41.四章エピローグ
「──初華」
やっと明るくなり始めた寒い朝。
暖かい部屋の中で私のかつて名を呼ぶ愛しい人。
先週、再会してから以前よりも1時間早く家を出るようになった。
両親には『学校でピアノの練習をしたいから』と言っているのに、本当は兄様が借りている家に来ているなんて……本当なら許されない。
でも、少しでも兄様の側にいたいの。
どんなに頑張っても千年の時を埋めることはできないけど、少しでもそばにいたいの。
本当は学校にも行かずに一日中そばにいたいけど、それは親にも咲空ちゃんにも心配をかけてしまう。
だから、朝と夕方の一時だけでも……──
* * *
唐突に戻ってきた過去はとても重いもので……でも、その人と視線が交わったらその人以外は見えなくて、涙を堪えることも出来なくなって……
二人きりになったら、涙も想いも箍が外れたように一気に溢れ出した。
思い出したばかりだったのに、今生でずっと感じていた喪失感が消えていくのを感じた。
『兄様……やっと、やっとお会いできましたね』
『あぁ、まさかまた会うことが叶うとは思ってもいなかった』
『本当に……。お待たせしてしまいましたね』
『いや、こうして再び会えただけで俺は……』
『『……』』
冷たいけど柔らかな風が頬を撫でいったあの時、穏やかな雰囲気とは裏腹に私の胸中は荒れていた。
どうしてここにいるの?
その姿はどうしたの?
何が貴方を変えてしまったの?
咲空ちゃんから聞いたばかりだった、目の当たりにすると私が犯した罪を突き付けられているようで心が苦しくなった。
変わってしまった貴方の姿を見ているだけでも辛いのに、謝られてしまったら……
『……っ、すまなかった』
『なぜ、謝るのですか?』
「お前を、救うことができなかった」
『私は十分救われました。……永い年月、私を忘れずに想ってくれていた、自らを省みずに救おうとしてくれた……』
その事実は永い時を超えて私の心を闇の中から拾い上げてくれた。
だから止めて。貴方は悪くないのに謝らないで。
私のもっていた力が、貴方を苦しめたの。
私が力を隠したり上手く立ち回ったりすることができていれば、あんなことにはならなかったの。
『だが……』
『先程も言いましたが、初華の人生にも幸せは確かにありました。確かに初華の人生は幸せに満ちたものではなかったでしょう。……しかし、それは誰しも同じです。皆、苦難の中を生きてその中で幸せを掴むのです』
『しかし……』
『『だが』も『しかし』も必要ありません。もう、過去のことで謝らないでください。……私はこうして“今”を生きているのですから』
自分の行い“罪”と認識し悔いている貴方は優しい人だった。
その優しさは今も失われていなくて、だからこそ貴方は苦しんでいる。
『貴方が頑張ってくれたから私は今を生きていて、こうして再会することも叶ったのです』
『……まったく、どうやったらお前のような考え方ができるのだろうな』
『ふふっ、私は兄様が思っているような人間ではないかもしれませんよ? きっと私と兄様は同じ葛藤の下に生きています』
『お前は優しい人間で人のために生きてきた。人を恨み世を呪って生きてきた俺とは違う。……いや、俺は『生きていた』なんて言える状態ですらない、時が経過していく中で罪を重ねてきただけだ』
『兄様は精一杯生きてこられたと思います。それにの生き様は私を想ってこそ、兄様の罪は私のせいとも言えるでしょう。それに言ったではありませんか、『兄様の罪は私も背負いましょう』と』
『……俺は認めていないからな』
『はい、私が勝手に背負うだけです』
『……』
* * *
……ただ話していることすらも懐かしかった。
兄様は私の物言いに納得していないとき、口をつぐんで片手で目元を覆う。
あの時もそれが見られた。やっぱり兄様は変わっていない。
