日曜日の目薬
「あっ」
玄関のチャイムが鳴ったのに気を取られて一瞬押さえ方が緩んだ隙に、抜け目のない子猫は僕の手からするりと抜け出した。
一目散にかまくらベッドの中に走り込んでしまったピヨを見て僕はため息をついた。
仕切り直しだ。
僕はピヨのことはいったん保留にして玄関に向かった。扉を開けると、そこには期待していた笑顔。サトカさんだ。
「どうぞ」
促すと、彼女は細く開けたドアのすき間からするっと入り込んで、後ろ手で素早く静かに扉を閉めた。猫を外に出さないための、彼女なりの配慮だ。
「来ちゃいました」
見ればわかることをあえて言う。そのいたずらっぽい口調がたまらなくかわいくて、僕は返事代わりにぎゅっとハグした。僕の好きなキンモクセイの香り。
「待ってました」
こちらも言わずもがなのことをあえて言う。首筋にかかった息がくすぐったいと言って彼女が笑いながら身体をひねったので、僕は腕をゆるめた。離したくないのは山々だったけれど、先にやらなければならないミッションもある。
「ピヨさん、大丈夫だったんですか」
心配そうに彼女は僕を見上げた。
今日はもともと、サトカさんと出かける予定だったのだ。二人の仕事の休みが合うのが日曜と祝日だけ。貴重なその休日は、今朝起きた瞬間に大幅な軌道修正を迫られることになった。
「最初はびっくりしたんですけど、結論から言うと大事にはならずに済みそうです」
サトカさんを居室に通しながら僕は答えた。玄関とシャワーユニットにつながった三畳ほどの台所に、六畳一間が接続した、古い下宿屋の間取りでは、居室とかしこまるまでのこともないのだが。
サトカさんは室内を一瞥して、もの問いたげに僕を振り返った。
「そこです」
僕が、座卓の陰に置いたかまくら形の猫ベッドを指さすと、サトカさんはバッグを置くのもそこそこに、畳にひざをついてかまくらの中をのぞき込んだ。
「ピヨさん、大丈夫?」
にゃあ。
ピヨは哀れっぽい声で一鳴きしたが、出てこようとはしなかった。
「やっぱり、元気ないですね」
サトカさんはピヨの数少ないお気に入りで、身体をすり付けてお出迎えするのが恒例だった。確かに出てこないのは異常事態だ。
「結膜炎って言われました。子猫にはよくあるそうで」
今朝、不機嫌な子猫に顔を踏まれて起こされた。やけに早い時間だったので二度寝しようとしたのだが、寝ぼけまなこで見ると、愛猫の顔がおかしい。片目があかず、海賊の親分か、よほどの恨みを持って柳の下に現れた幽霊か、というくらい凶悪な面相になっていたのだ。よく見ると目やにでふさがっているようだったが、もしこれが大病だといけない。放っておいて治るものかもわからない。
そんなわけで、サトカさんとの映画を見に行く約束を急遽延期にしてもらって、診療時間が始まるのを待って獣医に見せに行ったのだ。
「首の回りにメガホンみたいなすごいのつけてるのは? 取っちゃだめなんですか」
「自分で目をこすったり掻いたりするといけないのでつけたままなんです。エリザベスカラーって言うらしいですよ」
「エリザベス?」
「ほら、中世の女王様の肖像画」
ああ、とサトカさんは一つ手をたたいた。
「襟の方のカラーですか。……あれがあるから、本棚に上れなかったんですね」
「そうかもしれません」
すねているときと構われたくないときのピヨの定位置が本棚の上である。
サトカさんはピヨを構うのをやめて、上着を脱いだ。僕が差し出したハンガーを礼を言って受け取り、いつもの鴨居に引っ掛ける。
この部屋で過ごす彼女の様子がだんだんリラックスしてなじんできているのが、僕の密かな喜びだった。そう言うときっと意識して緊張してしまうだろうから言うつもりはない。
「アキさん、お昼食べました?」
「いえ、まだ。サトカさんが来てくれるっていうから、嬉しくなってついつい、帰りに駅の向こうのベーカリーで日曜日限定のコッペパンサンド二人分買ってきたんですけど」
ああ、とサトカさんは低い声でうめいた。
