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白蝶貝の入江  作者: 浅葱 佑
白蝶貝の入江-Inlet of the rivival-
12/16

Ⅰ.追憶

裏話のような前日譚として上げるつもりだったために(事実そうなのですが)、元々章タイトルには「番外編2」と冠していました。予想以上に長くなってしまったので、もう一つの本編、あるいは続章だと思ってくださって構いません。

 

『話してくれ』


 私がこの数か月で散々無言のうちに、言葉のうちに投げられた問い。

 もし何かを話す余地を与えられたとしても、人生なんていう言葉を印字のようにしか受け取ることのできない私だ。イレッタを興した彼等がどんな人物だったのか、彼等が何を感じていたのかを上手く話すことはきっとできない。それで私の言葉によって何かが歪められたりひととおりの型に嵌められてしまったら、私が私を許すことはないのではと思う。そんな訳で、私は涼しい顔して周囲の期待を裏切り続けていた。

 きっと私自身に対してもそんな風に過去を誤魔化すことができれば良かったのだろう。辛さに耐えきれなかった人間の如く本当に忘れてしまおうと考えたことがある。不可解なほど恵まれたことに、今の私には過去を忘れ笑って昼中を過ごせるだけの境遇が用意されているのだ。

 だから恍惚に溺れた女性をやっている私が、寝心地の良さそうな枕元から無骨な刃物が滑り出てくるような心地で毎晩を迎え入れていることを知っている人はそう多くはないはずだ。

 停滞から引き戻された時の奇妙な安心、彼等の冗談めかした笑いや街の匂いや青さの雪崩。香りの充満したフラスコの中に落ちるような感覚で決して悪い気分では無いけれど、心の中でしか彼を詰れないことだけがもどかしい。今となっては襟首を捕まえてでも彼に問いただしたいことばかりなのに、記憶に残っているのは彼の問いかけだ。


『話してくれ、ジネヴラ』




 ______


「お客さん、この辺でどうですか? お客さん」

 目を開けて始めて自分が微睡んでいたことを知る。目の前には制服姿の年配の男性の優しそうな顔があった。

「あ。すみません」

「今日は良い陽気だからねえ。そのコートも暑いんじゃないの」

 開いたドアから流れ込んでくる風の冷たさで、眠気が布を引くように払われていく。運転手は勘定を手際よく済ませながら気さくに話を続けていた。

「この先に歩いていくと眺めの良い所に出ますよ。市街地まで少し距離がありますから、もし少し行ってくるだけならここでお待ちしていますが」

「……いえ、大丈夫です」

「そうですか」

 そのまま言われた方向へ足を踏み出そうとした私の背中に何か声がかかる。運転手が窓を開けてこちらを見ていた。

「お嬢さん。お気をつけて」

 意味ありげに微笑を残し、巧みにUターンしたタクシーはそのまま来た道を戻っていき、長閑なタイヤの音が遠くなるまで私はそれを見送っていた。風の音だけが聞こえるようになってようやく足が動いた。

 舗装もされていない乾いた土の道を歩いていくと、途切れた地面の先に青い帯が浮き上がってきた。多分ここかとぐるりと視線を巡らす。崖の手間には貧弱な木陰と長ベンチが二つ、人の気はどこにも無し。風に乗って微かに人の笑い声が聞こえたような気がしてそちらに目をやると、崖に沿って密集したイレッタの街があった。ここら一帯は崖が続いていて、ぎざぎざと海岸線が複雑に入り組んでいる。その中で綺麗に抉れた場所があり、そこの窪みを中心として市街は広がっていた。こうして見ると全く都市とは言えない規模だ。

 気が付くとコートの袖を引っ張っていた。

 こんな場所に来て何が楽しいのだろう。都市の他に眺めるものといったら海ばかりだ。海なんてこれから嫌気が差す程目にすることになる訳だし、わざわざ今見に来る必要もない。

 ふっと唇から吐息が漏れる。私は崖際に打たれた柵に近づいた。何と言えばいいのか、公園の柵みたいな作りだ。事故を止めることは出来ても、超えようと思えば難無く超えられてしまいそうな代物。

 運転手が最後に放った言葉の意味に気が付いて思わず杭を握る指に力が入った。田舎特有のお節介というやつか、それともそれほど辛気臭い顔でもしていたのだろうか。それにしたって余計なお世話には違いない。


 力んで白くなった爪を見つめ、そっと指を放す。

「静かな」会話を復唱するように口から息が漏れた。

 __すみませんね、よく聞こえなくて。どこまでですか? __この辺りの、綺麗で静かな場所に。無いなら、いいんですけど__まあ待ちなよお客さん、それは観光ですか、それとも暇つぶしというか……

「暇なだけです」今度ははっきりと声に出してみる。

 酔っている訳でもないのにどうして有人タクシーを使ったのかも、どこで乗ったのかもよく覚えていない。どうせ覚えるほどのことでも無かったのだろうが、始終心ここに非ずだなんて相当やばい奴だ。思わず苦笑いが出て少し安心した。

 確かに、そんな様子の若い女がいきなりそんな事を言えば、何か勘繰らない方がおかしいのかもしれない。もういい、あの場限りの付き合いだ。


 崖にそって市街と反対方向に少し歩いたところで足を止めた。柵は無くなっていて、灌木の細い枝に青いビニール紐の切れ端が泳いでいた。尾の千切れてしまった鑑賞魚のようだ、と思う。水槽の手入れが良くなかったのか他の魚と喧嘩してしまったか、鱗が剥がれて白い傷を晒したままゆらゆら泳ぐ魚をいつか見たことがあった。

 灌木を押しやって身を僅かに乗り出してみると、細い道が下へ続いていた。




 暇とは言ったけれど、暇ということにしている、という方が正しい。この街でも私にちゃんと用意されているものがあるのに、それを分かっていながらここにいるのだ。

 岩を掴みながら崖につけられた道を降りていくのは意外に大変だった。道は道でも風雨で削られたのか、誰かが人為的につけた道なのかも判然としない。軟弱な足が軋んで息が上がる。最後には岩の突起に躓いて割と派手に滑り落ちた。

 這いつくばった姿勢から何事も無いように立ち上がると、着いた崖の下は狭い岩場だった。左右どちらに行こうかと迷ってから右の方へ岩を伝って進む。その間、ずっと足元ばかり見ていた。もちろん人の姿はどこにも無い訳で、ここで帰れなくなってしまったらどうすればいいのか自分にも分からない。


 肌に当たる風の温度が変わり気怠く頭をもたげると、いつの間にか小さな洞窟の入口がすぐ横にあった。流れる潮が泡立ちながら岩のアーチの中へ流れ込む。よくある水路のように両脇の岩場を歩いていけそうだった。

 この天気とはいえ陰気で寒そうな洞窟の中に入ってみたいという気はあまりしなかった。足を止めなかったのはまだ自分にも残っていた微弱な冒険心と、あとはもうただの惰性に近い。

 ところが水音の反響する洞窟を進んでいった先にあったのは、晴れた日の温もりに包まれている小さなホールのような場所だった。所々に開いた穴の向こうに冷たい青空からの差し込む光からの筋、岩の窪みでひっそりと生きる春色の苔や草が岩と水だけの景色に彩を添えている。

 初めて聖地を訪れた信徒がそうするように暫し日陰でその空間全体を眺めてみてから歩み入る。日差しは温かいけれど風はまだどうしても冷たい。指先でコートを引き寄せつつも腰を下ろせそうな乾いた岩に上った。

 

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