Ⅲ.新しい環境(上)
元々イレッタにそれほど興味も持っていなかったのだから、指導者との対面に多くを期待することなど止めておこう__というのは、私が始めから決めていたことだった。
それでも今日は目が覚めてからずっと陰気な溜息ばかりついている。子供の時からずっと同じ環境で限定された人とだけ接していたのだから、緊張しないほうがおかしいのかもしれない。それに、あまり人前に立つ気になれないのにはもっと簡単な理由もある。
歩みを止めてふと横を向くと、恨めしいほど底抜けに清澄な朝が広がっている。この辺りで一番高いビルの廊下の外側は一面ガラス張りだった。まだ雨の跡ひとつないほど新しく、視線はガラスを突き抜けて明るい空へ向かっていく。映らない自分の姿を確かめるようにそっと指で髪先や眉間に触れ、目を瞑った。
軽くではあるけれどいつもよりは丁寧に化粧をして、肩甲骨を覆うほどに伸びた色素の薄いブロンドもできるだけ整えてきたつもりだった。それでも近くで見れば、炎症を起こしてばかりの肌に艶が無いことや髪全体が傷んで細っていることがすぐ分かってしまう。
きっと下らないことを考えているのだろうけど、どうしても気分は晴れない。
憂鬱なことなんてすぐ済ませようと決めて後ろを振り返り、そこにある両開きのドアをノックしようとしたところで、室内で張り上げられる声とドアに嵌められた磨りガラス越しに近づいてくる人影が見えた。
重さの割に勢いよく開かれたドアから一人男性が出てくる。崩したワインレッドの髪が風もないのにふさふさと揺れていた。眉に深い皺を寄せて下を向いたままの彼は、私には気が付かずに大股で廊下を歩きだす。そのまま去っていくのかと思ったが、廊下の奥からばたばたと駆けてくる足音があった。
「どうだった?」
裏の無い気安さで話しかける男は、部屋から出てきた彼に比べて随分小柄だった。見上げるようにして相手の顔を覗きこんでいる。
「いや全然。相手にされてない」
「大分諦め悪いよな。これで何回目だよ」
「分かってるって、方向性が根本的に合わないんだよ。でも他の街を模倣すればいいとは絶対に思えないだろ。もっと……」
「だから、方向性云々じゃなくて。駄目なものは駄目なんだってば」
「なんだよお前、知ったような口叩いて」
彼らは小声で話しているつもりなのだろうが、人気のない廊下では内容も全部聞こえてくる。気にすることでもないかと私は部屋に入った。
肝心の指導者その人はと言えば、資料の写真をそのまま立体的に抜き出したような人で、良くも悪くも指導者らしい人だった。野心的な眼差しや波風を立たせないような声色。たるんだ口元が動かしにくそうだった。
対面してみれば何のことは無く、すぐに忘れてしまうことが分かり切っている形式的な会話をすればいいだけだった。用意しておいた答えで流せるような質問ばかりで、出来れば今はされたくないような質問をされなかったのは正直ありがたかった。それでも、指導者ともなるほど権威のある人との対話。早々にお暇させてもらいたいという思いは拭えない。
「見ての通り、この街は発展の途上です。日々新しく生まれ変わり続ける首都と比較すれば、その差に驚かれることだと思います。しかし、それは成し遂げた結果がそのまま表れるということでもある。事情や慣れないこともあるかとは思いますが、どうか経験を生かしこの街の健やかな成長の一助となっていただきたい」
「はい」
物のない、シンプルというよりは簡易的な部屋に少し不安を覚えながら、私はやはり大きい窓から見える統一された色の家々を見下ろしていた。
「あの……君」
避難経路の描かれた案内図に沿って、空中で小さく指を動かしていたところを遠慮がちに一度肩を叩かれて振り返る。そこには先程見かけた暗赤色の髪の男性が立っていた。
「あ、私ですか」
「ええ……どうかされましたか? 訪問された外部の方では無いですよね」
一人でも何とかなりそうではあるからと躊躇していると彼が付け加えた。「その案内図、一か月後からの物ですよ」
「え?」
「案内しましょうか。どこへ行かれますか」
「セクションEの部屋です、識別カードを」
受け取りたくて、と続けようとすると男性が何かに気づいたように顎を上げた。
「もしかして、ジネヴラさんですか? 首都から来たっていう」
