#1
できれば本編中に入れたかったストーリーその1。なので番外編というよりおまけのようなものです。
本編の最終話前の話になります。
「……どうかな」
ケーキを口へ運んだカルラにアキリアは聞く。しばらくの沈黙の後で、無表情のままカルラは言った。
「美味しい」
その一言で肩の力が抜けたアキリアは、それまでガチガチに緊張していた自分に気付いて可笑しくなった。
「良かった、持ってきて。この前コーヒーには何も入れてなかったから、甘い物とか苦手なのかと思ってたんだ」
「それとこれとは別だから」
無心でケーキを頬張る様子にアキリアは安心する。カルラのこんな姿は意外だったが、考えてみれば今まで彼女とプライベートな話をしたことさえあまり無かったのだ。
アキリアも自分用に切り分けたケーキの表面にフォークを刺す。濃密な霧か雲のようなクリームの中へ手応えなくフォークが沈んでいく。ラズベリーやマンゴーが盛られた純白のクリームや中のたっぷりしたメレンゲ。実際にはそこまで甘さがきついわけではないのだが、いかにも甘ったるそうな見た目である。
「夕食のデザートと言うより夜食だなこれ」
「ふふ、身体に悪いな」
「持ってきたのはそっちだろ、まあ一日ぐらいは良いけどさ。しかし突然だな」
「ごめんね。そういえば早く食べなきゃって急に思い出して」
人の部屋を訪ねるには少し遅い時間だ。突然やってきて迷惑がられるかもしれないという不安は当然あったのだが、カルラは意外にもあっさり迎え入れてくれた。いい加減彼女に対する認識を変えなければいけない。アキリアは指先についたクリームを舐めながら微笑む。
――思い切って来てみて良かった。本当は、一人で部屋で起きていることがふいに耐えられなくなったのだ。
「グレイがさ、こういうのカルラが喜ぶだろうって言ってたんだ」
微妙な表情でカルラは曖昧に返事をした。返答に困る発言だったのかもしれないと、つい緊張が解けた勢いで言ってしまったことに後悔する。
グレイは他人のことにそこまで興味を持たないというだけで、人と話をすることに抵抗を感じたりはしない。きっと自分の知らない所でカルラと親しくなっていたのだろう。そうやって彼はごく自然に生きていけるのだから羨ましい。
カルラがふと気付いたように手を止めた。
「そういえばこれ、アキリアが先に帰った時に買ったやつか。あの時苛ついてて申し訳ない」
「うん、でもそう気にしなくても」
「聞きたいんだけど。スリーシェ、の様子っていつもはどんな感じなんだ」
「普通だよ。今まであの子取り乱したことなかったし」
そう言うアキリアも、実のところ最初はスリーシェにどう接していいのか全く分からなかった。むしろ彼女に気を遣われているようだと気がついたのはしばらく経ってからである。
アキリアの言葉にカルラはクリームのついた手元のフォークを見つめながら少し思案するような素振りを見せた。
「普通か」
「うん」
「普通……」
「どうしたの」
「それってつまり、そこらの人間と変わらないような理性や知性があるってことだろ」
「あっ。そうか」
アキリアは口元に手をやる。そのことに全く気付いていないわけでは無かったのだが、指摘されて初めて事実として気がついたのだ。
「それだけじゃない、私も少しあいつの様子を見ていたけれど。レバーを下げながら扉を開けるとか、テーブルの上にあったグラスを取ってストローに口をつけるとか、危なっかしい手つきではあったけどグレイが教えなくても自然にやっていたから不思議だったんだよ」
アキリアは思わず項垂れる。私達には当たり前すぎてなかなか気に留まらないことではあるけど、と宥めるようにカルラが言う。けれどスリーシェ達の事について研究しているのに気付けなかった情けなさは拭えなかった。カルラは人差し指でテーブルを叩きながら話し続ける。とん、とん、というゆっくりしたリズムの中で思考を巡らせているようだった。
