Ⅳ.新しい環境(下)
彼曰く、私は部署の所属に自由を利かせるようなことも出来るらしかった。それはまた良い待遇ですねと思ったままを口に出すと、あの人はそういう人だからという答えが返ってくる。何か面倒な事情がありそうだ。
「で、どうします?」
「特に希望は無いですよ」
「じゃ、決まりですね」
少し意外そうな顔をしながらも彼はこちらに手を差し伸べた。
サクトより人員の規模は少ないはずなのに、ここは全体的に騒がしい。人の行き交う様を遠く眺めながら椅子に座ってようやく落ち着ける。つい油断して食事に手を付けず一人考えに耽っていたのが不思議に見えたのだろう。食欲無いの、と気の無い声が上から突然降ってきた。
キン! と倒れた銀のステンレススプーンが食器の淵に当たる。顔だけで声のした方向を振り向けば、同じセクションの女性が桜色の唇を僅かに上げて立っていた。
「いえ、大丈夫です」
「ここのレストランが慣れない味だとか」
軽く首を振った後、私は躊躇いながらも聞いてみた。
「あの、お伺いしたいんですが。チーフっていつもあんな人なんですか」
反応の鈍い女性に早口気味で説明すると、さあ、と平坦な答えが返ってくる。
「誰に対しても明るくて壁を作らない人ではあるけれど」
「そうですね、でも」
「いいじゃない、頑張れるように色々と気にかけてくれるなら」
忙しいのか女性はさっさと離れていく。丁度同じタイミングで向こうからエイト達が来るのが見えて、私は今日もやはりこの平穏な時間を諦めるしかないと悟ったのだった。
彼……フレッドのいるセクションは特に重要な場所だから、友好的に迎え入れてもらっただけでとてもありがたいことなのは分かる。でも、内心やはり彼の私に対する態度には抵抗があった。まずこの見かけで身振りも大きい。普通の声も張りわたる彼の傍にいるだけで悪目立ちする。加えて、サポートしてくれるのはまだ構わないが、時々その馴れ馴れしさに思わず気が尖る。極力丁寧に接してくれているのは何となく分かるのだが、それでもどうしても粗野な印象を感じてしまう彼がそのうち安心して土足でこちらの心に上がり込んでくるのではという恐れは強くなる一方だった。
冷めないうちに私は細かく刻まれたジャガイモと玉葱の入ったスープを一匙掬う。当然のように同じテーブルに座ったフレッド達の会話に入らず自然に沈黙していたかった。
「成長緩和技術は、サクト以外の都市も公にはしないけれどもちろん試してる。サクトの特殊な教育制度と技術が首都の権威を保ってる理由のひとつでもあると思うよ。でも技術、特にコールドスリープのことは流石に分からないままだね。僕も研究してみたけれど」
「またその話か。ジネヴラさんだって大した情報は知らされていないって言ってただろ」
私に代わってフレッドが口をはさむ。確かにコールドスリープのことについて聞きたいとは言っていたが、技術を解明したいなどといって私を質問攻めにし始めるとエイトは止まらなくなる。相手の事情など知ったことではないとでも言うように振る舞う彼がフレッドにくっついてくることも多いため、必然的に私はその話に付き合う羽目になっていた。
私が成長緩和の技術の詳細を知らされていないというのは本当の事だ。濫用した場合の危険が高いため、と言われているが、おそらくは私のように首都の制度から脱落した者が他の都市に情報を売ることを危惧してのことだろう。薬剤の処方に厳重な箝口令が敷かれているのは当然の如く、コールドスリープに至っては政府の要人どころか、私の担当医や実施調整者でさえ最低限のマニュアルしか持っていないとの話だ。
受ける方である私が伝えられるのは、捉えどころのない感覚とそれに伴う夢想、ただそれだけだ。
「コールドスリープの効果は広く認められているんだから、後は安全性とコストパフォーマンスの問題だろう。せめてもっと長期的に眠ることが出来ればいいんだけど」
自分の話に夢中になっているエイト。言葉に他意の無いことを見せつけるかのような瞳と目を合わさないように、私は白磁の食器に視線を落とす。