「私も午前中の予定が急に空いたから、平日用のおかずを作り置きする事にして、ついでにお弁当作ってきちゃった。ちゃんと聞けばよかったですね」
お昼はまだだろう、というところまでは合っていたんだけどなあ、と悔しそうにぼやく。小ぶりの重箱らしい風呂敷包みを持ってきたクーラーバッグに戻そうとするので、僕は慌ててその手を押さえた。
「待って、それ食べたいです」
「あ、夕ご飯と明日の朝ご飯用においていきましょうか? 冷蔵庫に入れれば保ちますよ」
違うそうじゃない。そうじゃなくって。
「サトカさんがせっかく作ってくれたお弁当なら、一緒に食べたい」
「でも、サンドイッチは明日の朝まで保たせるの無理ですよ。無駄になっちゃう」
「なりませんよ。お昼にサンドイッチで、夕ご飯にそのお弁当、一緒に食べていってもらうのはだめですか」
せめてそのぐらいの時間一緒に過ごしたい。
サトカさんはちょっと考え込んだ。もう一押し。
「ピヨの奴、すごく機嫌が悪くて。サトカさんがいてくれたら助かります」
ゆるせ、ピヨ。
「連絡してお母さんがいいって言ったらで構わないですから」
「私、もういい大人ですもん。別に多少帰りが遅くたって母に許可を取らなきゃいけない歳じゃないし」
お。こっちの作戦が当たりか。サトカさんはお母さんと二人暮らしで、心配をかけないようにすごく気を遣っている。でも、僕にそう言われるとちょっと反抗してみせるきらいがあることは、前から何となく気がついていた。
「じゃあ、いいじゃないですか。ね? ちゃんと送りますから。明日仕事だし、遅くならないうちに」
畳みかけると、サトカさんは渋々といった風にうなずいた。
「本当に、あまり遅くまでお邪魔するわけにはいかないですけど」
でも、耳たぶまでほんのり赤い。
サトカさんの好きなところはたくさんあるけど、一つはこういうところだ。僕がちょっと強引に、一緒にいたいとおねだりしたとき、しょうがないなあって顔をするけれど、ほっぺが赤かったり少し手元がそわそわしてたりして、動揺がちらっと隠せていないところだったりする。
「やった。午後中、一緒にいられますね」
サトカさんの手に重ねた自分の手に少し力を込めた。サトカさんのほんのり桜色だった耳たぶが、さらに上気して桃色くらいまで赤くなった。
こうやって僕がちょっかいを出すと、サトカさんは決まってちょっと困った顔をして、それがまたかわいい。でも、本当に嫌じゃなければ、逃げない。ちなみに本当にやめてほしいときは結構ぴりっとした一言が飛んでくるんだけど、僕もそこまでしつこく困らせないように、反応の小さな違いには気をつけているつもりだ。
このやりとりはいつまででも続けたいし、状況が許せばそうしていただろうけど、残念ながらまだミッションが残っていた。僕はさりげなくサトカさんの手を離して、ピヨの方を示した。
「手伝っていただきたいこともあって」
「何ですか?」
「ピヨのやつ、目薬が嫌で出てこないんです。さっきから難儀してまして」
サトカさんから重箱を受け取って冷蔵庫にしまい、電気ケトルでお湯を沸かし始めると、手を洗ってきたサトカさんが、これですか、とマグカップを出してくれた。紅茶を淹れるのを任せて、僕は皿に買ってきたサンドイッチを盛り付ける。ものの五分で座卓に並べた昼食をとりながら、僕は状況を説明した。
「結膜炎じたいは、そうひどくはなっていないそうなんです。数日目薬をさして、状態がよくなっていたらもう受診しなくても大丈夫、と」
「早く連れていってよかったですね」
サトカさんはタンドリーチキンとアボカド、コールスローを挟んだサンドイッチに手を伸ばしながら微笑んだ。
二人とも、どの味も試してみたくなる性格だったし、そのままかじりついて食べるのではサトカさんが食べにくいかな、と思って、僕は買ってきたコッペパンをいくつかに切り分けて皿にのせていた。
ピーナッツバターと自家製ブルーベリージャムにバナナを挟んだものの一切れをつまんで口に運びながら、僕はため息をついた。