「知能や理性が人間と同じくらいあるのだとしたら、グレイが見つける前に彼女達にそういう機能を与える処置が為されていたってことなのかもしれない。――何の目的でとか、どうやってとか、もうイレッタはああいう状態だから考えたって結局分からない部分はあるんだろうけれど、私はそこが気になるんだよな。いや、待って。スリーシェ一人に限ったことかも分からないか」
「あっそうだ」
アキリアは伝えたかった事を思い出して顔を上げる。昼間、保護施設に行って起こった事をカルラはまだ知らない。起こった事、と聞いたカルラは軽く眉を寄せる。
「なんか面倒くさいことだろ」
「面倒というか、ちょっとね」
自分の見た施設の様子、人造体の様子、ソニ達も来ていたことなど、昼間起きたことをかいつまんでカルラにも分かるように話す。カルラはいつも通りの様子で聞いてくれていたが、話すにつれて段々と自分が平静を失いつつあるような気がしてきた。
「それで。グレイに、落ち着いたら折り返し連絡して、って連絡したんだけどね。まだ何も音沙汰無くてさ」
「……そう」
話が終わるまで黙っていたカルラが、かろうじて聞き取れるぐらいの声で相槌を打つ。すでに指の動きは止まりテーブルの端に置かれていた。アキリアはテーブルへ身を乗り出す。
「ねえ、スリーシェの事どうしたらいいと思う? そりゃあさ、私達以外の人はスリーシェ達の事をただの人造体としか思っていないのかもしれないとは薄々感じてはいたけれど。それがあんな風に分かっちゃったのは最悪だったよなあ……スリーシェ達にも意志があるんだ、なんて説明しても分かってくれるかどうか、いや、分かってもらえないよねきっと。スリーシェがああいう人達の元に行かない方法無いのかな」
「私に言われても。アキリアやグレイの方がずっと分かる気がするけど」
飴色に透ける睫を伏せて答えるカルラへ縋るようにアキリアは首を振った。
「分からないよ、私カルラみたいに色んな事に頭回らないもん」
「そういう事じゃないって。お前らの方がスリーシェと一緒にいるじゃないかよ」
「いるけどさ。私、スリーシェの様子とかにも気がつけないぐらいだし」
「お前なあ」
呆れか失望のような溜息をつかれて、またアキリアは落ち込む。常日頃から何かというとすぐカルラやグレイをあてにしてしまう自分を、自身でも情けないとは思っているのだ。ぼそぼそと口を開く。
「できれば、今の状態が続いて欲しいとは思ってるよ。それか……普通に一人の市民としてスリーシェが生活できたらなあ、なんてね。色々と無理だろうけど」
「無理だろうなあー」カルラが後ろに両手を突いた。「私達やアキリアが研究員やめるなら話は別かもしれないけれど」
「無理じゃん」普通、自分の意志ではコールドスリープやエリート教育制度から降りることはできない。というかそういった制度の中で育つ子供達は、程度の差こそあれ世間に疎くて親族との縁も薄くなっていくので、制度の籠の外へ飛び出したいと思う人がまず稀だ。
「グレイはどうだか知らないけれど、ていうかあいつ着信絶対気がついて無いよな」
「うん」
二人で顔を見合わせて苦笑する。
まさかあの後あのままスリーシェを見失ったなんてことは無いだろうし、着信に気がつかないのも彼らしいといえば彼らしいのだが困ったものだ。
「仕方ないな。折り返しはこっちにするように私からも連絡しておく」
「ありがとう」
「疲れた顔してるから早く寝なよ」
そんな疲れてるように見えるのかな、と部屋に帰って鏡に映る自分の顔を見ながらアキリアは一人首を傾げる。特にいつもと変わっているようには見えないし、それほど疲れていないように感じるんだけれど。
むしろ身体から力が抜けきらない。もう連絡を待つ必要もなくなったというのに、まだ休むべきではないと身体が勝手に判断しているような感覚だ。カルラには早く寝ろ、と言われたものの眠れそうにもなかった。変な時間にケーキなんて食べてしまったせいかもしれない。