コールドスリープなんてそんなに面白いものだろうか。知らなければ面白そうに見えるのかもしれない。あるいは、老いて生きる意味を見失い、周囲の記憶から去っていく人間になることへの危機感だろうか。
例えば、かつて親しげに話しかけてきた誰かを見かけなくなった気がする。忘れてしまった気がする。誰がいなくなったのだろうか、その人がどうなったのか、全く忘れてしまっているからして分からない。
そんな人間にはなりたくない、自分の手に皺を刻みたくない。労りの目で見られるよりも羨望の眼差しで見られたい。もっと何かを為したい。
忘れられたくない。独りになりたくない。
懸命に強がる君も、達観を貫こうとしている君も、そう思わないはずはない。技術者だろうか、医師だろうか、成長緩和措置の詳しい話を初めて聞かされる段になった時に説明をしてくれた男性の目がそう語っていた。優秀な君達に時代の先端を行く技術を授けられるのが誇らしいと話した男の熱っぽさは、今私の目の前にいる彼等にほんの少しだけ似ていたかもしれない。
「それはそうとジネヴラさん、ここのレストランもまあまあですけれど、もっと落ち着ける所で食事したくありませんか」
「え?」私は思わず顔を上げる。
「この近くでいいお店知ってるので、今度行きませんか」
あなた方がいる時点で落ち着きなどなくなる、という本心をそのまま言えるほどに打ち解けてはいない。
「……チーフの手を煩わせるのは申し訳ないので結構で__」
「そんな心配要りませんよ。それに、若いのに昼食がそれだけなんて大丈夫なのかずっと気になってたんです」
「別に我慢してる訳じゃないですよ。このくらいで足りるんです」
テーブルの上に腕を乗せながら、にこにこという表現がぴったりくる風に彼に笑いかけられれば笑いかけられる程に私の表情は固まってしまうようだった。今度はエイトが耳打ちするように笑う。
「気にしないでね、この人の女性に鬱陶しいの、いくら言っても直らないから。性癖みたいなものだから。気持ち悪いと思ったら遠慮なくぶっ飛ばしていいんだよ、むしろぶっ飛ばしてやった方が良い」
「女の子に誰かれ構わず飛びつく男みたいな言い方しないでくれるか。お前じゃないんだから常識ぐらいある」
「え、違うの? 可愛いとか綺麗だとか歯の浮くようなお世辞ばかり言って相手に距離を置かれるのは誰だよ」
「本当のことだよ、そう思ったから口に出してるだけだって」
「ほらまたそういう事を言う。これは手の施しようが無いですよね、そう思うでしょ」
「そ、そんなこと無いですよね? 何か気に入らないことがあれば直しますから」
唐突に二人から問い詰められて紙コップに回した小指が思わず震えた。
「……よく分かりません」
この二人と同じ席に着いていて言葉に詰まった挙句、理由を付けて急いで場を後にするのが不自然に見えない訳が無い。けれど、今まであまり出会ったことのないタイプの人間に私は困惑していた。正直に言えば彼の言動は苦手だとしか思えそうにない。
苦手なものがそう簡単に克服できたら苦労はなかった。
『__変化はね、なんにも無いよ。変わらずレポートとか調査報告とかを書かされてるだけだってば。変わったのはジネヴラの方でしょ』
「そうだね、色々ありすぎて話すの面倒臭いぐらい」
『景色とか綺麗じゃないの?』
「ああ……そう言われてるね。当たり前だけど人通りはサクトよりずっと少ないね」
自室で固定電話の受話器を引っ張りながら、私は開けた窓の枠に腕を乗せる。親しい距離でいつも聞いていた声よりぎこちなく聞こえるのを補うように、お互いとりとめのない話を続けていた。やはり電話線の向こうに未だ私の日常は置き去りにされているのかもしれない。
『海、見たことないんだ。だーって地平線まで広がる草原も。テレビのグラフィックでしか見たこと無いよ、それか夢の中。イレッタみたいな場所ならまだ植物も自然な形で残ってるんだろうねえ』
のほほんとした顔を少し傾げて喋る様子が目に浮かぶようだ。