「問題は目薬なんです。朝の分は病院でやってもらってきたんですけど」
今までにしたことがあるのは、怪我の処置と健康診断程度で、さほど痛い目にもあっていないはずなのだが、ピヨは控えめに言っても病院嫌いだった。その病院で今日受けた処置は、ピヨの機嫌を損ねるには十分すぎる仕打ちと取られたらしい。
「家でもう一回やろうとしたらすごい抵抗されちゃって、今、ピヨはすねたおしてるんです」
「小さいお子さんでもよく聞きますけど、大変ですね」
「サトカさんの薬局でも、目薬出すことあるんですか?」
「眼科だと、院内処方で出すクリニックも結構あるので、件数はさほど多くないですけど、それでもありますよ」
眼科に行く前に、市販薬を試してみようとする方もいますしね、と補足して、サトカさんは牛乳を多目に入れてぬるくした紅茶を口に運んだ。
「小さい子の目薬って、どう差すんですか? 目にものを近づけられるのは大人でも怖いじゃないですか」
「ママたちみなさん、お困りですよ、もちろん」
「でしょうね」
「コツはありますかって聞かれることはありますけど、魔法のように効き目があるやり方はないですよね。言えることはせいぜい、前を向かせて抱っこして後ろから素早く、くらいですか」
「プロでもそうかー」
僕はため息をついた。実は少し期待していたのだ。
サトカさんは町の調剤薬局で働いている。何かいい案があれば猫に応用できないかと、さもしいことを考えていたのだが、そうはうまくいかないらしい。
タンドリーチキンのサンドイッチはコールスローに少しだけ入っている玉ねぎがアクセントになって、おいしかった。ピヨには絶対に触らせないようにしないといけない。玉ねぎは猫にとってかなりの毒草なのだ。
もっとも、この部屋につれてきてから、人間の食べ物と猫の食べ物は別だ、と繰り返し言い聞かせて、決して食べ物を放置しないように気をつけた結果、ピヨは人間の食べ物にはあまり興味を示さなくなっていた。
サトカさんはピーナッツバターのサンドイッチを少しずつかじりながら、ピヨのねぐらの方をちらっと見た。
僕に視線を戻して苦笑する。
「アキさん、すっごいしょぼくれてる。ピヨさんとどっちが具合が悪いかわかりませんよ」
「そう?」
そんな自覚はなかったけれども。
「目薬って、絶対差さなきゃダメなんですか?」
「ドクターは、病院で一回差してるし、そうひどいものではなさそうだから、あんまり抵抗するなら無理しなくていいって言ってはいたんです。ただ、差した方が治りは早いし綺麗に治るって」
「そうおっしゃったんですか」
なぜかサトカさんは顔をしかめた。一切れ残っていたタンドリーチキンサンドを細い指でつまみ上げる。ピーナッツバターの方もおいしそうに食べてはいたけど、サトカさんの好みはこっちのお食事系のサンドらしい。
「で、アキさんは目薬を差したいんですよね」
「そりゃ、早く治った方がいいから。あの不自由なカラーも早く取ってやりたいですし」
僕は割と甘党なので、異論なく最後に残ったピーナッツバターサンドに手を伸ばした。ピーナッツバターにほんの少しきいている塩気のせいでバナナが一層とろりと甘く感じられるし、ブルーベリージャムの酸味がさわやかなのもいい。
僕は戦略的にピヨを見ないようにして会話していた。お気に入りのサトカさんが来て、僕と楽しくおしゃべりしていたら、そのうちピヨは我慢できなくなるはずだ。
案の定。視界のはじで何かが動いた。僕はそちらをみないように我慢して、いい具合にぬるくなったミルクティーを一口飲んだ。
「わあ」
サトカさんが驚いたように背筋を伸ばした。ピヨに後ろから身体をこすりつけられたらしい。
「ピヨさんはいっつも後ろから来る。びっくりするよ」
そう猫に話し掛けながら、サトカさんはきちんとそろえて座っていた膝を後ろにずらして、座卓との間にスペースを開けた。当たり前のように子猫はサトカさんの膝に上がり込んだ。
「来たね、ピヨ」
僕が声をかけても見向きもしない。相当嫌われたな、これは。
