Ⅱ.ハウスプラント
苔の上に生えていた小さな黄色い花の茎に爪を立てる。ピクニックなんてする気は全く無かったのだけれど、何か飲み物でも携えていたら時間の潰し方に困らなくて済んだかもしれない。
持て余し気味に膝に乗せた左手を開く。岩に擦った手の甲の皮膚が剥けてじんわりと血が滲んでいた。何をやっているんだか、この街での仕事に支障が出ないだろうかと他人事のように考えた。怒られるかもしれない。けれどそもそもどういう仕事が与えられるのかさえ詳しくは分からない、イレッタの自治政府での仕事と聞かされたぐらいだ。それだけ急な異動命令だったということだ。
私がイレッタに行くということを義理のある人に告げてから荷物を纏めるまではかなり短い期間だった。物陰から犬も好かないような雑言が聞こえてきたのは別にどうでもいいことだったけれど、気を使ったのは研究員のメンバーや顔馴染みから、あまり普段繋がりが無い人からも声を掛けられたことだった。皆、ぬるい雨水みたいな妙な接し方だったのを思い出す。憐れみに近いものが混じっているからだということに何となく勘付いてからは、逆境に負けないよう精一杯明るさを装おうとする人間のように振る舞っていた。彼等の望むような対応ができたかどうかはともかくとして、どういう態度を取るべきなのか明確に分かったのが自分でも不思議だ。
岩の上で足を伸ばしながら指先で花の茎を転がす。日の当たりの弱さのせいで少し淡い緑色をしていた。
白い壁にサフランイエローのソファーが置かれた小さな応接室に通されて相手を待っている間、私は部屋の隅の観葉植物を見ていた。部屋の中にあるとは思えないほど健やかに深緑の葉を茂らせていた。ある程度は環境に強い品種なのだろうが、中央政府のオフィスならこういうものまできちんと管理していてもおかしくは無いな、と考えていた。
窓に掛かったブラインドが空気清浄機の風に揺れて、その隙間から昼間のビル群と薄い雲が浮く空が見えた。向かいのソファーに誰もいなくても部屋の中は様々な音が響いているもので、意識を努めて外に向けていれば何の音か聞き分けることもできた。低く唸り続ける機械の作動音。ブラインドが窓枠にぶつかる音、壁掛け時計の細やかな金属音。廊下からは私を案内した若い女性の、眠気を誘発される話し声。遠くからくぐもって聞こえる車のエンジン音。
一応は来客という立場に準じて大人しく待っていたが、5分経つ頃に不安が募りだし、8分経とうかという頃には溜息を吐いていた。暇つぶしに窓の外を見に行こうか迷って首を動かした時、やっとドアの開く音がした。
嫌味を言う気は無かったが、遅くなった理由ぐらいは訊いても良いだろうかと思いながら立ち上がる。できる限りソフトな微笑みを装いつつも入ってきた相手に声を掛ける、つもりだった。
お手本のような音を響かせてドアが閉じられる。
伏せられた睫毛を上げて私の姿を認めた相手が、静かに一度頷いた。
「申し訳ない、立て込んでいました」
そのまま何も言わずにすっと歩いてくる彼の心を計りかねて私は声を掛ける。
「……あの」
「うん」
彼はもう一度頷いて、均整の取れた屈託ない笑顔を向けた。素っ気なくはないが甘すぎもしないこの表情。
「久しぶり、ジネヴラさん」
惑いを散らすために一瞬だけ目を瞑る。自然に微笑んでみせるはずだったのに軽く睨むような目つきになってしまったかもしれない。
「この間会った気もするけれど、久しぶりです」
「2年6か月前ですね」
顎より少し高い位置まで伸ばした、はねのない素直な漆黒の髪とアーモンド型の瞳。瑞々しい白皙の肌や、何故か常に薄く桃色に色づいている頬も全く記憶の中の姿と同じだった。新しいのは彼がハイネックに金のボタンがあしらわれた白い制服を着ているということ。決して背が低い訳ではないのでそれなりのものには見えるが、まだ少年の面影が残る顔立ちのせいで、中央政府の官人と言うよりは高級ホテルのボーイと言われる方がしっくりくる。
私の視線に気が付いた彼が困ったように笑いながら服を摘まんでみせた。
「似合ってないでしょう? だから私服で話したかったんだけど、着替える暇が無くて」
「いや、そんなことも」
「そう。それなら良かった」
「それで」これ以上待ってはいられないという意味を込めて、少し早口気味に言葉を発してみる。「何か、用というのは」