私は昔から、ここぞという時の言論で兄様に負けたことがなかった。普段は5歳も年上の兄様に口で勝つことなんて出来なかったけど、2人の人生がかかっているような話の時には負けたことがなかった。
村長だった兄様のお父様が決めた婚約者だった関係を“恋人”へと変えた時もそう。
当時は成人とされる年齢だったとはいえまだ年若かった私の未来を奪ってしまうと最後まで渋っていた兄様に私と結婚することを認めさせた。
「……兄様」
「なんだ?」
「私、昔のことを思い出したのはあの時ですけど、今生で物心がついたときから喪失感を感じていたんです」
「喪失感?」
「はい」
心にぽっかりと穴が開いたような、重要な何かを忘れてしまっているんじゃないか、そんな感覚。
いつも悲しくて楽しいのに心の底からは笑えなくて、でもお父さんやお母さんに相談なんてできなくて……
私はおかしいんじゃないか。
いつもそう思っていた。
誰にも相談できないことが辛かった。
記憶に蓋がされていただけで、消えていたわけではなかったんだと思う。
私は幼少期から誰に教えられたでもない歌を知っていたり、現代では誰も知らないだろう遊びをしたりしていたから。
『あら結華、素敵なお歌ね。なんて言うお歌なの?』
『う~んとねぇ、わかんない』
『わかんないか~。幼稚園で習ったの?』
『ううん』
『じゃあテレビでやってたんだ?』
『やってないよ?』
『え? ……ふふっ、夢の中で聞いたのかもしれないね』
両親はそんな私を受け入れてそっとしておいてくれたけど、普通じゃないと気が付いてからは自分の言動に気を配るようになった。
常に付きまとう喪失感から目を背けて生活した。
「兄様と再会して、喪失感の正体がわかりました」
「……」
「私はずっと、兄様を探していたんです」
「そう、か……」
「はい」
『──天代宮、せっかく封じた余の封印を解くとは、何を考えての愚行か』
咲空ちゃんに抱えられていたあの時。
突然頭の中に流れてくる記憶に頭が痛くなって何も聴こえなかったけど、兄様の声だけははっきりと私の鼓膜を揺らした。
声を聴くだけで泣きたくなって、姿を目にしたら涙で視界がぼやけた。
──私は彼に会うために生きていたんだ。
生まれた時から心にぽっかりと空いていた穴が塞がっていったんだ。
「だから、こうして一緒に過ごせることが本当に嬉しいんです」
「……俺も嬉しい」
きっと私たちは歪んでいる。
互いに依存し合っていて、こうして出会ってしまえばもうお互いなしには生きられない。
前世では運命を共にすることができなかったけど、今生ではどちらかが死んだらもう一方も一緒に死ぬと思う。
2人で生き、2人で罪を背負い、2人で死んでいく。
どんなにおかしくとも、誰に何と言われようとも、それが私の幸せ。
兄様も口には出していないし、巻き込みたくないとは言っているけど、同じ気持ちだということは分かる。
……舐めないでもらいたい。
私は物心がついた頃から貴方と共に過ごしていて、婚約者であり恋人だったんだから。
遠慮はしないでほしい。
今も何かを言いたくて、でも言い出しづらいといった様子で躊躇している。
「兄様、どうかなさいましたか?」
「なんでも……いや、初華。ずっと思っていたのだが、呼び名は初華のままでいのか……?」
なんだ、その事。
「もちろんです」
「私にとっての貴方が永遠に清光兄様であるのと同じように、貴方にとっての私は“初華”でしょう? それは私が“結華”になっていても変わっていません」
「しかし……」
「良いのです。2人だけの呼び名だなんて素敵ではございませんか?」
「……そうだな」
やっぱり私は歪んでいる。
兄様に過去に縛られないでほしいと言いながら過去の名を手放すことは出来ず、兄様を過去に縛り付けているのだから。
でも、過去を完全に切り離す事なんてできない。
“初華”に優しく微笑みかける兄様は私が“初華”でないと見られないから。
私たちは私たちの幸せの形をつくっていけばいいでしょう?