サトカさんは猫の背中を撫でながら、僕の方を見た。
「もしかしたら、ですけど、ドクターの一言をピヨさんはちゃんと聞いていたんじゃないですか」
「どういうこと?」
「無理はしなくてもいいけど、目薬を差した方が早く治るっておっしゃったんですよね?」
要約するとそういうことだ。僕はうなずいた。
「小児科の先生は大体そういうことはおっしゃらないんです。お薬はつけなさい飲みなさい、そうでなければ、必要ないから出しません、のどちらかです。ご家庭に判断をゆだねたりはしません。むしろ、そういう曖昧な処方はふだんお子さんがあまり受診されない耳鼻科や眼科で時々あるんですけど」
サトカさんはため息をついた。
「ママは早く治したいからお薬つけたいんですよね。でも、お薬がいやなお子さんは、どんなに小さくても前半をちゃんと聞いてるんです。この勝負はだいたい、お子さんが勝ちます」
ピヨさんは賢いねえ、とサトカさんはピヨのわきの下を指先でゴシゴシこすった。お気に入りのポイントをマッサージされてピヨはうっとりと目を閉じた。
「そういうことか」
僕はうめいた。心当たりはありすぎるくらいある。ピヨはこちらの話していることを相当理解している節があるのだ。言うことを聞くというわけでは一切ないのだが。
「どうしよう」
僕は畳の上に仰向けに寝転がった。どうもこうもない。サトカさんの見立てにしたがうなら僕に勝ち目は一切ない。
ただ、ピヨがずっと機嫌が悪くて元気がないのも困る。エリザベスカラーも、餌も食べにくそうだし運動もできないし、早くはずせるようにしてやりたい。
「助けてサトカさん」
寝転がったまま、見上げて懇願すると、彼女はあきれたように肩をすくめた。
「こういう場合、私がおすすめするのは王道だけです」
「王道?」
「セカンドオピニオンとインフォームドコンセントです」
僕はぽかんと口を開けた。今なんて。
「小さいお子さんでしたら、その子が信頼している他のご家族や保育園の先生にお話ししてもらったり、薬をつけるメリットとデメリットについて率直に話し合うってことになるんでしょうけど、メリットとして多少のご褒美を提案することも考慮する必要はあるでしょうね」
「猫にインフォームドコンセント」
半信半疑な僕の口調に、サトカさんの頬がぱっと赤くなった。
「ピヨさんはお話ししていることがわかるって、いつも言ってるのはアキさんじゃないですか」
その通りで、しかもこれは基本的にはサトカさんにしか言っていない。あまりに親バカならぬ飼い主バカに響いてしまう発言になることは間違いないからだ。サトカさんにここまで飼い主バカがうつっているとは。僕は内心でついにやけてしまった。顔に出すとサトカさんが協力してくれなくなりそうなので、極力こらえたけれど。
「でも、ピヨが聞いてくれそうなセカンドオピニオンはサトカさんからのものだけですよ。こんなに信頼している相手はサトカさんだけだから」
えー、とサトカさんは唇をとがらせた。
「私、ピヨさんに恨まれるのはいやだなあ。抱っこさせてくれなくなっちゃうかも」
「そこをなんとか。機嫌が悪くて、本当にかわいそうなんです。カラーがじゃまになって本棚どころかタンスの上にも上がれないし」
身体をおこして、僕は居住まいを正した。
「頼みます、サトカさん。それでだめなら諦めるから」
「うわ、やめてください、私に頭を下げるなんてダメですよ」
大げさな僕の態度に、サトカさんはピヨを膝に乗せたまま、無理な姿勢で手を伸ばして慌てて畳につこうとしていた僕の手を取った。細い指が僕の手に触れる。
手が触れるのなんてさすがにもう何度目かわからないけれど、それでも初めての時と同じように心臓が軽くスキップした。サトカさんも同じように感じたのか、さらに頬が赤くなってさっと手を引っ込めた。
「じゃあ、やってくれますか」
この一瞬のひるみが押しどころとみて、素知らぬ顔で畳みかけると、彼女は渋々といった風にうなずいた。
「アキさんはおねだり上手すぎます。本当に、うまく行くかわかりませんよ」