ぬるい水道水で、歯を磨き顔を洗いながら色々なことを考えていたら、無意識に鏡に手を当てていた。今日――まだ今日だった――の出来事、散らばったガラスの断片の中の一つを脳が拾い上げる。
スリーシェが元から特別だったのか、アキリア達と一緒に過ごしていたからか分からないが、とにかく保護された人造体は、スリーシェとは様子が違っていた。
もとは面談室だったのか、ソニ達がいた部屋の半分ぐらいの広さの透明なパーテーションで仕切られた部屋だった。プラチナブロンドに近い髪色の少女は痩せていて、病み上がりのような頼りなさがあった。挨拶してみても、少女の視線は床に近い場所をふらふらと彷徨っていて、何か呟こうとする様子はあっても一言も喋らなかった。職員曰く、彼女が特別引っ込み思案なのではなくて、大多数の人造体が少女と同じ状態らしい。踏みこんだ質問でもすれば良かったのかもしれないけれど、見ている人がいるのもあって躊躇ってしまった。
会話が上手く行かずこちらの気が滅入ってきた時、何気なく少女がパーテーションに手を当てた。思わず同じ場所に手を触れた。温もりは伝わってこなかった。ふと正気を取り戻した色素の薄い茶色の目は、アキリアへ何かを訴えかける前に何かに翳らされ、離れていった。
それだけだ。何か掴めたようで、何も掴むことができなかった。
通じ合いたいというのが間違いなのだろうか。アキリアからも向こうからも、手を伸ばせど届かない心の距離を感じた。
我に返って鏡から手を放したけれど、そうするとまたグレイの事が気になってくる。
いつも一人黙り込んで何か考えているのかいないのか分からないような顔をしている癖に時々突拍子も無い行動に出て周りをぎょっとさせるのが彼である。今は何を考えているのだろう、と下の階の住人の事をぼんやり思っていたせいで、中途半端に水栓のレバーを上げていたらしい。だらだら細く水が出ていることに気がついて慌てて止める。
部屋は電気を消しても外の光がカーテンから入り込んでくるせいで完全な闇にはならない。アキリアはベッドの上に倒れこんで腕で顔を覆った。
一目見ただけでスリーシェの容姿に惹かれる人は少なくないだろう。アキリアだって、あの日背中に翅を持つ美しい少女を間近に見た時の感情は一生忘れることはできない。けれど、グレイが彼女の手を取った理由はそれだけではないはずだ。
彼自身気がついていないであろう事に、いつも隣にいるアキリアは気がついていた。多分カルラも何となく気が付いているだろう。まだ幼さの残る彼の瞳の奥深くには、澄んだ深い水の底の流れがふいに乱れた時に巻き上げられる砂のように、時折投げやりと諦めに似た不穏なものが浮かぶ事がある。イレッタの地下で、物怖じせず進んでいった勇気やアキリアへいつものように向けてくれた穏やかな優しさは、自分の事を顧みようとしない彼の危うさでもある。
人造体のスリーシェ達の命の脆さや危うさに、グレイが本当の所何を感じているのかは分からない。けれど、スリーシェを見つけたあの日からグレイの内にもあった不穏な危うさが増しているような気がする。それはまるで――
「……はあああ」
アキリアはわざと声を出して部屋の静寂を打ち破る。
もし、グレイの事を一番理解できるであろう自分が、彼を支えられたら。彼のそんな危うさを、受け止められるような人間であれたなら。
きっと、こんなことにはならない。
それなのに実際はグレイに頼ってばかりいるし、いつも彼の後ろに自分から回ってしまっている。つくづく駄目な人間だとその度に感じている。カルラの強さの欠片でも自分にあれば少しは変われるのかもしれないけれど。
そう、私はもっと変わらなきゃいけないのに。
変わりたいんだけどなあ。
そんな事を考えながらいつの間にか眠りの淵に落ちていったアキリアを携帯の着信音が叩き起こしたのはそれから数時間後の事だった。
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