「相変わらず幸せな人だね、あなたは。そういう話だけど実際はどうなんだろう。……ああ、少なくとも植物は自生してるよ」
一人で下に降りて行った崖のことを思い出して躊躇いがちに言葉を加えてみる。
『ここだけの話、私も少し行ってみたかったなあ、なんて』
「リゾートみたいな場所だと思ったら間違いだよ。ただの田舎」もっとも、これからリゾートのような場所になっていくのかもしれないが。「それより、眠そうだよ」
『ん。眠い』普段の呑気な口調がさらに間延びして芯が無くなっていた。この友人は眠くなってから寝てしまうまでの間がとても短い。ときに気を失ったのではないかと思ってしまう程だ。
「寝るならベッドで寝てよ」
『うん。じゃーね……』
返答をするまでもなくあっけなく切れた電話に気が抜けて、耳元から離した受話器をしばし見つめてから、仄かに温もったそれを静かに置く。椅子に座りなおした私はまた外の暗闇に目を向けた。私の部屋は共同住宅の一番上にある。上の階から押し付けられている感じがしないのは良かった。
窓枠の上で指を組む。目は冴えている。
この窓からは見えない西の空、そしてその下でぎらつくような光彩を放っているだろう都市に意識が飛んでいく。
フレッド達の事はともかくとして、任された仕事はそれほど複雑なものではなかったし、考えてみればここにいる人間もほとんどは最近他の都市から移ってきたばかりなのだ。馴染みやすい環境と言えばそうなのかもしれない。
ルカが何故イレッタを勧めたのか、その理由を教えられることは無かったけれど想像はつく。この国の政治的な意味合いでの「都市」とは、中央政府からの広範囲な自立を許された自治政府が置かれている地を指す。都市によって、政策から街の規模、その歴史や特色まで様々ではあるけれど、周辺の都市とのあれこれや、中央政府になかなか要望が通らないなどの問題を解決しようと、「都市」になろうとする町は多い。
当然それが簡単にいく訳ではなくて、中央政府の計画や許しが下りることで都市になる例が大抵だ。ただ、近頃ではそれが少し変わり始めていて、サクト以外の有力都市が都市成立を押し通す__ということもある。
そして、イレッタはそんな現状を憂いた中央政府によって計画された都市なのだ。
あの時、ルカは上からの通達を伝えに来ただけだったのだろうか。今ルカが中央政府の中でどんな立場を得たのかも私は知らなかった。知らされなかったのではなく、遠ざけていた。
たしか彼は、珍しく途中から制度に入ってきた子供だった。さぞ、ひときわ優秀な子供なのだろうという周りの予想に反して、彼はどちらかと言えば目立つことを避ける子供だった。たしかに普通の子供よりは賢かったけれど、普通に笑い普通に悲しむ、全く普通の子供だった。今でも編入してきた本当の理由は分からない。
私はなまじそういう昔の彼を知っていたために、月日が経つにつれて、同じ人間でありながら次第に別人のように見え始めた彼に穏やかな気持ちを抱けなかった。
数ある気休めの言葉の内に、世の中に完全な人間などいないというものがあるけれど、ふと気が付いたら私は彼に会う度無意識のうちで彼の欠点を探すようになってしまっていた。劣等感としか言えない感情に振り回されている自分に失望した。何故彼に執着するのかと自問しても同じことだし、変化していく彼に悪寒さえ覚えた。
そう、確かに完全な人間なんていないだろうけれど、限りなく完全に近い人間はいるのかもしれない。あるいは周りにそう思い込ませることのできる人間は。
ルカと距離を取っていたのは正解だったと思う。なのに、ここに来るきっかけになった人間として、最後にこれ以上ないぐらい記憶に刻み込まれてしまったのが情けないというか何というか。
早く逃れたいし、だからこそ逃れたくない。
息を吐いて指を動かす。
車の流れる音がする。就寝前の薬を飲むのはもう少し後で良いだろう。
眠気が訪れるのを待って、私はそのまま長いこと知らない匂いのする夜の街を覗き込んでいた。