◇
サトカさんの指示に従って、僕は机の上に淡赤色の目薬が入った小瓶と、サトカさんが重箱と一緒に持ってきた小さな密封容器に入っていた、ゆで鶏のほぐし身をピヨ用の小皿に少しよそったものを並べた。
「いやなことは短く、すぐにご褒美、は結構大きいお子さんになっても効果が高いんですって」
「詳しいですねえ」
「職場の先輩が、今、中三から保育園の年中さんまで四人を育ててるママなんです。小児科ティップスをたくさん聞けてありがたいですよ」
サトカさんはすっかりくつろいでいるピヨの背中をなでながら、低い声でゆっくり話しかけた。
「ピヨさん、目がかゆいんでしょう? つらいよねえ、ごしごしもさせてもらえないもんねえ」
ぴくり、とピヨの耳が動く。
「目薬はちょっとしみるから、ピヨさんびっくりしたよね」
猫なで声、という言葉があるけれど、サトカさんはピヨに話しかけるとき、いわゆる猫なで声に分類されるような高い声は使わない。もともとアルト寄りの声が、さらに低くゆったりした話し方になる。ピヨはこの声も好きなんだろうと僕は踏んでいた。
「ピヨさん、お医者さんで聞いたでしょう? お薬つけると早くよくなるんだって」
ピヨがかすかにしか聞こえないくらいの低い周波数で喉をならしているのがわかった。
「私、ピヨさんが早くよくなるとといいなあ。よくなれば、たくさん遊べるよ。ピヨさんにお土産も持ってきたんだよ」
サトカさんはひょいと手を伸ばしてゆで鶏をつまみ、ピヨの鼻先に差し出した。ピヨは少しにおいをかいでから、ぱくっと口に入れた。もぐもぐと咀嚼しているピヨをあやすように左手で背中を撫でながら、サトカさんはさっと右手で目薬を手に取った。
「お薬がすんだら、もっと鶏肉食べようね」
言いながら、ピヨの背後から目薬の小瓶を近づける。
ピヨは確かにサトカさんの動きに気づいていたと思うが、観念したように動きを止めた。サトカさんは桃色の液体を目頭付近に素早く一滴、たらした。ピヨが軽く首を振ってしきりに瞬きする。
「入った!」
僕は思わず歓声を上げた。
「上手だねえピヨさん! お利口な猫さんだねえ」
サトカさんも嬉しそうに声のトーンを上げて、ピヨをわしわしと撫でる。
「アキさん、鶏肉あげてください。ここが早いと次が楽です。あと、言葉でもほめちぎって」
サトカさんに促されて、僕も急いで鶏肉をつまむと、ピヨの顔の前に差し出した。今度はピヨもためらいなく、むしゃむしゃ食べる。
「えらいなあピヨ。よく頑張ったなあ」
ピヨの背中がリラックスして、こちらを見上げる顔が心なしか得意げになった。絶対こちらの言うことは全部わかっている、と僕は飼い主バカ的確信を深めた。
おやつ用によそった鶏肉を食べてしまうと、ピヨは満足そうにしっぽを二、三回振って、サトカさんの膝から降り、お気に入りのタオルが敷いてある窓際のダンボール箱に丸くなった。
「ああ、足がしびれた。ピヨさん大きくなりましたね」
サトカさんもほっとして満足そうな顔で立ち上がり、小皿をもって流しに立った。
「洗いますからおいといて」
僕は声をかけたが、ついでですから、と手を洗いながらさっと小皿も洗ってしまった。この辺の家事手順のよさはいつ見ても無駄がなくてかっこいい。彼女は中学生の頃から半分、主婦並みに家のことをやってきている。動きが板に付いているというレベルはとっくに通り過ぎているのだ。
僕も目薬を冷蔵庫にしまってから、サトカさんの隣に立った。
「お見事でした。ありがとう」
軽く肩のあたりに触れて言うと、彼女は笑った。
「お役に立ててよかったです。アキさん、すごくほっとした顔してる。……夜からはアキさんがやるんですよ、あれ」
そうだった。できるんだろうか。わかりやすく、顔からさあっと血の気が引く。
「ピヨさん用のゆで鶏は、あと二回分くらいはあるかなあ。作り方、お教えしましょうか」
「……お願いします。もしかしてオーガニックとかのすごくいい鶏肉使ったりしてませんか」
「まさか。マルナカマートの土曜市で昨日買った鶏胸肉ですよ」