彼は微笑を崩さないまま、抱えていたバインダーをガラステーブルの上に置いた。沈黙を御する余裕があるんだな、と思う。当たり前だ。彼の手元に不吉な予感を覚えながらただ見つめることしかできない私との歴然たる差がそこにある。
「色々と話は伺っています。貴方の実力を知っている僕としても、貴方の問題は他人事には思えません」
私は考え込むふりをしながら、再び観葉植物の枝葉に目をやった。
「ジネヴラさん、これは僕の提案として聞いて欲しい。その上でお受けする場合は正式に命令として書類を渡します」
「……というのは」
「半年ほど前から、新しく自治政府の拠点として都市開発が始まった街があります」
差し出された資料に目を通す前に、記憶の弦に落ちてきた名前があった。
「__イレッタ?」
東の果て。古くからあるものの、あまり有名ではない小さな海辺の地区。
考えに耽っていた私がふと資料を繰る手を止めて目を上げると、彼は運ばれてきた紅茶のカップを音も無くソーサーから取り上げて唇にあてがっている。そういう何気ない伏し目がちな仕草に、私はいつも光を感じていたのだった。
外見からして彼も未だに緩和措置を続けているはずだとか、なぜ今私は彼と対面しているのだろうとか、結局のところ彼はどういう人間なのだろうかとか、思うことは色々あったけれど、私にはこういう行き場の無い疑問に対処する方法が分からない。とりあえずこんな彼の姿が見られたのは良かったと強引に結論付けて終わらせることにした。
「良い場所だと思いますよ。元々静養地として人が来ていたそうなんです。それに今はまだそれほど注目されていませんが、都市としての将来性は十分にある」
目の前にいるのが彼で無かったら少しは食い下がってみる気になったのだろうか。否、誰であっても最後は受け入れることにするのだから、きっと大した違いは無い。
「そう、ですね」
もう少しましな答え方ができないものかと思うほど無感動な自分の答えが、重い鐘の音のように耳を聾した。その後も滔々と説明は続いていたし、慰めのような言葉も掛けられたような気がするのに、ほとんど忘れてしまった。言ってしまうならばあまりに円滑な対話。彼が放った全ての単語が意味を為さずその場で蒸発していく体験には内心くらくらし始めていた。彼のこの後の仕事は何だろう。彼なら、誰が相手でもきっと完璧な笑顔ができるはずだ。
「ルカさん」
話を済ませて立ち上がった彼の横顔にそっと名前を呼ぶ。知り合った時、名前は呼び捨てで良いと言ったのは彼だったけれど、やはり敬称を付けて言うのは別人を名指しているような気分だった。彼が少し意外そうな表情で振り向く。
「はい」
本当は、彼がその名前を自分のものと認めてくれただけで十分だった。だから続ける会話なんて出任せでいい、と思ったのだ。
「今までもそうでしたけれど、会うのが本当に難しくなりますね。またこうやって話ができたらいいんですけれど」
ええ、僕もそう思います、まあ。ややあってからルカはそんな言葉を不明瞭に二三呟いた。
「……でも、難しいですよ。忙しいし、貴方も。だから、それはちょっと」
「運がよければ会えるかもしれませんよ」
苦い顔をされると分かっていてこんなからかいを口走るのはどう考えても賢明ではない。だがふと私を見たルカは曖昧に口元を和ませた。
「約束は。できません」
その微笑みに歩く気を挫かれたように、帰り道、狭い階段の途中で蛍光灯を見下ろしながら私はしばらく立ち尽くしていた。彼と話した後はいつも、何に負けたでもないのに負けを惜しんでいるように残るちょっとした惨めさを久しぶりに突き付けられていた。今になるまで都合よく綺麗に忘れていたものだ、と思った。
そう、いつまでも覚えていなければならないようなものは私も望まない。
あの部屋全体に溢れていた温かいサフラン色、目の前にある花弁はそれを凝縮したような色をしていたけれど、なんとも小さく頼りない。右腕を下に垂らした拍子に指先から花がすり抜けた。
鳥が囀っている。岩に開いた空の中にその影は見えなかった。
洞窟の静かな呼吸と、真っ青な出口の向こうで続いている波音を放心して聞いているうち段々と半眼になってくる。夜にかけて水位は上がるのだろうかと思いつつ少しだけ眠りに身を委ねたくなって、岩に寄り掛かって蹲るために膝を引き寄せた。
微風のような彼の笑顔もやはり憐れみだったのだろうか。
いずれにしろ、答えが出せることはもう無いのだろうなと空を見上げながら思った。