そう言うと私が頷こうとするのも待たずに顔を綻ばせた男性は「待っていました、来てくれてありがとう」と手を差し出してきた。指導者に会う前に見た渋面が嘘のような開けっぴろげな笑顔にたじろぎそうになるのを抑えてそれに応える。平たくて熱っぽい手だった。こうして新しく会った人と挨拶を交わしていくうちに、固くて冷たい自分の手を確かめられたくない私が最低限の握手しかできないなんてことも無くなるのだろうかとぼんやり考えてみる。
「私がセクションEのチーフです。宜しく」
驚きの声は出さなかったものの、私は思わずその目を見てしまう。彼は冗談めかして口角を上げてみせた。
「若いと言われることも結構ありますが、自分ではそれなりの歳になってるとは思うんですけどね」
「そうですね、他の方と比べると」言葉を選びながら考えてみる。「でも、いない訳ではないとは思いますけれど」
人懐こい笑みで応えた彼はそのまま先に立って歩き出す。一体どれだけ人に見せるための笑顔を持っているのだろうか。
「そういえば、俺もサクトで研究員として動いていたことがあったんだよ。正式にではなくて、経験のひとつとして、みたいなものだったけれど」
彼が背を向けたまま話す。サクトの研究員と言えば、普通はある程度成長したエリートコースの子供達のことになるけれど、それとはまた別にサクトの内外から就く人ももちろんいる訳で、彼はその一人だったのだろう。まあ、こんな派手な人間をすぐに忘れることはないから、会ったことはないはずだ。
しばらく私は骨格のしっかりした背中を追いかけて歩いた。彼の低い声は廊下の雑音に紛れてよく聞き取れなくなってしまう時があったけれど、自分はサクト以外にも色んな都市で色んな職に就いていたことがあり、その中でもイレッタは特に気に入っている、と大体そんな感じの話だった。
「正直、今はまだごちゃごちゃしている所もあるけれど、そのうち落ち着いてくると思う」
目的の部屋に着いた彼がそう私を招き入れようとした時、またどこかで聞いた声が割り込んできた。
「どこ行ってたんだよ、待ってたんだ。この間そっちに出した報告書に書き加えが」
私の存在などお構いなしに彼に話しかけるのは、やはりさっき彼と一緒にいた男だ。慣れた身振りで彼は男を制す。
「後にして。用事がある」
「用事」
「彼女を案内してる。ほら、例の」
例の? どこまで私の話が伝わっているのだろう。振り向いた男は興味を隠そうともせずに私を見つめてきた。丸顔の中の一重瞼を開けるだけ開いたというような、ぐりぐりした黒い瞳が私を映す。私は曖昧に笑って会釈した。
「イレッタへようこそ、僕はエイト。セクションDに所属しているから部署は違うけどよくここに来るので、こっちの部署で何か聞きたいことがあったら宜しく。あ、それでね」
「待って。俺より先に自己紹介、いや良いんだけどこれから彼女に色々説明するから」
「違う違う、ただ折角だからコールドスリープの事やそこら辺について伺いたいと思って、どの機会に話せるか」
「だからそれも後にしてって、困らせないで」
「そんなの、お前に案内されてる時点で困らせてるだろ」
「なんでだよ。とにかく帰れ、一旦」
「僕だって暇つぶしに来たわけじゃなくてだね」
主旨を失くして戯れ合いになりつつあるやりとりの行方を私はただ棒立ちで聞いていた。多少物が多くともオフィスの中は広いので二人の声がそれほどの騒音になるわけではないし、周りの様子から察するによくあることのようだったが、それでも居心地が悪いことには変わりない。仕方なく私は口を開く。
「あの」
「ああ、失礼。じゃとにかく後で」
慌てたように歩き出す話し相手に諦めがついたのか、エイトは「じゃ、また」と笑う。私に言ったのかと気づいたときには、ふいと踵を返して去っていく身軽な彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
部屋の一番奥にある、広いデスクの後ろに赤髪の男性が立つ。疑っていた訳では無いけれど、本当にこの人がチーフなのかと改めて思いながら、窓からの柔らかい光を後ろから受けるその姿を眺めて息を吐く。
「識別カードですね、少し待ってて」
「あの、お伺いしてもよろしいですか」
「うん?」
「お名前をお伺いしても……」
先程のやり取りを思い出してか、ああ、と彼は苦笑気味に頷いた。
「フレデリック・ユースフです。まあ、フレッドで構いませんよ」