小皿によそったとき、あまりにおいしそうだったのでサトカさんとピヨには内緒で一口つまんでみたのだ。猫用で香辛料やねぎを使わず、味付けもしていないはずのゆで鶏なのに、しっとりしていて感動的に柔らかくて絶品だった。
このおやつを食べたいあまりに、ピヨが目薬を我慢したとしても納得がいく。そしてどうやったら商店街の激安スーパーの特売鶏胸肉がこんなことになるのかは全く納得がいかない。
これは困る。僕もピヨもすっかりサトカさんの手のひらの上だ。
サトカさんはそんな僕の気も知らず、さっき洗い上げて水気を切っていたサンドイッチの皿を拭いて、背伸びをしてつり戸棚にしまおうとしていた。そういう高いところのは僕がやるから、と言っているのに、目の前に家事があるとじっとしていられないのだ。
僕は後ろから手を伸ばして皿を彼女の手からとって戸棚に置くと、そのまま前に腕を回して小柄な恋人を抱きしめた。
「わっ」
驚いたように彼女は声をあげる。
「もう、アキさんもすぐ後ろから来るー」
「すきあり。だって、サトカさんかわいいんだもん」
僕がおどけて言うと、彼女は力を抜いてくたっと僕にもたれかかった。
「こんなに甘やかされると、私すっかりだめになっちゃいそうです」
それはこっちの言い分なんだけどなあ。
「ちゃんと、家事教えてくださいね。料理も買い物も、他のことも。ちゃんと覚えますから」
「わかった、わかりました! お願いだから耳元でしゃべんないでください、くすぐったい」
やっぱり、ここは弱点だった。覚えておこう。
子どもじみた満足感を覚えつつ、僕は抱きしめていた腕をゆるめて彼女を解放した。
「じゃあ、夕方になって混む前に、マルナカ行きましょう」
ピヨを大家さんの好意で貸してもらっている隣のお留守番部屋に移して、僕とサトカさんは外に出た。少し日が延びてきて、午後の日差しが暖かい。
僕が何の気なしに彼女の手を取ると、驚いたように彼女は僕を見上げた。
「手をつないでいくんですか」
「だめですか」
マルナカマートは僕の部屋とサトカさんの家からちょうど同じくらいの距離にある。サトカさんの職場も同じ商店街の中。お互いの生活圏内だ。僕の勤めている大学の学生さんも結構この近所にも住んでいる。僕は全然気にしないけど、そういえばサトカさんは以前、ご近所さんに噂されて閉口していたっけ。
僕が手を離そうとすると、サトカさんは思いがけずつないだ手に力を込めた。
「僕に気を遣わなくてもいいんですよ」
僕はひがみっぽく聞こえないように気をつけてできるだけ明るく言い、彼女の顔をのぞき込んだ。この人が本当に困ることや嫌がることは絶対にしたくない。
「よく考えたら、気を遣わなくていいのはその他大勢に対してだなあって。誰が何を言ったって、人から非難されるようなことは何もしていないですもん。こんな時にぴったりの言葉を思い出したんです」
「ぴったりの言葉?」
「無責任な奴らが何をほざいてたって、知るかふざけるな」
僕は吹き出した。
「サトカさん、時々すごく……何て言うんでしょう、思い切りがよくて漢前ですよね」
「アキさんこそ、気が変わったんならいいんですよ」
照れ隠しのようにそっぽを向いて言う。
「変わるわけないでしょう。ところで、さっきの啖呵は出典があるんですか」
「内緒です。もしかしたら、ずっと先のいつか話すかもしれませんけど」
この人は知れば知るほど表情が変わる。もっと知りたくなって、目が離せなくなる。
「じゃあ、行きましょうか」
僕はサトカさんの手を握ったまま、その手をコートのポケットに突っ込んだ。少し傾きかけた陽射しの中を、商店街の方向へとゆるゆる坂を下り始めた。
2020.5.16 誤字・脱字を修正しました。
2020.5.18 アドバイスを受けて一部表現を手直ししました。ストーリーに変更はありません。
2020.6.25 読みやすさ改善の目的で改行を挿入しました。表現も一部変更していますが、ストーリーに変更はありません。