの声。
「賀茂先生? あんなに慌ててどうしたんだろうね」
「うん……ちょっと行ってくるね」
「おっけー」
入り口の方に向かうとお兄ちゃんが図書の先生から『図書室では静かに』と注意を受けていた。
いつもはしっかり纏まっている髪が少し崩れているし、よっぽど急いで来たみたい。
「賀茂先生!」
「あっ、姫野さん」
「何かご用ですが?」
「うん……勉強中にごめんね、ちょっといいかな?」
「はい」
いつもよりも早足で歩くお兄ちゃんに、私も小走りになりながら着いて行く。
この方向は日本史資料室かな?
普段は資料が置いてあるだけで先生達もほとんど使わない部屋。
そこに向かうっていうことは他の人に聞かせられない話ということだから、陰陽師のお仕事に関係することかあるいは……
「急にごめんね。さ、入って」
「はい」
やはりたどり着いたのは日本史資料室。
鍵を開けてくれたお兄ちゃんに導かれて私が部屋に入ると、お兄ちゃんも部屋に入ってドアを締めた。
「ふぅ……」
大きく息をつくお兄ちゃん……ここには他に人もいないしいいよね?
「……お兄ちゃん、何かあったの?」
「連絡があったんだ」
「連絡? それってもしかして……」
「あぁ──……美緒が起きたって」
「! 美緒が?」
ついに美緒が起きた……!
でも、それにしてはお兄ちゃんの様子がおかしい。
お兄ちゃんも美緒が起きるのをずっと待ち望んでいたはずなのに切羽詰まった感じ……
「何か問題があったの?」
「そう、いや、問題というか……さっき師匠から連絡があって、師匠や日和を怖がってるみたいなんだ、早く行ってやらないと……!」
「えっ……こ、怖がってるって?」
「わからない。だけど目が覚めたばかりで混乱してるんだと思う」
そっか、美緒にとってはどこだかもわからない場所で知らない人に囲まれてる状態、混乱して怖くなっても当然だ。
「それに、美緒の自我がどんな状態なのかわからない」
「あ……」
あぁ、美緒が目が覚めたということに舞い上がってその事を考えられていなかった。
そうだ。清光さんの話だと17年間美緒の意識は確かに存在していたみたいだけど、表に出たのは朋夜に出会ったときくらいで……それ以外はずっと深層に沈んでしまっていたみたい。
清光さんも美緒が表に出た時まで美緒の意識の存在をはっきりと感じたことはなくて、その後も気付かないうちに行動を変えさせられていたみたいだし……
──“美緒”がこの17年何を見聞きして何を思ってきたのかは誰にも分からない。
美緒が確実に認識していると言えるのは朋夜だけだし、最悪の場合朋夜を呼び寄せるしかないかもしれない。
「い、今どうしてるの?」
「師匠たちは怖がらせらないように部屋の外に出てるって。でもすごい怯えてるみたいで……咲空、今すぐに美緒の所に向かってくれないか?」
「も、もちろん……!」
桃さんと葵さんに麗叶さんに連絡してもらって──
「──葵から報告を受けた。行くぞ」
「麗叶さん!」
麗叶さんに来てもらって美緒の場所に飛ぼうと思ったその時に、心強い気配が直ぐ側に降り立った。
「天代宮様、お願いします」
「何を言っている、お前も共に行くぞ」
「え、いや俺は……」
「ここの者達には葵から伝えさせるから安心しろ」
「えっ! ちょっと待っ……──」
* * *
(三人称視点)
時はわずかに遡る。
日和は師からの命で2ヶ月も目を覚まさぬ少女─美緒の世話をしていた。
「美緒ちゃん、貴女はいつ目が覚めるのかな」
師の指示で世話をしている日和は『まだ起きないか……』と眉を下げる。
「颯斗さんがね、最近また魘されてるの。表の仕事があるからいつもここに帰ってくるわけじゃないけど、帰ってきてる日の夜に部屋の前を通るとうめき声がする……私は、どうすればいいかわからない。今、颯斗さん…ううん、颯斗お兄ちゃんを助けてあげられるのは貴女だけなのに……」
日和は困ったように笑ってこんこんと眠る美緒を見つめる。
かつては少し年上の兄のような存在で、逆境にも挫けずにひたむきに生きているその姿に憧れを抱いていた颯斗の妹。今は青年となった颯斗に対する日和の想いはいつしか恋心とって、今も日和の中で膨らんでいっている。
そんな颯斗の、本当の妹。
血の繋がりがあって、でも颯斗が美緒と一緒に暮らした時間は日和よりもはるかに短いという妹。
日和と颯斗が10年以上共に陰陽師となるべく修行を積んできたのに対して、颯斗は美緒が3歳になったばかり頃に家を出ている。
加えて颯斗は両親から関心を向けられずに放置されていたもう1人の妹─咲空と過ごしていたのだから、美緒と共に過ごした時間などほんの僅かだ。
それは言葉を交わしたことがないほどに。
……もちろん、当時の美緒は会話ができるほど言語能力が発達していたわけではなかったが……
「美緒ちゃん、颯斗お兄ちゃんね、後悔してるみたいなんだ。当時のお兄ちゃんに分かるはずがないのに『ちゃんと美緒を見ていれば、黒邪の存在に気づけたかもしれないのにっ……』って。まだ普通の小学生だった頃なのにだよ?」
はぁ……
日和の息をつく音が美緒の寝息に被さるようにして静かな部屋の中に響く。
「」
──……一瞬破られた静寂。
その中で途切れた音と、新たに生まれた音。
「ん……」
呻くようにして漏らされた声は日和のものではない。
「っ……!」
はっとして美緒の顔を確認する日和の視線の先で顔を顰め、藻掻くように身動ぎをする美緒。
まつ毛も揺れて重く閉ざされていた目蓋が動いた時、日和は待ち望んだ瞬間がついにやってきたのかと息を詰める。
「う、」
美緒がゆっくりと身体を起こそうとして……言うことを聞かぬ身体に阻まれた。
「いっ」
永く眠っていたために固まった身体。
しかし確かに起きて、声を発した。
「………」
身体を起こせないままに、それでも己の所在を確かめようとまだ開ききっていない目で部屋の中を見渡した美緒の目が、初めて日和の存在を捉えた。
「……」
「み、美緒ちゃん?」
「っ……!」
「調子は──」
「ひっ……!」
自分以外の者の存在に気が付いた美緒の呼吸が乱れ、顔に恐怖が滲む。
「美緒ちゃん!」
「いっ、嫌……やめて……あ、あぁぁ……」
「美緒ちゃん! 大丈夫だよっ」
「は、はぁはぁ……う、ぁ」
満足に動かない身体で逃げ出そうとする美緒はパニックに陥って苦しそうに呼吸を乱している。
──スッ
「日和、何か──」
騒ぎを聞きつけた屋敷の主が駆けつけた時、美緒の恐怖は限界に達した。
「ぁ、あああ……いやぁぁあっっ!」
半狂乱になったように叫ぶ美緒から己を恐れ怯えている様子を見取った屋敷の主─賀茂忠は美緒の恐怖心を煽らないように注意して、美緒を落ち着けようとする日和を美緒から引き剥がす。
「日和、一度外に出なさい」
「で、でも……」
「 儂らではこの娘を怯えさせるだけだ。颯斗に連絡を。急げ」
「は、はいっ!」
忠は部屋の隅まで行って震えながら蹲っている美緒を一瞥したら、己も日和を追うようにして部屋を出て静かに襖を閉める。
彼の弟子にして怯える少女の兄である颯斗が到着するまであと数分という時分の話であった。